N・ハンフリー「喪失と獲得 進化心理学から見た心と体」(5)


 第13章 人間を見よ―人間性と超自然信仰
 著者のハンフリーはケンブリッジ大学のある講座の特別研究員となる。その講座は英国心霊研究協会からの基金によるものであった。それでハンフリーは、「超常現象の原理主義」の伝道者の心理的履歴の研究をした。その結果報告がこの章である。その伝道者とはイエス・キリスト
 さて、聖書の記載によるイエスの奇跡は、当時の古代社会で広くおこなわれていた奇術の実演そのものであることは、聖書学者もみな認めるところである。
 それでキリスト教の注釈者は、イエスの奇跡はお金のためではなく、宗教的畏怖を吹き込むためであった点で他の奇術師と異なるというような弁明をする。
 イエスの人格形成期はきわめて異常である。彼は揺籃期から特別なものであると扱われていた。若者が両親に深く愛され、自分が特別な能力があるように思い込み、自分が世界を救うために生まれたと夢想するようなことは、思春期にはありふれたものであるかもしれない。しかし、イエスが生まれた当時、イスラエルには救世主の降臨を願望する空気が強くあった。
 旧約に書かれた預言のいくつかをイエスはみたしていたのかもしれない。ヨセフとマリアはわが子イエスをそのようなものと本当に思ったかもしれない。とすればイエスもまたその期待に応えようとしたかもしれない。
 しかし彼は本当に超常能力を持っていたわけではないのだから(ハンフリーの仮定)、はじめはそのふりをしただけであろう。やがては、でっちあげることをはじめたであろう。しかし、自分を欺くことはできない。
 さて、あるときイエスは、ごまかしなしに自分の意図を達成できることを経験する。イエスを本当の救世主と思いたいとりまきが奇跡の成就を助けたとすれば、それが可能になる。これはスプーン曲げ少年などの事例で実際に観察されていることである。するとイエスは本当に自分には奇跡をおこす力があると信じるようになる。
 治癒者としてのイエスという側面がある。プラシーボ効果id:jmiyaza:20060315について知っているわれわれはもはやそれを奇跡とは見ない。事実イエスは多くの治癒をなしたであろう。そしてそのことによりイエスはますます自分が選ばれたものであることを信じるようになったであろう。
 であるから、イエスが十字架の上で、「エリ、エリ、レマサバクタニ」と叫んだのは本当のことを言ったのである。「私の神よ、私の神よ、なぜ私をお見捨てになるのか」
 
 以上がごく大雑把なハンフリーの説明である。
 そうなのかもしれないなとは思う。ハンフリーがいうように、われわれには自然法則に屈したくないという思いがある。それがわれわれに超常能力を希求させるのだというのもその通りなのかもしれないなと思う。
 それでも、こういう文を書くハンフリーには宗教、とくにキリスト教というものへの途方もない悪意があることを感じる。本当に嫌いなのだろうなあ、と思う。
 別にハンフリーがこんな文章を書いても書かなくても、信じる人は信じるし、信じない人は最初から信じないであろう。
 大して美しくもない人に恋して、その人を絶世の美人であると思っているひとに、客観的にいって、あの人は美人ではない、などというのは余計なお世話であるような気もする。
 結晶作用で何か美しいものができたとすれば、その結晶のもとは大したものではないとか、結晶が美しくみえるのは目の錯覚みたいなことをいうのは、生産的なことではないような気もする。
 そういう風に思うのは宗教の風圧がずっと弱い場所で生きているからかもしれないが・・・。


喪失と獲得―進化心理学から見た心と体

喪失と獲得―進化心理学から見た心と体