S・ピンカー「人間の本性を考える 心は「空白の石版」か」(1) 

  NHKbooks 2004年8月〜9月初版
  
 
 ピンカーは小児の言語獲得を専門とする認知心理学者である。ピンカーの本は「言語を生み出す本能」「心の仕組み 人間関係にどう関わるか」(いずれもNHKbooks)と本書を買ってはあったのだが、なんとなく読めなくて積んだままとなっていた。
 記憶違いでなければ、ピンカーの本を知ったのは、以前、黒木玄さんのWebを覗いていたとき、デネットの本などとともに必読文献として紹介されていたからだったように思う。
 最近、ジョンストンの「人はなぜ感じるのか」id:jmiyaza:20060409を読んで、そこで批判的にピンカーが紹介されているのを見て、やはり読んでみなくてはいけないのかなと思った。
 それでまず「心の仕組み」全3巻を読み出したのだが、上巻の半ばあたりで挫折。それで本書に転進し、これはようやく読み通すことができた。なんだか議論がくどく(これはデネットの本を読んでも感じることだけれども)、いやになると止まってしまうのである。本書もまた全3巻。デネットの本もそうだけれども、もう少し簡潔に書けないものだろうかと思う。書いても書いてもまだ読者に伝わらないのではないか、という不安がきざしてくるのだろうか?
 それで、本書は副題にある通り、「心の石版説」、「ブランク・スレート説」を徹底批判したものである。これはラテン語の「タブラ・ラサ」、「拭われた書字版」からきているという。哲学者ロックに由来するのだそうで、その「人間悟性論」から、以下が引用されている。

