S・ピンカー「人間の本性を考える 心は「空白の石版」か」(6)


 《心は「空白の石版」》説が否定されると道徳や倫理が失われるとする説への反論を主として収める中巻の議論を最後にして、長々続いた「人間の本性を考える」の考察を終えることにしたい。
 さて、そこに、

 人間の完全化! なんという物悲しいテーマだろう。

 というD・H・ロレンスの言葉が紹介されている。これがすべてなのである。
 ロレンスが「高貴な野蛮人」説に親和を感じていなかったかどうかは微妙であるように思うけれども(ロレンスは人間より馬のほうが高貴であると思っていたであろうし、ある時期には文明に毒されていない人々に人類の救いを期待したりもしたわけだから)、いずれにしても、《人間の現状は不満足なものであり、それを根底から変えなくてはわれわれには救いがないとする見方》がわれわれの悲惨の多くを作ってきたのであることは間違いがないであろう(ロレンスは人間の完全化ではなく、人間が動物に戻るという特異なユートピアの夢見たひとだったのかもしれない)。
 マルクス自身が人間の完全化というような見解をもっていたかどうかは疑問であるようにも思うが(ピンカーはそうだとしているようである)、少なくともポルポトカンボジアポルポトはなかなかのインテリだったようであるが、そうであってもその思想?がマルクス主義といささかでも関係があるのかも疑問かもしれないが)はそうであったように思う。また、毛沢東を鼓舞したのは権力欲であって《心は「空白の石版」》説ではないかもしれないが、文化大革命紅衛兵運動などというものにいささかでも思想的背景があるとすれば、それはやはり《心は「空白の石版」》説とどこかでかかわる何かなのであろう。
 ピンカーがいうように、《心は「空白の石版」》ではなく、人間は生まれつき平等ではないとしたら、それは差別を肯定することになるのはないかと危惧する人がいるのは事実である。本来平等でないひとを平等にあつかうのはとりもなおさず不平等なあつかいをすることだというハイエクの言葉が紹介されているが、ハイエクは明白に自由のためには平等を犠牲にするという選択をしている人である。
 平等主義のもとでの多数の残虐行為の例として文化大革命カンボジアが挙げられているが、自由主義のもとでの多数の残虐行為というのもまた多数の例を集められるはずである。
 自由か平等かではなく、その両者の間のトレードオフをどうするかが問題なのだとピンカーはいうが、そのトレードオフをどうするかは、《心は「空白の石版」》説が正しいかどうかからでてくるとは思えない。
 《心は「空白の石版」》説から、平等志向ではなく自由志向を引き出すこともまた可能なのではないだろうか?
 ナチズムもマルクス主義も、

 人間の社会心理のいやな特徴−人間を内集団と外集団に分け、外集団を人間以下に扱う傾向に火をつけた。集団が生物学的要素によって定義されると考えられているか、歴史によって定義されているかは問題ではない。心理学の実験的研究によって、人びとをなんらかの名目(たとえば硬貨投げ)にもとづいて分けるだけで、たちまち集団間の敵意が生じることが示されているからである。

 とピンカーはいう。
 この人間の社会心理のいやな特徴もまた人間の本性なのであるのかが最大の問題であると思うのだが、ピンカーはその点については論じない。もし、これが人間の本性であるのだとしたら、悪いのは平等への希求それ自体ではなく、《平等への希求》と《人間を内集団と外集団に分け、外集団を人間以下に扱う傾向》とが合体すると最悪の結果を生むことへの洞察の欠如であるということになる。
 完全への希求というのが愚かしいものであり恐ろしいものであるのは、人間が完全どころか欠陥だらけの存在であることを運命づけられいる存在だからなのではないだろうか?
 J・ウイリアムズという進化生物学者が、

