N・ハンフリー「喪失と獲得 進化心理学から見た心と身体」(4)


 第7章「洞窟絵画・自閉症・人間の心の進化」
 今から約3万年前にかかれたとされているショーヴェの洞窟絵画はそのきわめて写実的な描写によってよく知られている。ここに人類の歴史においてようやくわれわれの心性と通じる祖先が出現したことの証拠とされることが多い。しかし、そうでない可能性もあるのではないかとハンフリーはいう。その論拠として氏が持ち出すのが、1970年ごろになされた自閉症児ナディアによって描かれた絵画とショーヴェの洞窟絵画がきわめてよく似ているということである。本書にしめられている両者の絵はたしかに氏の主張を裏打ちするようにみえる。
 ナディアの描いた絵は通常の幼児の絵とはまったくことなっている。幼児の描く人間は二つのまるから4本の棒がでているだけというようなものが多い。ところがナディアの絵はきわめて写実的、自然主義的なのである。
 洞窟絵画の歴史はおよそ1万1千年前で終わる。新たな絵画の出現はそれから5千年ほどしてからアッシリア、エジプトなどであらわれるが、月並みで子供っぽくステレオタイプなものである。歴史をたどるならば、洞窟絵画の自然主義に匹敵するものはヨーロッパではイタリア・ルネサンスまであらわれないのである。
 さて、自閉症児ナディアはほどんど言語能力をもっていなかった。そして後年彼女に言語をふくめた教育をしたことによって絵画能力は相当程度失われてしまった。
 以上のことからハンフリーが引き出す仮説は以下のようなものである。
 《ショーヴェの時代の人類はたとえ言葉をもっていたとしても、われわれの使い方とはまったく異なっていたのではないか? 他の人間との個人的な関係調整だけにそれは用いられたのではないか? その時代にはバイソンやマンモスという抽象的な類的な概念はなく、あるのは個々にいる生き物だけだったのではないか? ナディアの絵がきわめてリアルであるのは、通常の幼児たちとことなり、犬や猫や馬を見るのではなく、個々の生き物をみているからなのではないか? ソシュール丸山圭三郎的な言い方をすればid:jmiyaza:20060321#1142906101、「世界を言葉で分節せず」見ているからなのではないか? アッシリア、エジプト時代にはヒトは概念で外界を見るようになっていた、「世界を言葉で分節して見る」ようになっていた。それでリアルにものをみることができなくなってしまった。われわれはイタリア・ルネサンスの時代になってあらためてリアルにものを見るということを学びなおさなければならなかった。われわれは詩を得た代償として、ショーヴェの絵画を失ったのである。》
 このハンフリーの仮説はきわめて大胆なものであるので、多くの反論がありうるであろう。しかし、われわれが(少なくともわたくしが)想定している言語能力=抽象概念能力という図式は決して自明なものではないことを指摘している点できわめて生産的な仮説であるように思われる。
 ショーヴェの時代の人間には、外界は「嘔吐」でのロカンタンに見えていたような世界だったのだろうか?
 「獲得と喪失」という題名がわかりにくいのだが、われわれが概念能力を得ることで、また失ったものもある、という含意なのであろう。あるいはあることを失ったことで、あることを結果的にえることになる、ということでもある。
 その例としてハンフリーが、次章「奇形の変容」であげるのが、体毛の喪失と火の獲得である。それは結果として、火のまわりに集まる集団という社会的絆という恩恵までもたらした。
 もう一つ氏があげるのはチンパンジーが超人的な「写真的記憶力」をもっているということである。人間はあるとき体毛を失うのと同じようにチンパンジー的記憶力を失った。その結果やむをえず、概念把握・抽象的思考という代替策を採用し、これは結果的に法外に有用であることがわかったというのである。サヴァン症候群の一部に驚異的な記憶力の持ち主がいることはよく知られている。
 記憶と抽象的思考能力はトレード・オフであるというハンフリーの説明は、記憶力に劣等感を抱き続けている(だから、このような備忘録を作っている)わたくしにとってはうれしい話ではあった。しかし、前世紀最大の理科的知性の持ち主であったかもしれないフォン・ノイマンは同時にとんでもない記憶力の持ち主でもあったようである。やはり知力と記憶力は比例する部分もあるのではないだろうか? 


喪失と獲得―進化心理学から見た心と体

喪失と獲得―進化心理学から見た心と体