R・M・ネシー J・C・ウイリアムズ「病気はなぜ、あるのか 進化心理学による新しい理解」

 [新曜社 2001年4月15日初版]
 

 ハンフリーの「獲得と喪失」id:jmiyaza:20060315の原注で知った本。5年前に発行されているのに不明にしてその存在を知らなかった。恥ずかしながら、ここに書かれていることの八割を知らなかった。告白すると(などと大袈裟にいうこともないけれども)、鉄分が人間ばかりでなく細菌にとっても必須の物質であり、細菌の宿主となる生物は細菌に鉄分をあたえまいとする膨大なメカニズムを備えているということなどまったく知らなかった。尿酸が強力な抗酸化物質であるということも知らなかった。それで医者をやっていたのだからいやになる。
 でもなぜそういう情報がわれわれに入ってこないのだろう? 鉄分不足が貧血の一番ありふれた原因であり、それが鉄剤の投与で簡単に治ることは医者なら誰でもしっている。あまりに簡単に治るので、鉄欠乏性貧血は医者から見るとほとんど病気とも思えないくらいである。ただ医者が気にしているのは、鉄欠乏性貧血が悪性腫瘍などによる出血に起因しているのに、表面にでている貧血の治療だけをして一見状態が改善することにより、奥に潜んでいる貧血の本当の原因を見落としてしまうこと、それだけである。鉄剤を投与することが、患者さんの体内にいる細菌に援軍をおくることにもなる可能性というようなことは考えてもいない(少なくもとわたくしはそうであった)。
 尿酸高値が動脈硬化の危険因子であるかどうかということは議論の的であり、痛風発作さえなければ尿酸高値は放置していいのではないかという議論に対して、動脈硬化予防のためにもコントロールすべきであるという反論が尿酸専門家からでることが多い。しかし、尿酸高値がその抗酸化作用により長寿と結びつくのではないかという議論には、この本を読むまで接したことがなかった。
 わたくしの憶測に過ぎないが、どうも製薬資本の思惑というのがからんでいるのではないだろうか? 上記の議論は増血剤や尿酸降下剤の投与を増やす方向にいく議論ではない。そうだとすれば、そういう情報はどうしても遮断されやすいのではないだろうか?
 それは憶測に過ぎないから措いておくが、本書のテーマである「人はなぜ病気になるのか、そもそもなぜ病気というものがあるのか、なぜわれわれに寿命というものがあるのか不死でないのか」というような問いについては、考えたこともなかった。そういうものでしょう、としか思っていなかった。つくづくと、医者というのは至近要因のみを考え、究極要因については考えないように訓練されてきているのだということを感じる。本当に本書では目から鱗の議論が多かった。
 
