S・ピンカー「人間の本性を考える 心は「空白の石版」か」(5)

 
 今まで、下巻に収められた「5つのホットな問題」のうちの4つをとりあげたので、ここで上巻にかえって、ピンカーの主張をはじめからみていくことにしたい。大雑把にいえば、上巻は《心は「空白の石版」》説が間違っていることを示す部分であり、中巻が《心は「空白の石版」》説が間違っているのだとすると人間の倫理・道徳がずたずたになるのではないかという議論への反論、下巻が具体的事例の検討となっている。
 それで上巻である。
 デュルケームらが創始した社会学は、社会が超有機体であるという基本的概念をつくった。一般的には社会科学者は、人間の可塑性と文化の自律性を擁護し、それが人間の完全化という夢の実現につながる教義であると考えた。
 しかし、とピンカーはいう。自分がその構築に大いに力があった「心の計算理論」、情報、計算、フィードバックから精神生活を説明できるという理論が、それらを打破するのであると。この理論はルーツをたどると「推論は計算にすぎない」といったホッブズに遡るのだが。
 チョムスキーはわれわれが言語を獲得できるのは生得的なそれを可能にするメカニズムがわれわれに備わっているからだということを示した。同様にわれわれの心が計算理論に従うのであれば、その計算を可能にする生得的なメカニズムが同様にあるはずである。
 われわれの言語は完全に自由ではなく、ある生得的なメカニズムの制約をうける。同様に、心も生得的なメカニズムの制約をうける。その制約のもとでも、女神をあがめたり、椅子で砦を作ったり、がらくたを集めたり、ロック歌手のまねに陶酔したりするわれわれの多様な行動を説明できる。
 心は普遍的、生成的な計算モジュールからなるシステムであるとする見方は、従来からの氏か育ちかの議論を見当違いのものとしてしまった。人間はプログラムされているから融通性のあるふるまいができるのである。
 「私」が存在するという感じは、視野を欠損なく感じるのと同じ脳が作り出す錯覚なのである。ザガニガの分割脳の研究で示されたように、左脳は一貫性のあるでたらめをつくるのだから。
 われわれの性向に生得的部分があることは一卵性双生児の研究など多くの研究が証明してきている。
 共感、感謝の念、罪悪感、怒りなどは、人びとが嘘つきや裏切り者の餌食ならずに協同の恩恵を得ることを可能にすることで、進化において適応的であった。また、タフだという評判や復讐への熱意は、攻撃に対する最良の防御だった。
 食行動や性行動は空腹感や性欲によるというのは至近要因による説明である。空腹感や性の衝動は栄養や生殖の必然性によったとするのは究極要因による説明である。
 《心は「空白の石版」》説は、至近要因だけですべてを説明しなくてはならない。そうであれば、われわれがもつ至近的な安寧をおびやかす不可思議な行動への性向を説明できない。ささいな侮辱に激怒する、会社の出世競争で疲弊する、平凡なパートナーよりセクシーなパートナーに惹かれる、危険な不倫を願望する、継子を愛せない、近所同士で見栄のはりあいをする、というようなことは進化的な根拠、究極要因からでしか説明できないのである。われわれは個人的な安寧幸福という一般的な希求をもつだけではなく、自然淘汰によって形成されたたくさんの欲望をもまたもつのである。
 高貴な野蛮人は進化的に生き残れるはずがない。ホッブズが正しくルソーは間違っていたのである。南アフリカニューギニアの土着の人々についての調査によれば、彼らの男性の10〜60%は戦争で死んでいる。一方二つの大戦をふくめて20世紀アメリカとヨーロッパの男の戦死者は1%以下である。人間は暴力への性向をもっているが、認知と情動の適切な能力をもつならば、協力行動もまた出現してくる。そのための認知装置として、われわれ人間には他人の心を推測しうる、「心の理論」と呼ばれる能力が備わっている。
 文化間の差異を説明するのに人種といった概念が不要であることは、T・ソーウェルやJ・ダイヤモンドなどにより示されている。文化が人間の欲求を形成するのではなく、文化を人間の欲求が形成するのである。
 《心は「空白の石版」》説を信奉するものたちが最後の砦としているのが、1)ヒトゲノム・プロジェクトによって明らかにされた遺伝子数が予想されたのより少ない3万4千個であったということ、2)コネクショリズムといわれる生得の能力を考えなくても、汎用のニューラルネットワークで人間の認知を説明できるという見方、3)脳の可塑性の3点である。これらが《心は「空白の石版」》説を支持するものであるとはいえないことを、ピンカーは縷々述べるが、そのピンカーの言い分がどの程度正しいのかはわたくしには判断できなかった。 
 
