V・S・ジョンストン「人はなぜ感じるのか?」

  [日経BP社 2001年6月4日初版]


 ダマシオの本id:jmiyaza:20060402と同じように、認知にはたす感情の重要性について論じている本であるが、ダマシオのものとくらべてより進化からの観点が重視されている。ダマシオのものほど主張が強い本ではなく、心理にはたす感情の役割について、読者に納得していもらうことを目的とした啓蒙書の色彩の強い本である。

 議論の出発点は、物理的世界と心的世界の関係である。
 現在の認知科学においては、コンピュータモデルと人間を比較する「ドライな認知科学」と、損傷脳のおこす症状や、脳の活動時の画像の変化を調べたりする「ウエットな認知科学」の二つの方向がある。
 前者の例としてはチョムスキーの「普遍文法規則」があり、現在ではピンカーなどがその方面の旗手となっている。その立場にたてば、われわれの内的な経験、主観的な経験は問題にされない。それらはわれわれの認知の過程でおきている現象であるのかもしれないが、われわれはそういうものなしでも認知をすることは可能であるので、いわば付随現象にすぎない。まして感情など問題にもされない。
 一方、「ウエットな認知科学」においては、われわれの経験の本質をわれわれ内部の化学変化におく。感覚や感情は脳の物理的構造や化学反応に由来すると考える。眼球の網膜になんらインプットがなくても、夢でわれわれはりんごの赤を見る。
 音とか色とかは外界には存在せず、神経細胞の配列と相互作用の結果として出現する「創発的性質」であるとする。
 しかし、なぜそのような創発的性質がなければいけないのかというチャルマーズがいう「ハード・プロブレム」が生じる(「ドライな認知科学」ではこの問題は無視しうる)。著者のジョンストンはそれに答えるために「進化的機能主義」の立場をとる。この立場は、淘汰が「創発的性質」に対して働いているという点から説明していこうとする。心も創発的性質の一つであり、それが生き物の生存価を高めたが故に生き残ってきたと考える。
 酵素は機能的性質を果たすようになるまではただのタンパク質である。それが例えば消化という(創発的)機能を促進するようになれば、それは将来の世代に拡散していく。
 砂糖が甘いのだろうか? 砂糖には甘いという属性があるのだろうか? 砂糖はただの物質である。それを必要とする生物は、それを快と感じることで生存価があがる。その快をわれわれは甘みと感じるのである。甘みは砂糖の中にあるのではない。それは進化の過程でわれわれの脳の中に生じた創発的性質なのである。脳がなければ、光も匂いも味も存在しない。
 進化論は一回性のできごとについての説明であるという弱点を持つ。それを再現することはできない。しかし、それを補強するものとして、コンピュータ・シミュレーションがある。
 われわれは、世界を正確にみるようにはデザインされていない。われわれの生存に重要であるものを重点的に見るようにデザインされている。
 免疫の過程を考えてみる。最初、抗原が侵入するとそれにフィットするB細胞は急速に細胞分裂をおこす。この増殖段階では非常に高率に突然変異がおきる(他の細胞の百万倍以上)。したがって最初よりもずっと抗原によりよくフィットする抗体がかならず出現してくる。これが将来の二次感染を予防する。最初の大きな枠組みは遺伝によって規定されているが、あとの過程は個体の一生の間にだけおきるので、次の世代には受け継がれない。後者はわれわれの学習過程を示している。
 脳も免疫も、種の歴史の中でまだであったことがない事象への対処を可能にするものとして存在している。それでは、それらの学習がうまくいっているかどうかの評価はどのようになされるのだろうか? それをしているのが感情なのではないか、というのが著者の仮説である。
 著者は情動(好き、嫌い、誇らしい)とアフェクト(空腹感、渇き、痛み、甘さ)を区別する。この両者ともに快・不快をともない中立的ではない。感覚は長い時間をかけて獲得された神経組織の創発的な性質である。よりよく繁殖できるような感覚を発達させた生き物が生き延びてきた。
 われわれがもつ感情にはさまざまなものがあるということは、われわれの繁殖戦略には多くの方法があることを反映しているのかもしれない。感情自体がわれわれにかわって考えてくれているのである。
 驚きという感情だけは快・不快と関係がない。それは他で生じている快・不快の感覚を増幅するだけである。
 快楽という感覚は内側前脳束の活性化が最も大きな役割を果たしている。
 感情の処理は進化的に初期の哺乳類の段階で発達した部分で担われる。マクリーンは、それに相当する辺縁系という「古い哺乳類」に起因する部分が、爬虫類に由来する原始的な運動システムと、思考や推論をする「新しい哺乳類」に起因するシステムを仲介しているとした。
 感情的脳−帯状回−考える脳、感情的脳−内側前脳束−運動脳というかたちで、感情脳は考える脳と運動脳をつないでいる。
 側頭葉を切除すると恐怖と怒りの感情が一切消える(クルーヴァー・ブシー症候群)。恐怖反応には扁桃体が大きな役割を果たす。これは辺縁系の主要部分であり、クルーヴァー・ブシー症候群をおこすために破壊される主要部分でもある。
 内側前脳束への刺激は報酬と同じ効果をもつ。ここはドーパミンを側座核に放出することにより運動脳を刺激する。すべての快楽の感覚にはドーパミンの側座核への放出がかかわっている。コカイン、アンフェタミン、アルコールなどの効果も最終的にはドーパミンの側座核への放出によることがわかっている。
 もしも甘さが砂糖の中にはないのであれば、美もまた対象のなかにはないのであろうか? 女性のウエストとヒップの比が 0.7 であることは、歴史を通じて美しいとされてきた。この比をもつ女性はもっとも繁殖能力が高いことがわかっている。われわれはもっと多くの子孫を残す女性を美しいと感じたものの子孫なのである。
 ひとはしばしば合理的に判断せず、感情にまかせて行動するといわれる。しかしひとの感情による意思決定は生物学的利益というある点きわめて合理的な目的にかなっているのである。われわれは自分と快楽原則を共有しないひとの決定を不合理であるとみなす。
 