 以下話題をひろっていく。
 わたくしは性比が1:1になっているのは、男から子にX染色体とY染色体がいく確率が五分五分であるからと思っていた。しかしこれは典型的な至近要因の議論なのだそうである。もし性比が1:1ではなく、たとえば男:女が10:1であったとする。そうすると女のほうが圧倒的に有利である(女のほうがたくさん子孫を残せる)。とすると女をたくさん生むような仕掛をつくれば進化的に有利である。とすればその仕掛が淘汰で生き残り、女が増えてくる。よって性比は1:1に収斂する、というのが正しい究極要因からの説明なのだそうである。これは1930年にフッシャーという人が提出した考えなのだそうである。またしても知らなかった。これは群淘汰が間違いで、遺伝子淘汰が正しいことの一つの傍証になるらしい。もし群淘汰が正しいとすれば、たくさんの雌と少数の雄がいればいいことになる。なぜなら、雄は短期間にたくさんの雌を妊娠させることが可能だから。
 次に上記の鉄分の話。慢性の結核患者は血液の鉄分が低く貧血であることが多い。貧血を治せば抵抗力が増えるだろうと考え鉄剤を投与すると、患者はしばしば悪化する。そういうことが、低開発国における善意の医療では、しばしば見うけられるのだそうである。栄養が悪いと血液中の鉄結合蛋白(トランスフェリン)濃度も低く、投与された鉄分を自分で利用できず、フリーの鉄分が大量に細菌に利用されてしまうのだそうである。
 感染がおきるとある種の化学物質が放出され、それは発熱をおこすとともに血中の鉄分を減らす、そういうメカニズムが動物には備わっているのだそうである。
 西洋医学史を読むと過去の野蛮な医療行為の例として、必ず瀉血療法の話がでてくる。著者らによれば、ひょっとするとこれは鉄分を下げることによって、治療として有効に働いていた可能性もあるという。最近、C型肝炎の治療の一つに瀉血療法がでてきている。なんだか野蛮な治療がでてきたなあと思っていたのだが、細菌にばかりではなくウイルスについても鉄分の制限がその増殖阻止に有効なのだろうか?(ウイルスはその構造からいっても増殖に鉄分を要するということは考えにくく、現在想定されている機序は、過剰な鉄による細胞膜障害のようであるが) 肝臓は体内の鉄分の貯蔵庫なのであるから、肝疾患と鉄分というのは大いに関係があるのかもしれない。
 鉄分の補給が感染症患者に危害をもたらすかもしれないということは医者の11%しかしらないそうである。わたくしは残りの89%であったわけである。
 外部寄生虫は人類史の大半において重大な問題であった。動物がおこなう毛づくろい(グルーミング)はノミやダニ・シラミなどの感染予防にきわめて重要なのだそうである。わたくしは蚤とりは実用的行為であり、グルーミングは身体接触による友好性の確認といった社会的な行為であるとばかり思っていた。
 われわれが痛みを感じること、悪いものを食べたときに嘔吐し、呼吸器感染で咳をし、消化器感染で下痢をし、尿路感染で頻尿になるといったことはわれわれが病気とたたかうための重要な対応法であった。現在の医学で抗癌剤が吐き気をおこすのは当然なのである。それは毒なのだから。
 くしゃみや咳・嘔吐・下痢などはわれわれからみれば、異物排出メカニズムでもあるのだが、同時に、細菌などの側からみれば、自分たちの伝播手段でもある。
 月経は子宮の浄化メカニズムではないかという見解が近年いわれている。生殖行為はまた感染のチャンスでもある。たまにしか生殖行為をしない種では月経は軽微であるのだそうである。人間は頻繁に生殖行為をおこなう種であるので月経が重い。
 かつての歴史において、致命的な病気にかかる最適な場所は病院であった。ゼンメンワイスが手洗いを奨励するだけで、産褥熱が大幅に減ったことはよく知られている。
 不衛生な習慣や貧困が結核の原因であるとよくいわれているが、これは大勢の人が長時間、屋内で一緒にいるような生活習慣の発達、つまり都市化ともふかく関連している。結核菌は紫外線に弱いので屋外での感染はおこりにくい。
 現在の感染症は過密な接触に依存するものが多いが、過去の感染症は媒介動物によるものが多かった。
 小児麻痺は1歳以下でかかるとほとんど麻痺が生じない。衛生環境の悪い時代にはほとんどが1歳以下でかかっていた。衛生環境の改善により、幼児期後半まで感染チャンスがなくなるようになったため、重症の患者が増えてきた。
 代謝が活発な組織は毒に弱いので当然胎児は毒に弱い。その胎児の成長期での毒に対する感受性の程度と母親のつわりの程度はほぼ正確に比例する。つまりつわりは胎児を毒からまもるための適応なのである。
 ハンチントン舞踏病のように中年以降に発症する病気は生殖に影響しないので淘汰されない。心臓発作のおきやすさはかなり遺伝するとかんがえられているが、これも通常50歳以降におきるので淘汰されない。
 近視は遺伝病であるが、幼少時に本を読んだりする(つまり学校に通うようになる)習慣ができるまでは表にでなかった。
 過去数百年で平均寿命はどんどんと延びてきているが最高寿命は115歳くらいとほとんど変わらない。加齢あるいは歳をとると身体が衰えてくることは病気なのだろうか?
 繁殖可能な最高年齢からあとに有害である事象には淘汰はかからないはずである。たとえば骨を強くするようにカルシウム代謝を調節する遺伝子が同時に血管にカルシウムを沈着させるとする。これは若い人間に有利に、年寄りに不利になる。このような遺伝子は生き延びる。閉経の存在は加齢による障害児の出生率の上昇と現在いる児を世話することの利点の天秤できまるのかもしれない。ラットやマウスの食餌を制限すると寿命が30%延びる。しかし食餌を制限されたラットは生殖しない。交尾さえしない。
 現代において阻止可能な病気のほとんどが脂肪過多な食事の影響であると考えられている(虚血性心疾患、がん、糖尿病など)。平均的なアメリカ人はカロリーの40%を脂肪からとる。狩猟採集民族は20%以下である(因みに、日本では25%以下だそうである・・・柴田博「中高年の健康常識を疑う」講談社選書メチエ2003年12月による)。
 倹約遺伝子をもつひとびとによい栄養をあたえるとあっという間に肥満と糖尿病がおきる。
 人類進化のすべての時期になまけられるならばなまけることは適応的であった。
 IgE抗体は現在社会ではアレルギーをおこすことしかしていないように見える。こういうものがなぜあるのか? 寄生虫とたたかうためという仮説がある。アレルギーがあるひとは癌にかかりにくいというデータもある。いずれにしても本当のことはまだわかっていない。花粉症は1830年以前には地球上に存在しない病気だった可能性がある。カーペット生活の普及がダニアレルギーを誘発したのが関係しているかもしれない。腸内寄生虫がほぼ絶滅されてしまったためIgEが無害なものを攻撃しているという考えもある。
 癌の原因としてまず遺伝がある。乳癌や大腸癌において特にそうである。細菌感染やウイルス感染は感染した組織を癌にかかりやすくする。高脂肪の食事も癌を引き起こすといわれている。喫煙についてはいうまでもない。
 女性の癌のかなり多くは女性の繁殖パターンの変化に起因する。女性生殖器系の癌のかかりはすさはそれまでに経験した月経周期数と比例する。初潮が早く、閉経が遅く、妊娠しない女性がもっとも危険である。狩猟採集期の人類とくらべ現代女性は2〜3倍の月経周期を経験している。
 なぜ有性生殖があるのか実はよくわかっていない。それへのコストを上回る進化上の利点がなかなか見出せないのである。最近、病原体との戦いにおいて有性生殖が提供する個体の多様性が有用なのではないかという議論がでてきている。
 トリヴァース以来、親と子の葛藤という問題、母親と胎児は利害が対立するという観点は真面目な学問的検討の対象となっており、多くの成果を生んでいきている。胎児はhPLを産生することで母親の血糖をあげさせようとし、妊婦は大量のインスリンを分泌してそれと対抗する。そのため妊婦のインスリン濃度は時に正常の千倍にもなる。妊娠中の母親の高血圧も母には迷惑であるが、胎児には利点がある。
 児はなるべく長く母親に授乳をしてもらいたいし、母親は(進化的観点からみれば)ある時点からは次の児を得たい。そこにも争いがある。
 新生児黄疸も児には利点があるという見方がある。ビリルビンが抗酸化作用があるからである。それならばそれを治療することの利点と損失の双方を考えなければならない。
 
