渡部昇一「教養の伝統について」 

  講談社学芸文庫 1977年11月10日初版
  
 このところ渡部昇一氏の本をちらちらと読み返しているのは、氏の本に進化論への言及がしばしば見られ、それが文科系あるいは文学系の人の進化論理解の一つの典型を示しているように思えること、また過去の日本人の進化論理解についていろいろ教えてくれるところがあり、参考になるからといったことからである。
 本書は1974年に「漱石漢詩」という題名で出版されたものを講談社学芸文庫に収載する際に「教養の伝統について」と題名をあらためたものらしい。原題のごとくに漱石漢詩を主として論じたものであるが、同時にハーバート・スペンサーの進化思想?が明治大正の日本の知識人にあたえた影響を論じた本でもあり、漱石についてもスペンサー思想との関連という視点から考察されている。
 漱石とともに考察されるのがラフカディオ・ハーンである。漱石とハーンは精神構造においてきわめて類似しているというのが、本書のもう一つの主張となっている。ハーンもまたスペンサーの呪縛にとらわれた人であった。
 ハーンを渡部氏は卒業論文の対象としたらしい。渡部氏の中学高校時代の恩師である佐藤順太氏の家にはハーンの全集があったと「知的生活の方法」(講談社現代新書 1976年)にあったから、ハーンと渡部氏の因縁は浅くないものがあるのかもしれない。
 スペンサーといえば「社会ダーウィニズム」の代表格ということになるので、ダーウィン進化論の誤解、あるいは誤用の典型ということになり、その主張の正否についてはほとんど議論さえもされないのが最近の風潮かもしれない。
 近年ではほとんどみなくなったように思うが、一時は進化論というとワンセットのように出てきた「適者生存」というのはスペンサーの造語なのだそうである。そしてこの「適者生存」という思想が明治大正期の日本の知識人にきわめて大きな影響を与えたのだと、渡部氏はいう。
 わたくしはスペンサーを読んだことがないので、本書での渡部氏の紹介をそのまま用いると、「社会は進化し、その結果ある均衡状態に達するが、そこに何か強い外力が加わると、その社会は解体の過程に入る。その過程で適者生存の原理が働く」というようなものらしい。
 ハーンは日本ではもっぱら「怪談」の作者として知られているが、もともとは非西欧世界のローカル・カラーを西欧側に紹介することを業とする新聞記者であり、日本にくる前にも西インドやクレオールなどから非ヨーロッパ社会の様々な話をアメリカに送ることで生活していた。
 日本に来たのもまたローカル・カラーの紹介のためであるが、松江に来てハーンは衝撃をうける。そこに非ヨーロッパ圏にも高度文明国家があることをはじめて発見したからである。ハーンは松江の町に、スペンサーのいう均衡状態を完成を見たのである。
 もともとスペンサーの論を真理であるとして受け入れていて、自分も時代の適者たらんと奮闘していたハーンではあるが、同時に自分は競争に「不適」な人間なのではないかというおそれをも抱いており、競争のない町、松江に安心と安住の地を見出したのである。松江は小都市であり、まだ古い江戸時代の姿がまだ残っていた。ハーンはそのあと熊本に移るが、松江より大都市である熊本にはすでに「新しい日本」が出現しつつあり、競争の世界、弱肉強食の世界、適者生存の生存競争の時代が始まろうとしていた。ハーンは熊本では不幸であった。
 日本にきて、スペンサーの理論を実際に証明する地を発見したと思ったハーンはますますスペンサーへの信頼を強めるとともに、日本に完成していた文明社会の均衡状態を崩壊させようとする強い外圧である西洋の力を嫌悪するようになる。
 ハーンは引き裂かれた人間であった。一方では古い日本への愛着がますます深くなった。それを自分の作品の中で表現し、西欧世界に発信することに熱中するが、日本に残る江戸文明が早晩崩れていく運命にあることが必然であることもよく認識していたので、日本の若者に対しては、文学などやるな、実学をやれ、工学をやれ、船舶学をやれと説く人間ともなったのである。
 漱石もまたハーンと同じような引き裂かれた人間であったというのが渡部氏の本書での主張である。それがもっとも色濃くでている「白雲郷と色相世界−夏目漱石漢詩論−」を以下みていくことにしたい。
 漱石は幼少のことから何もせずにじっと南画をみていることに幸福を感じる変わった人であった。
 しかし、
 
 眼もて美を観たる人は
 既に死の手に落ちたるなれば、
 もはやこの世のわざには適わざるべし(プラーデン「死に捧げられたる者」)
 
