A・ホブソン「夢の科学 そのとき脳は何をしているのか?」

  講談社ブルー・バックス 2003年12月
  
 前にA・ロックの「脳は眠らない」をみたときにid:jmiyaza:20060328、反フロイト派の闘将として紹介されていたのがホブソンである。本書を読むかぎりそんな戦闘的にも見えないが歳をとって枯れてきたのであろうか?
 ホブソンは、夢を科学として研究するためには、夢の“内容”よりも“形”を重視すべきであるという。その“形”とは、夢の中でどのように知覚し認識し感じているかということである。
 夢には不安や心配といった情動にかかわるものが多い。たとえば試験の夢を見るひとは多い。また、夢をみている最中に何かを思い出すことはない。夢はつねに現在である。われわれは荒唐無稽な経験を夢を見ているときにも変だとは思わない。また夢は非常に思い出しにくい。
 そのように夢をみているときの精神活動は目覚めているとき大幅に違う。それがどのように違うかが大事であって、この夢は何を意味しているのかと問うことは科学には繋がらないというのがホブソンの基本姿勢である。
 夢を見ているときの精神活動は、医学的にはいえば譫妄状態に類似している。
 以前には夢をふくめた脳の活性化は外部の刺激によると考えられていたこともあるが、現在では、少なくとも睡眠時の脳の活動は内部で自動的に活性化するのであり、外部の刺激によるのではないとされている。。
 1953年に、アセリンスキーとクライトマンによってREM睡眠が発見されて、睡眠中にも脳が活性化することが事実として初めて示された。夢が生理学の対象となることになった。
 そうなると、夢を見ることそのものに機能があるのか?ということが問題となる。現在、ほとんどの哺乳類で睡眠中に脳が活性化されることが示されている。REM睡眠は哺乳類でほとんど共通に見られる現象と考えられるようになった。そして、それだけでなく、哺乳類の生存にとって、非常に重要な意味を持つ活動なのではないかと考えられるようになってきた。体温調節や手続記憶の強化にも関係していることが明らかになってきている。
 ホブソン説の中心にくるのは“神経修飾”という考えである。神経伝達物質には脳のモードを大きく切り替える働きがあるという考えで、脳幹にあるセロトニンノルアドレナリンを含む神経細胞は、ノンレム睡眠時には活動を半減し、レム睡眠時には活動を停止する、ことが覚醒と睡眠、そして睡眠中のノンレム睡眠とREM睡眠の違いをもたらすというものである。そこから、覚醒と夢見はそれぞれ異なる意識状態であり、その違いは脳内化学物質に大幅に依存する、という見解がでてくる。
 それならば、人間以外の動物は夢を見るのだろうか? この問いはそのまま、人間以外の動物は意識を持つかという問いにもつながる。
 