 デュルケームらの超有機体説は、個々の分子運動を計算するのではなくその統計的動きを示すものとして温度という概念を導入するようなもので、進化的人間本性論と必ずしも両立できないものではないようにも思われる。
 人間はプログラムされているから融通性のあるふるまいができる、というのはほとんどどんなことでも説明できてしまう言い方であって、これが中巻の倫理道徳擁護の伏線となる。共感、感謝の念、罪悪感、怒りが進化的に説明できるとしても、それが復讐への熱意とどのように両立できるのかがよくわからない。おそらくまったく相反するような行動への性向のどちらもが狩猟採集時代の人類の生活において適合的であったという説明ができるのではないだろうか? 認知と情動の適切な能力をもつならば、という仮定もきわめて曖昧である。これまた何でも説明できる魔法のカードになってしまうのではないだろうか?
 ささいな侮辱に激怒する、会社の出世競争で疲弊する、近所同士で見栄のはりあいをする、というのも進化の見地から簡単に説明できるのだろうか? ささいな侮辱に平静である「高貴な」人は淘汰されてしまうのであろうか? 競争は狩猟採集時代の人類の生存に必須だったのであろうか? 彼らは同時にある大きさの集団の中でしか生きられなかったのだが。見栄のはりあい、というのもオスがメスをめぐって争ったことの名残なのであろうか? ポトラッチのような習慣も、進化的な起源をもつのだろうか? 平凡なパートナーよりセクシーなパートナーに惹かれる、危険な不倫を願望する、継子を愛せない、というようなことについては了解できるのだが。
 われわれは他人の心を推測しうる、すなわち「心の理論」を持つのであるが、そのことが人間の人間らしさの由縁でもあると同時に、われわれの悲惨の源ともなっているのではないだろうか? 相互不信、疑心暗鬼というのもまた他人に心があることを知っているからこそ生じるものなのではないだろうか?
 ピンカーのいうように《心は「空白の石版」》説は間違っていたのであろう。高貴なる野蛮人説も嘘なのであろう。しかし、そうであるなら、自動的にそれと対立する立場の説によって人間のさまざまな性向がうまく説明できるようになるのかといえば、決してそうではないように思う。人間の性向のほんのいくらかについて、いくらかもっともらしい説明がようやくできるようになったという段階であろう。それのあるものはこじつけとしか思えないものもあるし、相互に矛盾するものもあるようにも思う。
 何かが間違っていることを証明することは、あることについて整合性のある説明をすることに較べれば、はるかに簡単なのであると思う。ピンカーの主張にもかかわらず、人間の心についてはまだまだわからないことばかりというのが実情に近いのではないだろうか?
 本書の一番問題な部分は、S・J・グールドやレウォンティンらを科学的な洞察力と政治的信条が分裂した人間であるとしている点であると思う。そして、そうははっきりとは書いていないが、知的に優秀である自分たちであれば進化論の帰結を混乱なく受け入れることができるが、知的におとった愚かな人たちには、何か信じるべき美しいものが必要であるので、そういう人たちのことを考えれば、進化論の帰結から人間を切り離さなければだと思っているのではないかと示唆しているようにも見える。ほとんどカラマゾフの大審問官である。
 本当にそうなのだろうか? 進化論が問題になるのは「考える人」たちの間だけのこと、思想にかかわる人だけのことであって、思想などというものとかかわる気がない人びとにとっては、どうでもいいことなのではないだろうか? そして問題なのは世界を動かしているのは実は知的な人びとなのであることであって、キリストとマルクスがどれだけの人を殺したかというこを考えるならば、それは明らかではないかと思う。
 《心は「空白の石版」》説が問題とされるのも、何らか思想にかかわる人々の間でだけではないかと思うが、思想が人を殺す以上は、学者世界のコップの中の嵐であるとして、それを軽視することはできないということなのであろう。

 

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)