 なのであるから、漱石はこの世には適わない人、不適者なのであった、と渡部氏はいう。
 幼少のころから漱石はまた漢文の世界にも没入し、漢詩の世界に親しんだ。南画と漢詩の世界が本来の漱石の世界なのであると渡部氏はし、それを「白雲郷」の世界と名づける。
 一方、漱石は異様に英語を嫌った。漱石にとって英語はまさに実学、世界との競争のための学問なのであった。その競争の世界、適者生存の世界を渡部氏は「色相世界」と呼ぶ。
 漱石もまた明治のインテリとしてスペンサーの徒であったのであり、日本がこれから競争の世界で生きていかざるをえないことを明確に自覚していた。そのため一時、工科の建築科にはいったくらいである。職業は「何か世間に必要なものでなければならぬ」と感じたのである。漱石が最終的に英語を選んだのは、建築を選ぶのと同じ実用の学としてである。
 ロンドン留学から修善寺の大患まで、漱石漢詩を作ることをやめていた。しかし、実は、「我輩は猫である」「坊ちゃん」「草枕」は漢詩の代用、漱石にとっての「白雲郷」を描いたものであった、と渡部氏はいう。
 それとは異なり、朝日新聞社入社以後は、小説書きは漱石の本職、競争社会での実用の仕事、世間での必要に応えるためのものとなる。本職であれば、「色相世界」のできごとである。それが結局は漱石の胃をいためることとなり、修善寺の大患の原因となった。その大患のあと漱石はふたたび漢詩を作り始めた。


 仰臥人如唖
 黙然見大空
 大空雲不動
 終日杳相同


 大患以後も、漱石の作品は「彼岸過迄」「行人」「こころ」と、一見、以前との作風との断絶なく続く。それはそれらがプロの作品として書かれたもので、漱石の心の真の中核で書かれたものではないからだと、渡部氏はいう。
 「明暗」のころ、漱石は午前に小説を書き、午後は漢詩を作る生活をしていた。そのような中で漱石は「虞美人草」からずっと続いてきたプロの作品としての小説を離れて、はじめて「色相世界」での義務としての作品ではない、もう少し自由な作品を書けるようになったのである。残念ながら、その時点で死をむかえることになったのだが、というのが渡部氏の論の骨子である。
 
