渡部昇一「腐敗の時代」

  文藝春秋 1975年5月25日初版
  
 
 「新常識主義のすすめ」につづいて渡部昇一の本をひっぱりだしてきて読み返してみた。この「腐敗の時代」も論文「戦後啓蒙のおわり・三島由紀夫」が大変面白かったので、それについて考えてみたい。
 まず昭和35年(1960年)の山口二矢浅沼稲次郎刺殺事件から論じはじめる。山口二矢は事件後少年鑑別所で自殺するが、その時に「七生報国」「天皇陛下万歳」と書き残している。それを知ったときに渡部氏はどういうわけか前年に刊行された三島由紀夫の「鏡子の家」を読み返してみたいと思ったという。
 そして昭和45年(1970年)の三島事件のときには、石坂洋二郎の「青い山脈」と「山のかなたに」を読み返したいと思ったという。
 渡部氏がいうのは石坂洋二郎の小説にある途方もない明るさと解放感である。戦後社会の無条件の礼賛である。焼け跡の向こうには青い山脈があり、山のかなたにはすばらしい生活が待っていることになっていた。
 しかし、そこに壁が立ちはじめたと渡部氏はいう。その壁を描こうとしたのが「鏡子の家」であると。「鏡子の家」の前に三島は「潮騒」を書いている。これはある意味、戦後の明るさを反映しているという。これは三島にいわせれば「ギリシャ的な明るさ」であり、キリスト教「精神」の暗さに対比される「肉体と知性」の明るさなのである。しかし、その明るさに飽きたのだ、というのが渡部氏の主張である。なぜなら三島は「暗い」方、オカルトの方に惹かれていったのだからと。明るさや明晰を求め、理知を信頼するのが正常な世界の原理であるのに対し、暗さを志向するのがオカルトの原理である、と渡部氏はいう。
 開明派・啓蒙派を代表するものは、右では小泉信三であり、左では大内兵衛であるというのが渡部氏のみたてである。両者ともにオカルトがわからない人である。かれらは近代主義者であり、朱子学の伝統である認識至上主義・主知主義につながる。認識とか主知とかは明るいのである。一方、三島が惹かれていった陽明学は三島にいわせれば「黒い秘教」である。これは英訳すればオカルトである。「英霊の声」はフィクションではなく実体験を描いたもので、本当にあのとおりの経験をしたのだと渡部氏はいう。そしてその故に、ああいう死に方をすれば転生できると思っていたのである、という。「豊穣の海」の輪廻転生の物語は文学的技巧ではなく、三島が心から信じていた世界を描いたのである、と渡部氏はいう。
 
 前のヒューム論においては、主知主義に対比されていたのは「人知の限界」という見方であった。ここでは主知主義に対比されるのは「オカルティズム」である。
          オカルティズム←→主知主義←→人知の限界
 では、オカルティズムと人知の限界の関係は?
 わたくしが三島由紀夫を読むようになったのは、福田恆存を通してであった。30年以上前、その時代のファッションで吉本隆明を読んでいて、吉本が敵陣営のまともな人として江藤淳福田恆存を挙げているのを読んで「えっ?」と思った。福田恆存紀元節復活運動などにかかわっている痩せた貧相なおじさんという認識であったからである。紀元節復活運動などというのをやっているのは馬鹿にきまっていると信じて疑っていなかったので、信じられなかった。それでもまあ読んでみるかと思って、手を出して、衝撃をうけた。「芸術とは何か」「人間・この劇的なるもの」「西欧作家論」などである。しばらく立ち直れなかった。それで福田の本をいろいろと読み漁るとともに、福田が属していた「鉢の木会」のメンバーである中村光夫大岡昇平吉田健一三島由紀夫なども読むようになった。
 後知恵で考えるとだけれども、中村光夫大岡昇平主知主義派なのではないかと思う。福田恆存は明らかに「人知の限界」派なのだけれども、同時に「人知の限界」→「人知を超える大きな存在」というT・S・エリオットやG・グリーンの手つきが見えてくるところがある。そして三島由紀夫は反主知主義→オカルティズムなのだとすると、吉田健一が正統的?「人知の限界」派なのかどうかが気になるところである。主知主義派でないことは確かであるとしても、オカルト派でなかったのかどうかという嫌疑は残るように思う。
 いずれにしても、わたくしは主知主義派にだけは同調できないところがあるようで、とにかく明るい人が嫌いなのだなあと思う。「明るさは滅びの姿か、人も家も暗いうちはまだ滅亡せぬ」というのは太宰治だったろうか?(「右大臣実朝」?) 別に滅びてもいいのだけれど、明るいのはいやなのである。明るい人=バカという偏見があるのであろうか?
 丹生谷貴志氏はその吉田健一論「奇妙な静けさとざわめきとひしめき」(「吉田健一頌」書肆風の薔薇1990年 のち「天皇と倒錯 現代文学と共同体」青土社1999年に所収)で以下のようにいっている。

