S・ピンカー「人間の本性を考える 心は「空白の石版」か」(3)


 前に続いてid:jmiyaza:20060425 ピンカーのいう5つのホットな問題のうちの第18章「ジェンダー」をとりあげる。この章はフェミニズムの問題に終始している。
 ピンカーがフェミニズムをあつかうやり方はかなり政治的である。フェミニズム全体を否定するのではなく、いいフェミニズムと悪いフェミニズムにわけるのである。いいフェミニズムはエクイティ・フェミニズムと呼ばれ、悪い方はジェンダーフェミニズムと呼ばれる。そして、悪いほうだけを批判する。女性全体を敵にまわすことはしないようにしっかりと配慮しているわけである。

  • エクイティ・フェミニズム:平等な処遇についての道徳上の主義
  • ジェンダーフェミニズム:人間の本性についての3つの主張をもつ経験的な主義。すなわち、1)男女の差異は生物学的要素とは無関係で、すべて社会的に構築される。2)人間の社会的動機は権力のみであり、社会は権力がどのように行使されているかのみから理解される。3)人間の相互関係は集団と集団の関係から生じる。男女の場合は、女性を支配するジェンダーとしての男性である。

 そしてジェンダーフェミニズムの主張がいかに常軌を逸した過激で滑稽なものであるかが延々と示される。その主張いわく、すべての性交はレイプである。またいわく、女性はすべてレズビアンになるべき。またいわく、男性は人口の10%程度であることが望ましい。さらに、レイプはセックスとは無関係である(レイプは男性が女性を支配したいという権力欲から生じるのであり、性欲とは関係ない)。
 このような主張がいかに事実と反し、最近の学問的知見と反したものであり、それが誤った《心は「空白の石版」》説、《高貴なる野蛮人》説に依拠しているものであることが縷々述べられる。まったくピンカーのいうとおりなのであって、誰がみてももう勝負はついてしまっている。ジェンダーフェミニズムは負けたのである。しかし、それは東欧世界が崩壊してから共産主義の悪口をいうようなものであって、なんだかなあ、そんなことを今頃言ってもという気がする。
 橋本治は「貧乏は正しい!」(小学館文庫1998年)で、

 「問題は、“貧乏”という生活レベルの問題ではなく、“情けない”という人間存在のあり方である」と、貧乏の意味を喝破した時、社会主義共産主義唯物論は、一流の哲学になれたのである。

 と言っている。
 だから、エクイティ・フェミニズムのいうような、女性の賃金は男性の72%ということを正そうという主張は、生活レベルの主張であって、思想としての力は持てないだろうと思うのである。ここで述べられている「ガラスの天井」説については、前にもみたことがあるがhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/page130.html、たしかに進化論・進化心理学からみれば、フェミニズムの主張は科学的に間違いということになるのであろう。
 しかし、フェミニズムが力をもったのは、女であることが“情けない”という状況をただそうという方向を提示したからであり、フェミニズムが力を失ったのは、女であることが“情けない”ことではなくなってきたからなのではないだろうか? 学問的な正否によるのではないような気がする。
 もちろん、一部の能力があり意欲のある女性にとっては、現状も依然として歯噛みしたくなるような“情けない”状況であろう。しかし多くの女性にとっては、もやは女であることはちっとも“情けない”ものではなく、男であることのほうが“かわいそう”なことということになってきたのである。
 橋本治の傑作戯曲「月食」(河出書房新社1994年)の冒頭で、古代インドのロッポンギ辺りに棲息するイケイケねーちゃん達が歌う歌。

 女に生まれてよかったわ!
 女に生まれてよかったわ!
 
 女に生まれて よかったのォん
 おっぱい揉んでも 平気だわ!
 お尻を振っても 平気だわ!
 頭がパーでも だいじょおぶ!
 女に生まれてよかったわ!
 女に生まれてよかったわ!
 あっはァん
 
 ほんとに 男は かあいそォお!
 お尻を振っても 下品だわ!
 おっぱい振られりゃ イチコロよ!
 おいしいところはないんだわ!
 女に生まれて よかったの!
 