 わたくしが医者のなったばかりのころには、医者の雑誌の投稿欄によく漢詩が載っていたものだった。わたくしより30〜40歳上の世代では、まだ漢詩をつくる趣味が存続していたのである。それがなくなったのは何時ごろからなのだろうか? わたくしが小さな時にはまだ床の間というものもあり、そこには南画風の掛け軸がかけられていたものだった。祖父のところには時々、古道具屋さんが出入りしていた。
 渡部氏がいうのは、競争のない社会(白雲郷)と競争の世界(色相世界)の対立ということである。江戸時代には日本は均衡の社会、文明の社会にいたが、そこに外の世界(西欧)が侵入してくることにより、競争の世界、人と人が争う世界へと移行したという図式である。
 渡部氏も江戸時代が誰にとっても均衡の世界ではなかったことは認める。封建時代は親の敵でござる、という人がいたのだから。しかし少なくともインテリにとってはそうではなかったという。武士と富裕な町人にとってはそうではなかった、彼らにとってはまことにのどかな生きるに甲斐ある世であったという。優勝劣敗とか生存競争とかいうことがまったくない世界であったのだと。
 白雲郷はユートピアなのであるが、そこでもみな平等で同等な能力を持つわけではない。しかし、愚なるものも拙なるものも、愚なるままで拙なるままで、蹴落とされることも排斥されることもなく生きていけるのである。
 一方、色相世界では、万人は万人の敵であり、すべての人が競争相手であり、愚なる者、拙なるものがどんどんと蹴落とされ、排斥されていく世界である。
 この色相世界の原理が進化論なのである。適者生存、弱肉強食、優勝劣敗、生存競争の世界である。最近の進化論の本を読んでもこういう言葉を目にすることはほとんどないが、20年ほど前には、進化論というとすぐにこういう言葉がでてきたように思う。
 丘浅次郎の「進化論講話」(講談社学術文庫 1976年 原著 明治37年)では、第7章が「生存競争」というタイトルであるし、第8章「自然淘汰」の第1節は「優勝劣敗」である。そこでは「優勝劣敗というよりはむしろスペンサーの用い始めた適者生存という文字を取った方が、誤解せられるおそれがなくて穏当であるかも知れぬ」と書いてある。たしかに、明治のころには、進化論は適者生存、生存競争といった言葉と同義に近かったのである。
 また、「社会のありさまを満足せず、大革命を起こした例は、歴史にいくらもあるが、いつも罪を社会の制度のみに帰し、人間はいかなるものかということを忘れて、ただ制度さえ改めれば、黄金時代になるものの如くに考えてかかるゆえ、革命の済んだ後は、ただ従来権威を振るっていた人らの落ちぶれたのを見て、暫時わずかの愉快を感じるのほかには何のおもしろいこともなく、世は相変らず澆季で、競争の激しいことはやはり昔の通りである」ともいっている。「人間は生きて繁殖して行く間は競争はまぬがれない」のであるから、そういうものをなくしうるという社会主義の奇矯な主張もまた同じ運命をたどるであろうという。人間がいかなるものかは、進化の過程を見ればわかるというのである。ピンカーも似たようなことを言っていたような気がする。天が下、新しきことなしなのであろうか。
 しかしまた、「雑草を刈り取らねば庭園の花が枯れてしまう通り、有害な分子を除くことは人種の進歩・改良にも最も必要なことで、これを廃してはとうてい改良の実はあげられぬ。単に人種維持の上からいえば、なお一層死刑を盛んにして、再三刑罰を加えても改心せねような悪人は、容赦なく除いてしまったほうがはるかに有益である」というようなおそろしいこともいっている。S・J・グールドがほれみろ、とすぐにでも引用しそうな文章である。丘浅次郎は、人間は猿から進化したという制約がある以上、その人間が理想社会をつくれるなどということはありえないとするのであるが(進歩の否定)、一方人間の改良ということを信じる点では進歩を肯定するのである。
 スペンサーは哲学者であって生物学者ではないが、丘は生物学者である。少なくとも明治時代には進化論はこういう受容のされかたをしていたのであり、鎖国の江戸末から植民地争奪の競争世界にいやいやひっぱり出されることになった明治の日本の行き方を考える上でのきわめて有用な指針であるとされていたわけである。
 ピンカーは、スペンサー流の社会ダーウィニズムを「自然主義の誤謬」という言葉で否定する。《自然界でみられる出来事はいいことだ》とする間違いであるということである。自然界にみられるというのは単なる事実であって、それがそうであるべきであるということではない。また、スペンサーは富や権力や地位といった社会的成功と進化的成功を混同していると批判する。進化的成功とは生存力のある子どもの数であるのに、それをわかっていない、と。
 ここでのピンカーの批判はきわめて微妙である。人間が相争う存在であるのは、事実である。しかし、それが事実であるからといって望ましいということではない。だからスペンサーの説、社会ダーウィニズムは間違いであるというのだが、一方ではハイエクを肯定的に引用し、能力ある人が公明正大に得た報酬がねたまれるようなことはおかしいということもいっている。
 ここでのピンカーの説明の仕方は、ずるいやりかたに見える。両論併記的に、ある能力の差が生得的なものでないのに生得的であると誤解されることは差別と機会不平等につながるが、ある能力の差が生得的であるのに生得的でないと誤解されるならば、それは間違った平等主義に繋がるとする。ところがピンカーは「空白の石版」説を否定し、人間の能力は大幅に生得的であると主張するのであるから、あきらかにハイエクの側なのであり、両論の一方を支持している。
 そして、ハイエクのいっていることは、明らかに自然界で見られることを尊重せよ、ということなのであり、ほとんど「自然主義の誤謬」に近い。《自然界でみられる出来事はいいこと》ではないにしても、自然界に見られる《人間の本性》に反することは、生物としての人間には適応できないので、その本性に反する社会主義などのユートピア主義は人間を不幸にするだけというのであるから。
 富や権力や地位といった社会的成功と進化的成功を混同した点でスペンサーは間違ったのかもしれない、しかし生得的に有能であるがゆえに得られた富や権力や地位は肯定されるべきであるとするならば、その議論もまた広義の進化論的観点から得られたものではある。生得的に有能であるがゆえに得られたものであっても、その結果の富や権力や地位は肯定されるべきではなく、それは再配分されるべきだという考えもまたありうる。《自然界でみられる出来事はいいこと》だとするのは間違いなのであるから。
 要するに、人間の本性は生得的なものであるのかどうかではなく、人間の本性はどのようなものであるのかである。人間の本性は競争を嫌うものであって、競争世界は人間の本性に反するが故に人間を不幸にするというようなことがあるかである。あるいは、競争の世界にいるが故にすべての生き物は不幸なのであるが、人間は唯一、その不幸から脱する可能性をもっている動物なのであるのかというようなことである。
 渡部昇一氏は、江戸時代も誰にとっても白雲郷であったわけではないとしているわけであるが、渡辺京二氏は「逝きし世の面影」(葦書房 1998年)で、そうではなく江戸時代はたぐい稀な高度の文明世界を形成していたのであり、日本に西欧文明を持ちこんだ当事者である西欧人が、自ら持ちこんだ西欧文明によって日本のそれまでの文明が破壊され、日本社会は“進歩”するであろうが、日本人は不幸になっていくだろうということを予言していたことを、多くの例を引いてしめしている。
 たとえば、以下のE・アーノルドの言葉(明治22年)。