 人間が有限な存在であり、その能力には一定の限界があるということ、これは誰が呟いても不思議のない平凡な確認である。とりわけ十八世紀においてこの事実は絶えず歌われ囁かれる平凡なエレジーステロタイプだった。しかし有限であるという事実、その能力には或る限界があるという事実が否定的な事実として生きられ始めたのは近代以降においてなのである。例えば十八世紀において人間の有限性という事実は嘆かれはしたがしかし、人間の無能力、能力の欠如として捉えられることはなかった。価値体系が空間的な階層的連鎖(存在の大いなる連鎖−ラヴジョイ)において表彰されていた十八世紀において、世界はそれぞれが固有の限界を持った無数の存在の連鎖において形成されていると見なされていた。魚は魚の、猫は猫の、人間は人間の、それぞれ固有の限界の中にある。そして無限、至高価値としての無限-絶対はそれらの有限性を超越した地点にあるのではなく、それらの無数の有限性の集合体として表象される。

 ラヴジョイの「存在の大いなる連鎖」(晶文社 1975年)について初めて知ったのは荒俣宏氏の本のどこかであったように思う。それで「大博物学時代」(工作舎 1982年)をぱらぱらとめくってみたが、存在の大いなる連鎖という言葉はでてくるもののラヴジョイの名前は見つからなかった。この「大博物時代」はまだ創造の神が信じられていた時代、つまり時間が永遠の相にとどまり、空間が思考を支配した時代における博物学をあつかった非常に興味深い本である。こういう本を読むと「科学革命の構造」のT・クーンの主張がいかにももっともであると思える。同じものが時代によって全然別物に見えるのである。同じラヴジョイの「観念の歴史」(名古屋大学出版会 2003年)巻末の「訳者解説」で鈴木信雄氏は、ラヴジョイの「存在の大いなる連鎖」は、ギリシャから18世紀までの西欧世界の認識を決定した「存在の連鎖」という空間的見方とそれを支える「連続」「充満」という原理が、生物学や古生物学の知見によって、「存在の連鎖の時間化」の方向に解体し、発展や進化の観念への変化していくことを示した著作であるとしている。
 「人間の本性を考える(中)」でピンカーは、空白の石版説は現代の大いなる存在の連鎖なのであるといっている。これは《その時代のおいて人生に意味をあたえ道徳に根拠をあたえているとおもわれているが科学からは攻撃されている教義》という意味でそうなのだというのだけれども、存在の大いなる連鎖という見方を覆したのは、上にもいわれているように生物学・古生物学の知見なのであり、進化的見方の広がりなのである。ピンカーのいいたいのは、18世紀までの階層という不平等概念を支える「存在の大いなる連鎖」という見方から、平等という概念を支える現代の「空白の石版説」へということなのであろう。
 しかし、ラヴジョイの言うごとく18世紀あたりを境に空間から時間へという根本的な認識の変化がおきたのであるから、空白の石版説という無時間的、空間的概念は広い意味での進化論的見方に太刀打ちができるわけはないのである。
 丹生谷氏もラヴジョイにならって《18世紀を境にした空間から時間への変化》という見方を採用する。そして、空間概念下の「存在の大いなる連鎖」のもとでは、個々の存在の有限性は問題とならないが、時間化したあるいは歴史化した「存在の大いなる連鎖」のもとでは、個々の存在は完成へとむけて不断に向上をつづけなくてはいけなくなることを指摘する。そこから絶対と無限と完璧を志向する時代が出現してくるという。
 それこそが近代なのであり、吉田健一という存在は、近代を必然とする枠組みからの脱出あるいはその枠組みの中での自己治癒の試みそのものだったという。それを丹生谷氏は「ヴァレリー的な《近代-世紀末》的主知主義、不安の主知主義から、ヒューム的な経験主義の方向へずれ出ていくこと」という言い方で表現する。過度に抽象化してしまった精神を、事物性の地平にまで還元することがその目標となる。完璧を目指すよりも人間であることを見失わない方が人間であることにとつては重要なのであるから。