 以上のホブソン説への批判は、ロックの本でも紹介されていた。脳幹における神経伝達物質の変化が睡眠と夢の中心という説自体への批判も多いらしい。夢における前頭葉の働きを重視する立場もあり、ホブソンが夢の内容にはほとんど意味がないとするのに対して、前頭葉派は、夢の内容に意味があるとする。
 そのような批判にもかかわらず、ホブソン説が魅力的なのは、人間と他の動物との一貫性をこの説では容易に保てるということである。ほとんどの哺乳動物ではREM睡眠がみられる。他の哺乳動物が夢を見ているか?ということは答えのない質問であるが、ホブソン説の強みは、夢をみているかどうかに重要性をおかない点にある。
 とにかくREM睡眠には、あるいは睡眠一般には、非常に重要な生理機能があるらしい。その生理機能が重要なのであるから、人間だけが夢についての別の機能をもっていると見る必然性は何もない、というのは生物学としてはきわめて真っ当な考えである。
 人間にだけ“夢”あるいはREM睡眠に特別な機能があるとすれば、人間と人間以外の動物との間に大きな飛躍があるとしなければならない。その飛躍として誰でも考えるのが意識(あるいは自己意識)であろう。ホブソン説の恐ろしいところは意識(あるいは自己意識)でさえも随伴現象ではないかということを強く示唆する点にある。
 脳が活性化した常態が意識である。意識には覚醒時の意識と睡眠時の夢がある。もし夢が脳の活性化の随伴現象であるとすれば、意識もまた随伴現象であって人間にとって本質的には必要でないものということになる。
 これは心−脳問題における随伴現象説にきわめて近い立場である。通常、心‐脳問題でいわれる“心”とは覚醒時のものであり、睡眠時の“夢”と脳との関係が議論されることはない。“心”とは“自分である”という感覚と不可分のものであるとされているからである。夢という現象においては自分が自分を支配しているという感覚がない。いわば、夢は見させられている。夢を見ているその時には、自分が夢の主人公であっても、それはそのような感覚を持たされているのであって、本当に自分が自分を支配しているということはおきていない、そう考える。しかし、ホブソン説は、覚醒している時の意識と、睡眠中の夢には本質的な差異はないではないか、という恐ろしい疑問を想起させるのである。
 現在医学においては、意識のない状態であっても生きさせることは可能である。生物学的には意識は、生きる上では絶対に必要なものではない。しかし、進化的には意識の発生は何らか有利に働いたのであろう。
 生物学は生きているということを研究する。進化学は生き残るということを研究する。夢を見ることは生存に必須のものはないとしても、生き残るのには有利な何かがあったのかもしれない。
 医学は生物学の系であり、生きていることとかかわるが、医療は進化学の系であって、生き残ることにかかわる、ということはないであろうか?
 病気で状態が悪くなり、意識が朦朧としているひとでも夢は見ているのだろうか? 夢は譫妄状態に近いとすれば、その時、脳波をとるとどうなっているのだろうか? 麻酔がかかっているひとの脳波はどうなっているのだろうか? 夢さえみない状態にまで脳の活性が落ちているのあろうか?
 科学によって、この数十年で、睡眠には重大な生物学的な意義があることが明らかにされてきた。一方、その睡眠時に生じる夢に生物学的な意味があるのかどうかについては、まだ議論が決着していないようである。
 夢には大きな意味があるという説がフロイトによって提出され、フロイトの夢の解釈についてはさまざまな批判があったものの、夢には何かの機能があるということについては、漠然とみなそう思ってきた。そのことについて、近年では科学の側から大きな疑義が突きつけられているということなのであろう。
 おそらくフロイトの唱えた説は脳科学的にはまったく根拠をもてないものであるであることが、これからも次々と明らかになっていくのであろう。しかしながら、フロイト説とそれによる精神分析はこれからもある一定の力は持っていくであろうと思われる。それはフロイトが、《一体、人間は自分のことについてどれだけわかっているのだろうか?》という根源的な疑問を提出して、19世紀的な人間の自尊と自己確信に大きな疑問符をつきつけたからであり、また現在でも精神分析によって“治る”少なくとも“変わる”ひとがいることも確かだからである。
 臨床医学は治ればOKである。たとえ間違った理論によってでも治ればいい、あるいは治せる理論は“正しい”理論なのである。何かをすれば何かがおきる、何かが変わる。おそらく戸塚ヨットスクールでだって“治った”人がいるはずである。問題はある人が治ったから、ほかのひとも治るはずとはいえない点にある。プラセーボによっても三割くらいのひとは良くなる。ある素人心理療法家が独自の理論を案出し、それで三割のひとがよくなったとすれば大したものである。なにもしなければ一割もよくならないのだから。彼は大いに自信をつけるであろう。もっといえば、“転移”がおきるならば、何かが変わらないはずはないのである。この“転移”を発見したのが、フロイトの最大の功績であるのかしれない。しかし、いつもいいほうに“変わる”とは限らないこともいうまでもない。困ったほうに変わることもしばしばある。しかし、困ったほうに変わったとすれば、それは患者が悪いのだと割り切ってしまえば、三割の“治癒”?率は大したものなのである。世にさまざまな心理療法理論がある由縁である。
 本書を読んで感じるのは“夢”の研究は“意識”の研究への一番の近道であるのではないかということである。クオリアだ、ハードプロブレムだといっていても、手がかりさえない目標である。それにくらべれば“夢”というのはずっと手がかりの多い対象である。
 本書を読んでいて、どうしても考えてしまうのは、われわれが覚醒していると思っている時間もまた“夢”を見ているのではないかという昔からの疑問であり、SFでもしばしば取りあげられる状況である。
 《胡蝶の夢》というのは、われわれの認識の形式からいえば絶対解決不能の疑問なのである。同時に不毛の極致の疑問である。哲学の多くはこの不毛の地のまわりをぐるぐると廻っているような気もする。


夢の科学―そのとき脳は何をしているのか? (ブルーバックス)

夢の科学―そのとき脳は何をしているのか? (ブルーバックス)