 心はいわばまったく文字を欠いた白紙で、どんな観念ももたないとしよう。すると心はどのようにして観念を装備されるのだろうか?(中略) 私は一語で、経験からと答える。

 ロックは教会の権威、国王の神聖を自明のものとしないために、この論を持ち出したのだが、現在においては「心の石版説」はイデオロギー化し、人間の本性の理解を妨げるきわめて有害なものとなっている、というのが本書のテーマである。
 したがって、本書は、ピンカーの本来の主張である「心の計算理論」ともかかわって心をどのようなものとして理解するかという問題も論じられてはいるが、氏が批判する「心の石版説」の多くの事例が紹介され、その批判・検討が主眼となっている。とにかく広い話題が論じられている。ピンカーの博識に驚嘆するとともに、これらの話題にまつわる多くのことを知ることができた。また自分の考えを整理することもできた。
 それで、ここではまず、下巻にある「第16章 政治−イデオロギー的対立の背景」をとりあげる。この章は、「心の石版説」の5つの具体例(他は暴力、フェミニズム、子育て、芸術)の一つなのだが、巻頭にまずこの章をおくほうが著者の主張はずっとよく伝わるのではないかと思った。最初のうち、なかなか具体的な事例がでてくないので、展開される議論が今ひとつ身に沁みないのである。最初に誰でも関心があるであろう政治の事例が「心の石版説」とどうかかわるのかを示し、そのあとから原理論を展開するほうが、著者のいわんとすることが(それに賛成するにしろ反対するにしろ)理解しやすいのではないかと感じた。
 この「政治」の章は大変面白かったので、まずこの章のみを検討することにする。
 著者によれば、社会学の伝統においては、社会を個人を超越した有機的存在とみなす傾向があり、一方経済学あるいは社会契約論の伝統では、社会は合理的で自己本位の個々人により構成されると考える。実は現在の進化理論は後者の枠組みと完全に合致する。淘汰は群ではなく、個々人(個々遺伝子?)にかかると考えるからである。
 ダーウインはアダム・スミスの影響を受けた。後の進化学者もゲームの理論など経済学から多くの手法を取り入れている。とりわけ進化理論の互恵的利他行動は社会契約という概念を生物学的に言い換えたようなものである。
 しかし社会科学の多くの分野では、まだ社会的事実は個々人の精神とは独立したものであるという教義が優勢である。ウィルソンの「社会生物学」があれだけ物議をかもしたのは、旧来の社会学を根底から否定する発想をもっていたからである。
 マルクス主義社会学の伝統に属し、自由市場派は経済学の伝統に属する。リベラルが優勢だった1960年代にはリンドン・ジョンソン大統領は「偉大な社会」という目標をかかげたが、保守派が巻き返した1980年代には、サッチャー首相は「社会などというものはありません。一人ひとりの男と女、それに家族があるだけです」といった。
 しかし社会契約説が保守の理論であるとはいえないし(ルソーを見よ!)、社会学者がみな左派ということもない(デュルケームパーソンズを見よ!)。
 人間の本性についての根本的な対立を論じて、トマス・ソーウェルという人が「制約のあるヴィジョン」と「制約のないヴィジョン」という区別を提出している。それに相当するものとして、ピンカーは「悲劇的ヴィジョン」と「ユートピア的ヴィジョン」という呼称を導入する。
 「悲劇的ヴィジョン」とは「人間は生まれつき知識や知恵や美徳に制約があり、社会機構はすべてそれらの制約を認識しなくてはならない」という立場であり、ホッブズ、バーク、スミス、ハイエクフリードマンポパーなどがこの系列に属する。
 一方、「ユートピア的ヴィジョン」とは、「心理的制約は社会機構から生じる人為的所産であるから、よりよい世界で何が可能かと考える観点が、それによって制約されるされるべきではない」という立場であり、ルソー、コンドルセ、トマス・ペイン、ガルブレイスなどがこの系列に属する。
 「悲劇的ヴィジョン」では、社会がどれほど不完全であってとしても、それと比較すべきなのは実際にあった過去の残酷や窮乏であって、想像上の未来での調和や豊かさではない、とする。われわれはみな、欠点をもつ同じ種のメンバーであると考えるからである。
 一方、「ユートピア的ヴィジョン」においては、伝統とは人間の可能性を制約するものでしかないとされる。
 1970年代からでてきた進化生物学や行動遺伝学の考えは「ユートピア的ヴィジョン」への強力な異議申し立てとなった。なぜなら「ユートピア的ヴィジョン」は、心の石版説(不変の人間性といったものはない)、高貴な野蛮人説(利己的な本能や邪悪な本能はない)、機械の中の幽霊説(わたしたちは何ものにも拘束されていないから、よりよい社会のありかたを選べる)に基づいていたからである。
 新しい生物学理論が、社会科学の分野の一部の主張を否定し、もう一つの主張を正当化することになった。もちろん、遠い将来において「ユートピア的ヴィジョン」が実現されないということは誰にもいえないので、「ユートピア的ヴィジョン」が完全に反証されることはないが、現在そろっているデータは圧倒的に「悲劇的ヴィジョン」を支持している。
 「ユートピア的ヴィジョン」による最初の大きな政治上のできごとはフランス革命である。ロシア革命もまたこのヴィジョンに鼓舞された。
 ソーウェルによれば、マルクス主義は、過去を「悲劇的ヴィジョン」で見、未来については「ユートピア的ヴィジョン」を採用するという、二つのヴィジョンの混成からなっている。現在においては現実的な政治的実践としてはマルクス主義は失敗したとみていいだろう。蟻の専門家であるウイルソンは、マルクス主義について、「理論はすばらしいが、種をまちがった」といった。
 E・M・フォースターは「民主主義に万歳ニ唱」といった。チャーチルは「民主主義は最悪の政治形態だ。これまでに試されたほかの政治形態をすべて除外すれば」といった。
 アメリカ建国においては、ホッブズやヒュームのような「悲劇的ヴィジョン」が採用され、ルソーの思想はまったく影響していない。それは人間が信用できないものであることを前提としており、権力が強大にならないようにするためのさまざまな歯止めを追及した。言論の自由報道の自由も、暴政を予防する手段として正当化された。もちろん、このころの憲法起草者が念頭においていたのは白人男性だけではあったのだけれども。
 人間の本性は思い通りに変えられるという左派の主張も、道徳の基盤は神からあたえられたという右派の主張も、ともに生物学的な事実によって、退却戦を強いられている。
 あきらかに「ユートピア的ヴィジョン」は旗色が悪いとしても、「悲劇的ヴィジョン」がそれならば正しいということにもならない、とピンカーはいう。人間の心は利己的でありながら、また道徳的でもありうることが生物学から引き出せるからであると。
 それでピンカーは「ダーウイン左派」といった方向を探っていく。P・シンガーの「現実的な左翼に進化する」(原題「ダーウイン左派」)http://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/page129.html が、その例として検討される。人間の現状をどうしようもないとしないものが左派なのである、とシンガーはいう。
 さらに社会的地位の低い人たちは、健康状態が悪く、寿命が短いということも、不平等社会のほうが健康状態が悪いことも検討されている id:jmiyaza:20050219 id:jimyaza:20060219 。「ユートピア的ヴィジョン」を捨てた左派というのがピンカーの追求したい方向らしい。そのためにも人間の本性の探求が必須であるという。
 