 本書を読んでいて昔読んだ本あるいは考えかたをいろいろと思い出した。
 砂糖には甘みはないというのは、バークレー僧正の「誰も見ていない場所で倒れた木は音をたてない」という議論につながるものなのではないだろうか? バークレーの論は観念論の極致であり、外部世界の否定につながるものであると思っていたのだが、こういうかたちで蘇ってくるとは思わなかった。
 またこの考えはポパーの「世界3」を否定するものでもあるように思える。ポパーは客観世界の擁護を主張する。本書での議論は客観世界を否定するわけではないが、客観世界とは単なる物理世界、意味のない世界である。《読まれない本は黒いしみのついた紙のたば》の世界である。ポパー流にいうならば、砂糖はわれわれに甘いと感じさせる潜在能力をもっているがゆえにその内部に甘みという潜性をもつというようなことになるのではないかと思う。われわれはりんごを美味であると感じるが猫はそうではないらしい(猫がそういったわけではないが)。それはわれわれはヴィタミンCを体内で生成できないが、猫はできるからなのだそうである。
 ケストラーの「機械の中の幽霊」(ペリカン社 1969年 原著1968年)を思い出した。本書でもとりあげられているマクリーンの3つの脳(爬虫類の脳−古皮質、下等哺乳類の脳−中皮質、後期哺乳類の脳−新皮質)仮説に大幅に依拠している本だからである。ケストラーのこの本は人類が狂っているという悲観で一貫しているが、それはそうあるべきとケストラーが考えるような理性的存在では人間がまったくないと考えるからである。古い脳、下等生物の脳を新しい脳が制御できず、人間は3つの脳が分裂したままで生きざるをえないと、ケストラーは考えている。
 ケストラーが「機械の中の幽霊」を書いたころとは脳科学の分野の知見は一変してしまっているように思われる。ケストラーがほとんどてんでんばらばらに行動していると考えていた3つの脳の相互関係が明らかとなり、新しい脳が働くためにも古い脳の存在が必須であることが次々と明らかになってきている。
 ケストラーのころとは見方が正反対になってきているようにも思える。新しい脳の活動をぶち壊しにする古い脳という見方から、新しい脳を暴走させず地についたものとするための古い脳といった見方へである。脳といっても、合理的思考をつかさどるものとしての脳ではなく、生命全体を司る脳という見方への転換である。
 ケストラーによればわれわれが感情的であり続けることは人間の悲惨の根源なのであるが、本書の主張によれば、われわれがもし感情をもたないならばわれわれの生にはほとんど意味がないのである。要するに「生きる喜び」というようなものは感情なのであり、理性からもたらされるものではないのである。
 ケストラーが悲観的であったのは、われわれはしばしば他民族の皆殺しというようなことに「生きる喜び」を感じるような存在であるからであった。ケストラーは何らかの向精神薬を飲料水の貯水池に混入するというような方策を人類救済のために考えるまでになっている。
 身内とよそものを別のものとして区別するという考えは、狩猟採集時代のヒトが百人前後の集団で暮していたときには淘汰上有利であったことの名残であるとする説明がしばしばなされている。そうであればこれは、ウエストとヒップの比が 0.7 である女性を美しいと思うくらい人間に骨がらみのものであることになる。それを文明によって克服することはできないのかもしれない。それでも、感情というものがわれわれの世界への対処にどのような機能を果たしているのかを理解することは、対応への第一歩ではあるはずである。
 ベイトソンの「精神と自然」(思索社 1982年11月 原著1979年)も思い出した本の一つである。そこでいわれている「生ある世界」と「生なき世界」の違いである。前者は石と棒きれとビリヤード球と銀河系の世界であり、後者はカニと人と美と差異の世界である。
 そこで引用されているワーズワースの詩、
 