 次に精神医学の問題が論じられる。これは本書の白眉でもある。著者の一人はもともと精神科医であり、精神医学の現状に納得できないことから、進化医学の研究に進んだらしい。わたくしも精神医学の現状に納得できないというか、どうも奇異に感じてきていたところがあるので、この部分は詳しくみてみたい。
 精神医学はここ数十年の間に「医学モデル」へと急速な転換をしている。こころから脳へという転換である。それは1950年代以降、抑うつ、不安障害、統合失調症などについて有効な薬が次々と発見されてきたことに起因する。
 さて、うつ病統合失調症は肺炎や白血病と同じ医学的な病気なのだろうか? 精神障害の症状は、発熱や咳と似た防御なのではないだろうか? それであれば、それは進化上ヒトに有益であったのではないだろうか? 
 不安とは正常な反応なのではないだろうか? それは自然淘汰によって適応的に出現してきたものではないだろうか? それをもつことで生物は特定の状況に効果的に対応できるのではないだろうか? 感情は「心の適応的アルゴリズム」なのである。捕食者からねらわれていないか?、集団から阻害されていないか?、配偶のチャンスがあるかということは進化上決定的に重要であったので、それに対する正の感情、負の感情が形成されることは適応的であったのである。
 1929年にキャノンがすでに、逃げるか闘うかという場面で動物の生理機能機能の変化を詳述している。どういうわけか不安というようなものには言及していないのであるが。
 不安は余計なカロリーを消費させる。それの消費を不必要におこさないためのメカニズムが存在している。多くの状況においては本当に不安になるべき状況であるのかどうかははっきりしない。しかし、生物は殺されたらお仕舞いなのであるから、うその警告であっても利点がある。
 過剰に不安である人の対極に過剰に不安でない人もいるはずであるが、そういう人は精神科ではなく、救急病棟に運ばれたり、失職したりしているのである。
 うつ的な心理状態は何か進化上の利点があるだろうか? 何かを失ったとき、その原因となった行動を今後しないようにすることは利点であるかもしれない。
 ある種のサルで、最高順位のサルはセレトニン濃度が他の2倍あるが、地位を失うとすぐに低下することがみいだされている。うつ的になるのである。しかし、それは抗うつ剤で解消できる。逆に集団から最高順位のサルをとりのぞき、集団の任意のサルに抗うつ剤を投与すると、それが最高順位のサルとなる。
 ローレンツの有名な刷り込みと同じように、母親の児への初期の対応は、その後の児の心理に影響している可能性がある。
 親による子殺しは血縁のない児に対するものが、あるものへの70倍も多い。これはサルなどにみられる子殺しと関係しているかもしれない。
 われわれは支えあう集団のなかに自分のいる場所を見出さないと生きていけない生物なのである。
 統合失調症がなぜ進化の過程で保存されてきているのかははっきしない。
 現在は、精神障害を理解するのよりも治すほうが容易であるという奇妙な時代になっている。
 現在の精神医学は、一見科学的になってきているように見えるが、実は「咳障害」とか「咳症候群」とかいう病名を発明しているのに近い。咳の回数が多いとか、頻繁であるという観察から「咳症候群」という病名をつけ、咳をおこす脳の部分、咳にかかわる胸郭の筋肉あるいはそれらをつなぐ神経回路を研究し、それを沈静させるにはどうしたらいいのかを研究しているようなものである。しかし、咳は何か対する反応なのである。その原因に対応しなくては意味がない。不安も同じく何かに対する反応なのであるとしたら、不安がおきたことにより生じるさまざまな変化を詳細に検討することで終わっていいのだろうか? 不安がおきる原因、不安がおきるメカニズムの研究こそが大事なのではないだろうか?
 現在の精神医学の方向が続くならば、明らかな脳の障害による疾患を治療できるだけである。精神医学が目指すべきものは感情の機能の研究であるはずである。他の身体疾患における生理学にあたるものが感情機能の研究なのである。その上ではじめて精神医学の病理学が構築可能となる。
 