 生物学は、文化がユダヤキリスト教の神学やロマン主義の伝統に支配されていなければ、おそらくもっと早くに成熟できていただろう。

 といっているのだそうである。
 確かにそうなのである。悪いのはユダヤキリスト教の神学なのである。完全への希求という愚かしい考えはユダヤキリスト教に起因するのである。しかし、多くの科学史家が論じているように、科学というものもまたユダヤキリスト教思想のもつ完璧な世界という概念がなければ生まれてこなかったのであろうし、それがなければ、個人とか人権という概念もまた生まれず、われわれはまだ中世的な帝国の世界に生きていたかもしれないのである。
 共感や先見性や自尊心もわれわれに生得のものとして備わった心のモジュールの組み合わせから生まれるとピンカーはいう。ユダヤキリスト教の神学もまたわれわれに生得のものとして備わった心のモジュールの組み合せから生まれたのではないだろうか?
 共感などの情動、認知力、言語がわれわれの協力の輪をひろげてきているとピンカーはいう。しかし共感を生む「心の理論」は同時に邪推や懸念を生み、共同体同士を敵対させるものともなる。
 ユートピアへの夢が20世紀の悪夢の主な原因の一つとなったと多くの政治学者がいっている。しかしユートピアの夢を生むのも、またわれわれに生得のものとして備わった心のモジュールの組み合せなのではないだろうか?
 ピンカーは本書において、人間の完全性への夢を捨てているようには見えない。《心は「空白の石版」》説を否定しても、われわれがよりよき世界を目指して進んでいくことは可能だとしているようである。空白石版説も嘘であり、われわれがよりよき世界に向かっているというのも嘘である、という選択はしない。われわれは、たまたま昔より増しな地点にいるのかもしれないが、それが危うい均衡のもとでかろうじて成立しているいつ逆転するかわからないかりそめのものではないかという視点は採用しない。
 われわれは昔より便利で安全な世界に住んでいるとしても、それでも相変わらずわれわれは愚かなのであり、一向に進歩しない存在のままである。もし昔より進歩している点があるとすれば、それはわれわれが優れた神の似姿であるという迷妄を捨て、過去にできあがった情動にあいかわらず振り回されている滑稽な存在であるということを自覚できるようになったという点にあるのではないだろうか? ピンカーはキリスト教的道徳観から自由になっているようには見えない。
 われわれの直感が狩猟採集時代の生活に適しているとすれば、それは現代物理学、宇宙学、遺伝学、進化論、神経科学、発生学、経済学、数学などの理解には役に立たない、教育が必要なのはそのためである、とピンカーはいう。それは人間の精神が生まれつき苦手とするものを補うことを目標にするのであると。話し言葉は教わらなくてもわれわれは身につけることができる。しかし書き言葉の習得には教育が必要である。算数や科学も学ばなくてはならない。学習の効果はあとになって生きてくる性質のものである。そうであるならば、学習へのある種の動機づけ、たとえば学業成績のよいものに高い地位をあたえるということは必要なことかもしれない、とピンカーはいう。
 ピンカーによれば、知能には先天的に差があるのだから、これは生まれつき有能であるものは高い地位を占めて当然であるということを意味していまうかもしれない。《心は「空白の石版」》を否定する説が嫌われるのは、まさにこういう議論を回避したいためであることをピンカーはみとめている。
 量子力学についてある程度までであってもついていける人は限られているのであろうし、本当に量子力学が理解できている人は一人もいないというようなことをファインマンもいっていることは本書でも紹介されている。
 量子力学ほどではないにしても、現代遺伝学についてある程度きちんとした理解をできる人もまた限られているのかもしれない。そうであるならば、相変わらず多数の人にとっては設計者のデザインという説明のほうがずっと理解しやすいし受けいれやすいままであることになる。
 《進化は“事実”あったことである》ということを学校では教える。しかし、その本当の意味するところを理解できている人は、ほとんどいないままである。とすれば、多くの人にとって進化論とは単なる知識であって、日々生きていく上での知恵とは何ら関係ないものになってしまう。
 われわれはあまりにもリアルに自分の心の存在というのを感じてしまっているから、魂というような何かが、脳の情報処理活動なのである、ということについて腑に落ちるものとしては受け入れられない。量子力学と同じである。
 いつの時点から生命がはじまり、いつの時点で生命が終わるのかという生物学的には決めようがない問題について、それでもある種の決定をせざるをえないことについて、われわれはただただ当惑する。本当はわれわれが人と呼ぶものは、少しづつできあがってくるのであって、受精の瞬間(実はそれをいつと特定することも容易ではないが)、あるいは着床の瞬間などにいきなり人間が出現するのではない。
 しかし、どこかで線を引かなくてはいけない。ピンカーもいうように、このジレンマには解決策がない。また死についてもはっきりとした線引きができないことが安楽死の問題などと繋がっていることも言をまたない。ピンカーはここでもトレードオフしかないという。境界線を探すのではなく、境界線を選択するのであると。しかし、命という問題はもっとも深く感情がかかわってくる場所であるので、理性的な線引きの選択などできるわけはないように思われる。
 確率論というものもわれわれの直感に反するものである、とピンカーはいう。単一事象の確率は数学者にとってさえ難解な概念である。「あなたは癌ですが、手術をすれば、再発の可能性は10%です」という言葉が意味するものである。自分にとっては再発するかしないかである。
 現代経済学の理論は狩猟採集社会とはかけ離れたものである。それが依拠する貨幣や数学などはその当時にはまったくなかった。利子とは不当なものであるという直感は多くの人に共有されている。
 直感が誤っていることを示し、現代の理解に必須な事項を教えることが教育の役割であるのに、現代の教育カリキュラムは中世からあまり変わっていない、とピンカーはいう。
 量子力学の理解が困難なように、生命の理解も、心の理解もまた難しいことをピンカーも認める。そして、運動する分子がなぜ主観的な感情や自由選択をもたらすのはあいかわらず現代でも謎のままであることも認める。
 この全3巻を通じて、ピンカーは心が「空白の石版」でないことを主張するところまではえらく威勢がいい。そしてここまではピンカーの主張は正しいのである。そこまでは科学の議論なのである。しかし犬の世界、ライオンの世界には倫理や道徳といったものはないのだから、倫理や道徳といったものを科学の議論の延長線上に構築することはできない。科学の側がいえることは、倫理や道徳が自明の前提としていることにつき、それは自明とはいえないのではないですかということまでである。つまり壊すことまではできる。しかし、何もつくることはできない。
 倫理や道徳は無根拠なのである。ただどのような選択をすることがわれわれの生活が一番穏やかであるということだけなのである。生得的に知能には差がある。そこまではいい。そこから、知能が高いものは高い地位が与えられて当然とする考えもでてきうるし、知能が高くても低くても地位は籤引きという考えがでてきていもいい。あるいは、知能が高いものは歴史上危険な行動に走ることが多かったから高い地位につけるべきではないという議論だってありうるかもしれない。
 そのどうあるべきという議論についてさえ、それを駆動する力は嫉妬だったり権力欲だったりするかもしれないのである。つまりが狩猟採集時代に植えつけられたわれわれの心である。最新の科学について理解する力は少数のものにしか与えられていないとしても、嫉妬や権力欲はわれわれに平等に与えられている。たしかにピンカーのいうように、心は「空白の石版」ではないのである。
 

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (中) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (中) (NHKブックス)