 あなたがたの文明は隔離されたアジア的生活の落着いた雰囲気の中で育ってきた文明なのです。そしてその文明は、競い合う諸国家の衝突と騒動のただ中に住むわれわれに対して、命をよみがえらせるようなやすらぎと満足を授けてくれる美しい特質をはぐくんできたのです。

 また、

 寺院や妖精じみた庭園の水蓮の花咲く池の数々のほとりで、鎌倉や日光の美しい田園風景のただ中で、長く続く荘重な杉並木のもとで、神秘で夢見るような神社の中で、茶屋の真っ白な畳の上で、生き生きとした縁日の中で、さらにまたあなたの国のまどろむ湖のほとりや堂々たる山々のもとで、私はこれまでにないほど、わがヨーロッパの生活の騒々しさと粗野さとから救われた気がしているのです。

 ここでいわれていることは、日本の美しさもさることながら、これを言った西欧人がいかに、競争の生活に疲れ果てていたかということである。まさに「色相世界」での生活に徒労感を覚え困憊していたのであり、それ故に、日本に「白雲郷」を見たのである。
 渡辺京二氏は一筋縄ではいかない複雑の人であるから、そのような西欧人の日本美化が今日でいうオリエンタリズム(E・サイード)によるとする批判についてもくわしく検討している。その上で、それでもそのころの西洋人にとって、日本の「男も女も子どもも、みんな幸せで満足そうに見えた」ことは事実なのであるとする。長崎での監視船の役人が、船の上で扇を使いながら読書している姿が、西欧人の目には仙境に見えたのではないかと指摘している。また太田雄三氏による《従来のわが国でのハーン受容》批判への再批判もしている。
 ここで渡辺氏は林語堂(Lin Yutang)の「支邦のユーモア」(岩波新書 1940年)から、

 人生において重要なのはいかに進歩すべきかではなくて、辛抱強く働き、気高く堪え忍び、そして幸福な生活ができるように、吾々の人世をいかに整理すべきかを知ることである。・・・人生は主として実のある或る事柄に還元される。例えばうまいもの、良き家庭、苦労のない平和な心、寒い朝の一杯の熱い粥。その余は空の空なるものにすぎない。

 を引用したあと、さらに、林氏が、

 (西欧人は)価値を精神的と物質的に分ける。ところが吾々はそれをば一つのものとして混同しているのである。あなた方は同時に精神的であり、また物質的であることはできない。しかし吾々にはそれができるし、何らそこに衝突しなければならないものを感じない。あなた方の精神の故郷は天上にあるが、吾々のは地上にある。

 といっているのを引用している。
 西欧人は精神と物質を明確にわけることにより、その両方において高度の達成をみたのであるが、そのことが同時に、物質の「誇大化」を呼び、精神からも何ものかを失わせた、と渡辺氏はいう。その喪失の故に、そのころの西欧人は日本に「白雲郷」(という言い方は渡辺氏はしないが)をみたのである。
 19世紀中葉、日本を訪れた欧米人は、みな日本人が満足しており、幸福であるという印象をもった。なにより日本人は陽気であり機嫌がよかった。(また今日の目からみれば異様に)無欲であり礼儀正しかった。
 それはその当時、すでに西欧が近代(工業化社会)に突入していたのに対して、日本がまだその以前にいたからである、というのが渡辺京二氏の主張である。
 さてそれならば、前近代から近代へというのは進歩なのだろうか?、あるいは進化なのだろうか? ここが問題である。おそらくスペンサーはそれを必然としたのである。明治の人間がスペンサーに魅了されたのも、江戸から明治へという動きがたとえ不幸なものであっても、それが必然であることを示したものだったからなのではないだろうか?
 そしてこのような見方はいまだにわわわれを捉えているのではないだろうか? ハーンはあるいは漱石は、明治の日本を「色相世界」への参入と見た。今日のグローバリズムへの反対は、現在を「白雲郷」と見るのではないにしても、グローバリズムの世界を人を不幸にする「色相世界」であるとするのである。そしておそらくイスラムの世界から見れば、西欧世界は「色相世界」であり、自分たちの「白雲郷」を破壊しようとするものなのである。
 わたくしがはじめてハーンを単なる「怪談」の作者ではないことを認識したのは、随分昔、福田恆存の「消費ブームを論ず」という短文を読んだときであった。(「福田恆存評論集6(新潮社 1966年)」所収) それは、もともと山本夏彦氏が「木工界」に書いた「君子多忙」という小文でのハーンへの言及の紹介である。明治の一人の「不幸な」女性の一生をハーンが感動して紹介しているというもので、福田氏は、「私達が自分にとつて損になるものを切捨てるときは、必ずそれに伴ふ得になるものも一緒に切捨てることになる」といったあと、次のようにいう。