 以上の議論は、現在精神医学、とくにアメリカ精神医学における「精神障害の診断と統計マニュアル」(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)(DSM)による診断に対してわれわれ(すくなくともわたくし)が感じる非常に奇妙な感じとよく対応しているように思う。これはスキナーなどの行動主義心理学に対してわれわれが感じる違和感と対応しているのではないかと思う。心理学といいながらどこにも心理はないのではないの?という違和感である。同様に、DSMを見て、このどこにもこころはないんじゃないの、という感じをもつのはわたくしだけであろうか? DSMがでてくるにはそれなりの理由があるのであろう。精神分析学のあまりの非科学性、非有効性ということがその基礎にあるのであろう。
 実際、カウンセリングなどというのは大部分の場合、ほとんど役に立っていないか、多くの場合、患者さんを悪くしているだけ、ということはわたくしのような精神医学を傍らから見ている医者の多くが痛感しているところであろう。そんな役立たずのものより役にたつ薬があるではないか!ということなのであろう。しかし、それでしていることといえば対症療法なのであるということも、ここで書かれているようにまた事実なのであろう。対症療法でもできるようになっただけ増しである。今までは何もできなかったのだから、ということはあるのであろうが。
 抗生物質などが開発されたことにより、「時に治し、しばしば助け、常に慰め」などという姿勢が医療の現場からほとんど失われたように、向精神薬の開発により、患者さんのこころへの配慮というものが精神医学から失われてしまったとしたら、医療の場は身体医学だけになってしまうことになる。
 実際には優秀な精神科医は、患者さんの感情に対して豊かな感受性を持ち、患者さんの時系列的な変化(DSMではほとんど考慮されていない)に敏感に対応し、介入すべき時と待つべき時を判断し、向精神薬から医者という権威までのあらゆる資源を動員して、個々に対応しているのであろう。しかし、そうであれば、それはほとんど一個の芸術作品とでもいうべきものになってしまう。もう少しなんとかならないものなのであろうか?
 とはいっても、ここで著者らがいっている感情の機能の研究というのは具体的にはどうしたらいいのであろうか? 進化の過程で感情機能がはたしてきた役割を知るというような方向が有効なのであろうか? それとも人文科学を総動員するのであろうか? そもそも文学というのは感情の機能の研究そのものではなったのだろうか? あるいは、そもそも、精神あるいはこころというものが医療という枠をどうしても超えてしまうところにあるということなのであろうか?
 