 この「政治」論を読んでいて、わたくしが吉田健一のような科学についてはほとんど何の価値もみとめないような人とポパーのような科学が命のような人のどちらにも惹かれるのはなぜなのだろうかという長年の疑問がはじめていくらかでも解けたように思った。両者ともに「悲劇的ヴィジョン」の人という共通項があったわけである。
 要するに、わたくしは、人間の限界を思考の根底におく人が好きなのだということのようである。というか、それを見ない人は信用ができないのである。進歩的文化人が嫌いだったのも、彼らが「ユートピア的ヴィジョン」を夢見る人たちだったからということになる。今までは、そういう人たちの人間観は浅薄であるからだと思っていた。というか、そういう人たちには、そもそも人間観などというものがほとんどないのだと思っていた。しかし考えていれば、「ユートピア的ヴィジョン」というのも立派な人間観なのであるかもしれない。
 吉田健一のいう「文明の18世紀」と「野蛮の19世紀」も、前者を「悲劇的ヴィジョン」、後者を「ユートピア的ヴィジョン」とすれば、いたってうまくおさまることになる。
 18世紀の文明については、

 ヒュウムは、或は十八世紀のヨオロツパ人は数学と存在がそれぞれ違つた世界のものであることを苦にせず、ヒュウムも炉に燃えてゐる火やその前に手を翳して受ける温いといふ感覚が実在するものかどうか解らないままに冬は炉の火を楽み、旨いものを食べることを好み、友達との付き合ひで心を温められ、晩年に重症に掛かつて危篤に陥るとデツファン夫人を感嘆させた別れの手紙を彼の愛人とも言はれてゐるブフレエル夫人に宛てて書いて死に、この無神論者が一向に悔恨の情を示さないで平穏にこの世を去つたことで当時の信心家達を憤慨させた。(吉田健一「ヨオロツパの世紀末」)

 一方、19世紀、

 キリストといふ人間が神になつたのだから何れは人間が凡て神になるのではないかといふのである。この辺から科学の実際に高度の発達とそこから生じた科学に対する誤解の下にあつた十九世紀のヨオロツパの滑稽と愚劣に触れることが必要になる。(吉田健一「同上」)

 そしてポパーについていえば、

「啓蒙とは何か」とヴォルテールは問い、そして次のように答えています(以下はわたくしの自由訳です)。

 寛容は、われわれとは誤りを犯す人間であり、誤りを犯すことは人間的であるし、われわれのすべては終始誤りを犯しているという洞察から必然的に導かれてくる。としたら、われわれは相互に誤りを許しあおうではないか。これが自然法の基礎である。(ポパー「「寛容と知的責任」 「よりよき世界を求めて」(未来社1995年所収))