  川辺に咲いた桜草も
  彼にはただの桜草、
  ただの黄色い桜草。
 
 こういう態度をベイトソンは批判し(これはほどんど石と棒きれとビリヤード球と銀河系の世界なのである)、「あっ、サクラソウだ!」と感情移入をおこなう態度、ベイトソンのいう“美的”で“結びつきに敏感”である状態を追求していく。量ではなく関係の世界である。
 「あるコンテキストの中に置いて見なくては、何事も意味を持ち得ない」という言葉は「精神と自然」のキーワードなのであるが、本書を読んでくると、コンテキストも意味も感情なくしては生じない、という風にも思えてくる。ベイトソンのころにはまだ脳科学と進化学の知見が熟していなかったのであろう。「精神と自然」を脳科学の新しい知見を通して見直してみると、みえてくるものがたくさんあるような気がする。
 ベイトソンも獲得形質の遺伝を否定するということでラマルク説をあっさりと否定するのであるが(わたくしもつい最近まで、そう単純に考えていた)、最近の進化心理学による説明は、かなりのところまでラマルク的な説明を人間心理研究に持ち込むことを許容しているように思える。そのことを考えれば、もっと単純なかたちに「精神と自然」を書き直すこともできるのではないかと思われる。「精神と自然」でベイトソンは、古典的物理学におけるニュートン力学粒子に相当するようなモデルが、現在の行動科学には存在しないということを指摘しているが、ただ今現在においては進化心理学はその役割を相当程度に果たせるのではないだろうか。
 本書で批判的に引用されているピンカーの著書は「心の仕組み」をふくめて何冊か持っているが、未読のまま積んである。やはり読まなくてはいけないのだろうかと思った。
 最近、この系統の本ばかり読んでいるが、もともとは社会生物学論争にかんする本を読みだしたがきっかけであるid:jmiyaza:20060207。何冊かこの周辺の本を読んでくると「社会生物学」への批判というのは何だったのだろうと思えてくる。完全に勝負がついている、というか、この分野でなにかを考えようとするならば、「社会生物学」抜きには何も考えられないのではないかと思うくらいである。実は、この系統の本を読み続けているのは、医療においても必須の知見であると思うようになったからなのだが、それに気がついたのもつい最近なのであるから他人のことはいえないわけであるけれども。
 本書も長谷川眞理子氏の訳である。あとがきによれば、氏は、人間の心や行動の進化的理解を深めてもらうためのささやかな運動をしているのだそうで、本書の訳出もその運動の一環ということらしい。何だか、長谷川氏の手の上id:jmiyaza:20060311で踊っているだけのような気もする。


人はなぜ感じるのか?

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