 最終章は「医学の進化」と題されている。
 医学は実学であり、役に立たないことには関心がない。進化的説明は今のところ病気の予防や治療にどう結びつくかはっきりしない。医学の領域には生気論への嫌悪というものがある。また目的論も否定したい。少なくとも自分の議論の範囲にはいれたくない。どうしても進化論の説明は目的論に見えてしまう。それが医学において進化的見方が嫌われてきた大きな理由の一つであろう。
 しかし、病気がそもそも悪いものであるのか? ということをふくめ進化医学の射程は広いし、進化の光をあてない限り、医学の何一つも意味をもてないのである、と著者らは結論する。
 
 わたくしもまた心気論的なものへの嫌悪というか警戒をもつものの一人である。心気論を否定する最大の拠り所は進化論であると思うのだが、同時に進化論はある機能がなんのためにあるのかという目的論をも呼び込んでしまう。至近要因のみを論じる医学はなぜということを問わない。どうして糖尿病状態になるのか? インスリンの作用の不足による。どうしてインスリン作用の不足がおきるのか? それは・・・・、と論が進むが、われわれにとって糖尿病というのがどういう意味をもつのかということは説明しない。それを説明できる可能性をもつのは進化論的な見方だけなのである。
 本書を読んで痛感したのは、わたくしが学生時代にこういうことを知っていれば、自分の医療への見方も随分と違っていただろうということである。しかし、わたくしが医学を勉強していた今から40年くらい前にはダーウィン医学などというものはほとんど影も形もなかったのである。それなら、現在の医学生はそういう教育を受けているのだろうか? 本書を読む限りそれは今でもほとんどないようである。医学の教育というのが著しく病態生理学に偏っていて、このような分野は顧みられないのであろう。
 しかし本書の原著の刊行は1994年、翻訳の刊行が2001年である。それを知らずにいたわけである。これから何とか取り戻せるであろうか?


病気はなぜ、あるのか―進化医学による新しい理解

病気はなぜ、あるのか―進化医学による新しい理解