 (中略)
 
 女に生まれてよかったわ!
 女に生まれてよかったわ!
 おっぱい揉んでも 平気だわ!
 お尻を振っても 平気だわ!
 頭がパーでも だいじょおぶ!
 なんにも なんにも
 なんにも なんにも
 疲れることは 考えない
 なんでも なんでも
 なんでも なんでも
 もらえるものは もらっちゃう!

 もちろん、こういったものはバブルの産物であって、そんなことをいっているとみじめな将来が待っているぞと、橋本治村上龍も言うであろうが、本人たちがそれでいいというのである。
 その橋本治は「貧乏は正しい!」で、こういうとんでもないことを言う。

 女の方だって、「貧乏を前面に出すより、心の問題を前面に出したほうが通りはいいわね」なんて考え方をする。だから、女の貧乏問題というのはあまり表沙汰にはならないが、しかし、女性運動というものは、「すべての女が金持ちの娘ではない、世の中には貧乏な女だっている」という考え方から出てきたものなのであるのさ。

 橋本によれば、若い女は美しく着飾れないと惨めになるような生き物なので、貧乏がみじめと通じることになる。だからフェミニズムを嫌いという女は「わたしは貧乏じゃないもん」という顔をしている。そういう中で、貧乏な若い女が、「私が貧乏であってなぜ悪いの? 私はただ貧乏なだけで、ブスじゃないののよ、失礼しちゃうわね」というのが女性解放運動の根本なのだそうである。
 若い女が美しく着飾れないと惨めになるのは、男の目を意識するからである(違うかな? 女の目かな? それとも自分自身なのだろうか? どうも女性が着飾る心理*1というのが本当のところはよくわからない)。とすれば、男の目のなかで生きることをやめれば、貧乏も苦にならない。とはいっても、バブルを通過して、着飾れないほどの貧乏がなくなってしまうと、やはり着飾ることは気持ちいい、ということになってフェミニズム運動は衰退してしまう。というのはあまりにも身も蓋もない見方であろうか? 社会主義運動だって“情けない”ほどの貧困がなくなってしまうと衰退してしまったというのもあんまりな見方であろうか?
 しかし、その男たちのあんまりな貧乏、女性の置かれたあんまりな境遇を克服するためには、思想的な運動が必要であった。だが、民主社会主義的な漸進主義とかピースミール工学とか、エクイティ・フェミニズムとかの微温的な主張は、ひとの心に点火する力がないので、もっと過激な社会主義共産主義運動やジェンダーフェミニズムのようなものがある時期、必要とされたのではないだろうか? そして過激な運動の渦中では、より過激な主張がつねに勝つという普遍的な原理により、運動は観念的に先鋭化し、自己崩壊していったのではないだろうか?
 エクイティ・フェミニズムの主張が正しいのだとしても(確かにそうなのであろう)、正しい主張は政治的な運動においては必ずしも勝つとは限らないのである。フェミニズム運動内ではジェンダーフェミニズムが優位に立つメカニズムがありうる。
 なんだかピンカーの主張は後だしじゃんけんをして、水に落ちた犬を叩いているみたいでなんとなく後味がよくないように思った。もっと一般的にいえば《心は「空白の石版」》説は、人の心に火を点す力を持つが、人間の本性遺伝説はその力を持たないということなのではないだろうか? 正しい説が広まるとは必ずしもいえなくて、人の心を鼓舞する説がたとえ正しくなくても広まるということは十分にありそうな気がする。
 

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (下) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (下) (NHKブックス)

月食―R ̄AHU

月食―R ̄AHU

*1:フェミニストは化粧もまた文化的なものであって、男性社会から強制された桎梏であるというのであろうか? たしかに化粧に相当するものを男がしている時代もあり文化もあるのだから、これが完全に生得的なものとはいえないのだろうが、進化で規定された何かによって女性のほうが化粧といった行動に興味を示しやすいということはあるのではないかと思う。2006年4月29日付記