 昔あつたのに今は無くなつたものは落着きであり、昔は無かつたが今はあるものは便利である。昔はあつたのに今は無くなつたものは幸福であり、昔は無かつたが今はあるものは快楽である。幸福といふものは落着きのことであり、快楽とは便利のことであつて、快楽が増大するほど幸福は失はれ、便利が増大するほど落着きが失はれる。

 「白雲郷」とは落着きのことであり、「色相世界」とは便利のことである、などというと面白くもなんともない話になってしまうが、福田氏はここで、女房が亭主の着物を手で洗うのは、亭主と付き合うことであるが、それを電気洗濯機がやったのでは、二人の間に付き合う切っ掛けが失われてしまう、生産を通じてしか人間は付き合えず、消費は人を孤独にする、などという「反動的」なことをいっている。橋本治氏のいうように仕事というのは他人の必要に応えることなのかもしれないが、その応える方法として手で洗おうが、洗濯機を使おうがあまり関係ないようにも思う。こういうところの便利までも否定するのはいささか反動が過ぎるのではないだろうか? 
 本書の別の章、「スペンサー・ショックと明治の知性(1)」で、G・K・チェスタトンの歴史の感じ方には二つのものがある、good time going と good time coming とであるという説が紹介されている。いうまでもなく保守主義とは good time going であり、進歩主義とは good time coming である。
 渡部氏は進化論もまた good time coming の思想であるという。ここら辺は渡部氏の誤解あるいは誤認であるとしか思えないが、案外と、進化論は good time coming 説であるというのは俗説として強固に残っているのかもしれない。 good time coming 説にしても good time going 説にしても、ともに千年王国説ではないがキリスト教的な時間感覚にかかわるものでないだろうか? ニーチェ永劫回帰ではないけれども、よくもならず悪くもならずいつまでたっても変わらないという説もあってもいいように思う。そして、わたくしはその立場だなあと思う。
 わたくしは漱石をほとんど読んでいない。「猫」と「坊ちやん」と「虞美人草」だけである。なんだか作り物めいて読み続けられないものが多い。その中で「坊ちやん」と「猫」の前半だけは筆が自由で窮屈な感じがない。その理由が本書を読んで少し納得できたような気がする。今度また「草枕」に挑戦しようかと思う(今まで何回も挫折)。
 本書によれば、「草枕」には漱石熊本時代の漢詩がちりばめられているのだそうである。今、ちらちらと見ていたら、こんなのがあった。


 獨座無隻語
 方寸認微光
 人間徒多事
 此境孰可忘
 會得一日静
 正知百年忙
 遐懐寄何處
 緬貌白雲郷  (貌は正しくは、貌に〈しんにゅう〉)


 漱石は五十歳で死んでいる(数え? 満では四十九歳?)。わたくしは来年六十歳である。漱石最晩年の
 
  大愚到り難く 志成り難し 
  五十の春秋 瞬息の程
 
 は、良寛
 
  首を回らせば五十有余歳 
  是非得失は夢の中


 に呼応しているのだそうである。


  蝉がゐた
  夏ぢゆう歌ひくらした
  秋が来た
  困つた、困つた!
  (教訓)
  それでよかつた


 堀口大學の「蝉」と題する詩である。


  ラ・フォンテエヌのは寓話
  さてこれはわたくしの愚話


 と題に添え書きされている。


 遊びくらして60年である。「困つた、困つた!」なのか?、「それでよかつた」なのか?