 吉田健一の小説「東京の昔」への清水徹氏の批評に微妙に異論を唱えながら、丹生谷氏は、吉田健一は深淵を仮想すること自体が狂気であると言っていると主張する。深淵があると思い込む精神が《近代-世紀末》の精神であると吉田健一はしたのだと主張する。
 清水徹氏や丹生谷貴志氏がこだわる深淵というものがオカルトにつながる何かなのであるということが言えれば、いままで述べてきた話がまとまるわけである。吉田健一は確かにオカルト側の人間ではなかったが、オカルト的な何かを仮想敵とすることで自分の位置を決めたのである。深いということに向かうことには何ほどかの狂気があること、狂気に進んで向かうのは病気であることを示そうとした。吉田健一三島由紀夫の死を全否定したけれども、そこに深さへの傾斜と耽溺を見たのであろう。それは現在にあっても未だに近代であることから抜け出せない病気-狂気なのである。
 ところで橋本治は「宗教なんかこわくない」で、西欧においてキリスト教が土着の宗教をとりいれた場合にはマリア信仰といったものとなり、滅ぼした場合には、滅ぼされた宗教がオカルトとなって祟る、というようなことを言っていた。日本においてはキリスト教ではなく、科学あるいは合理主義が土着の宗教を滅ぼしたので、それがオカルトになって三島由紀夫に祟ったのであろうか?
 とにかく世の中には、深淵などというものがあることに気がつくことさえしないひともいる。深淵を仮想するひとは病であるとしても、そういう病の人がいるのだということに気がついてさえいない人がいる。ピンカーはそういう人なのではないかという気がする。そういう人には科学を、あるいは事実を教えればすぐ治ると思っているのである。
 暗い方にあえていく人がいる。狂気の人である。黄昏にとどまる人がいる。それが人知の限界を知る人なのであろうか? 真昼が大好きな人がいる。それが主知主義の人なのだろうか?
 わたしは明るい人が嫌いである。しかし、だからといって暗い方、暗い方へといくのがいいわけではないのだぞ、ということを吉田健一からわたしは学んだのであろうか? もちろんオカルトの人はそんなことをいわれても鼻で笑うだけなのであろうが。
 
 ところで本書には「歴史を見る目〈進化論は自然科学に非ず〉」という進化論を論じた文も収められている。これがまたとんでもない論文で、「獲得形質の遺伝というダーウィニズムの中心にある考え」などというのは誤植であることを祈るばかりだけれども、どうも進化と進歩ということの区別もついていないみたいだし、現代音楽がモツアルトよりも劣るのだから進化論は間違っているなどという、どうにもこうにもの議論をしている。
 ほんのわずかの事実から粗雑きわまりない議論をしているように見える渡部氏の最近の論法の萌芽がすでにここにあるのかもしれない。
 玉石混交の本なのだろうか? 三島由紀夫の死を論じたものとして、これ以上に説得的な三島事件論を読んだことがないのである。吉田健一は全否定だし、福田恆存は論評自体を拒んだし、倉橋由美子は全肯定だし・・・。
 合理主義からはあの事件は読み解けるわけはない。あの事件のすぐあと、どういうわけか「民青」にひとがやってきて、「きみあれ理解できる?」とおずおずときいてきた。あの当時「民青」が旗色が悪く、「全共闘」に勢いがあったのは、「民青」が明るく、「全共闘」が暗かったからである。明るい人には理解できないのである。暗ければいいというものではないのだが・・・。



腐敗の時代 (PHP文庫)

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