 わたくしは、人間というどうしようもない生き物がそれでもなんとかやっていくためのはどうしたらいいか、という考えには共鳴できるが、人間が崇高なものであり、高級なものであり、他の動物とは異なる魂をもっているのであり、という方向の議論がいたって嫌いなようなのである。
 わたくしが内田樹氏に惹かれるのも、氏が人間はどうしようもない生き物であるという認識をその根底においているように見えるからなのであろう。たとえば、「9条どうでしょう」(毎日新聞社 2006年3月)で、憲法第9条は全然理想的でもなんでもないのだけれども、とにかくうまく機能しているではないかという視点を出す。第9条が世界の未来のユートピアに繋がるみたいな大江健三郎的妄想は一顧だにしないわけである。あるいは内田氏がポパーとともに(?)称揚する小田嶋隆氏の同書でのふざけた憲法改正案(「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない(笑)」というもの)。要するに、末尾に(笑)をつけるだけ。正義にいきりたった人を脱力させるというもの。
 あるいは同じく内田氏が「態度が悪くてすみません」(角川oneテーマ21 2006年4月)で加藤典洋氏を論じていう「この世にいささかでも「善きもの」を積み増しする可能性があるとしたら、それは自分自身のうちの無垢と純良に信頼を寄せることによってではなく、自分自身のうちの狡知と邪悪に対する畏怖の念を維持することによってである」という言葉。あるいは加藤氏と対照して論じられる高橋哲哉氏の「鳥肌が立つ正しさ」という言葉。
 本書でのピンカーの説の中心にあるのは、政治論が任意に選択できる主張としてではなく、生物学的な事実から、ある方向に絞られるという主張であり、「ユートピア的ヴィジョン」はそれによって否定されるという見方である。要するに人間は「悲劇的な存在」である。
 しかし、そういう「悲劇的存在」という見方が、どこかに存在しているわれわれには近づけない「完全な存在」という見方を呼び寄せる可能性はある。「神」である。キリスト教でも、カソリックは「悲劇的ヴィジョン」によっており、プロテスタントは「ユートピア的ヴィジョン」に近いとすることができそうである。とすれば、ある種のカソリック思想を呼び寄せるわけである。福田恆存氏はカソリック無免許運転を自称していた。
 福田氏は、個をこえる何かということをいった。われわれは個であることだけでは不幸であり、個をこえる何かに包含されることにより、はじめて本当に充実した生をおくることができるという方向の議論は多い。これまた政治と深く関わる。最近でも「国柄」がどうとかいう議論が絶えない。個であることに充足できない性向というのも、狩猟採集時代のわれらの祖先の集団生活の進化的な名残りであるとしたら、これまた「政治」に大きな影響をあたえるはずである。
 しかし、本書を見る限りピンカーはそういう共同体論のような方向には関心がないようである。本論の最初に政治思想が遺伝的であるということをいい、リベラルになりやすい人と保守になりやすい人は気質が違うということをいっている。ピンカーに本書のような主張をさせているもの、事実にもとづく科学的判断なのであるか、それともピンカーがうけついだ気質によるものかということが問題である。
 ポストモダン派によれば、おかれた環境がその人の主義主張を決定するわけであるが、ピンカーは政治姿勢は概ね遺伝的であるとしている。ピンカーは自分は10代ではバクーニンアナーキズムの熱狂的信奉者であったと書いている。それがある事象を経験することで決定的に打ちのめされのだそうである。
 政治に対する見方というのは、相当程度経験的な部分があるようにも思うのだが、どうなのだろう。自分について言うと若い時のほうが右(あるいは共同体的)で年をとってからのほうが左(あるいは個人主義的)になってきているように思う。これまたそのおおもとは遺伝なのだろうか?
 「悲劇的ヴィジョン」と「ユートピア的ヴィジョン」というのはなかなか切れ味のよさそうな二分法のように見える。わたくしは今まで前者を「人間も動物である」派、後者を「人間は動物ではあるが、他の動物とは隔絶した存在である」派という風にわけてきていたように思う。どうもごちゃごちゃした物言いですっきりしない。これからは、これを採用してみようか? しかし「悲劇的」というのは、いささか自己陶酔的なニュアンスが強すぎるような気がする。「制約派」と「非制約派」、あるいは「有限派」と「無限派」のほうが実際に近いとは思うが、何か言葉にインパクトが足りない。内田樹氏の「態度が悪くてすみません」の小田嶋隆氏を論じた部分にならって「くよくよ派」と「いけいけ派」? これでは実態から離れすぎるだろうか?



人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (下) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (下) (NHKブックス)