池内恵「書物の運命」

  文藝春秋 2006年4月15日初版
  
 著者はイスラム学者。1973年生まれとあるからまだ30代前半である。父はドイツ文学者とあるから池内紀氏であろうか?
 書評あるいは本の感想をおさめたものであるが、当然著者の専門分野からいって中東問題などを論じた本が中心である。一読して、イスラム学というのだろうか、とにかくその周辺がとんでもないことになっているらしいことがよくわかる。池内氏のいう《日本の中東・イスラーム言説に制約を課している「業界的」事情》である。
 たとえば著者略歴である。「東京大学文学部イスラム学科卒業。・・・専攻はイスラーム政治思想史、・・・。著書に『現代アラブの社会思想―終末論とイスラーム主義』・・・。」
 わかるだろうか? 東大の学科名は古くからの名称だからイスラム学科は固有名詞のようなもので変えられない。しかしイスラムといういいかたをしてはいけなくてイスラームとしなければならないという勢力がこの分野を席捲しているらしく、したがって著者も(やむなく?)イスラームという表記で統一している。
 その例として、バーナード・ルイスイスラム世界はなぜ没落したか?』(これがイスラムであることに注目)への書評と、それにかんする長大な注釈の部分(p183〜228)をとりあげてみる。わたくしはこの『イスラム世界はなぜ没落したか?』を読んでいないし、そもそもバーナード・ルイスという名前さえはじめてきくわけであるから、池内氏の説明のみを根拠に以下のようなことを書くのは無謀であるとも思うが、それをしていいと思うのは、本書を読んで池内氏が信用できるひとであると判断したということによる。わたくしの判断はまちがっているかもしれないが、そうであれば、その責任はもちろんわたくしにある。
 池内氏によれば、これはとんでもない本で、監訳者が冒頭に長大な「解題」を書き、「この本の著者はかつてはいい研究をしていたが、今やネオコンのイデオローグに堕してしまった。反面教師として大いに疑ってかかってお読みなさい」というようなことをいっているのだそうである。池内氏のいう「言論において守るべき基本的ルールさえも顧慮されないことが多い学界・論壇の現状」である(地位に付随した権限を誇示・行使して反対者の言説を妨害し、権威主義的に公式・非公式にさまざまな圧力をかけ、威圧し、人格攻撃をしといったことがしばしばおこなわれるのだそうである)。それはかつて羽入氏によるウエーバーの「プロテスタントリズムの倫理と資本主義の精神」批判への折原氏の反論を読んだときにも感じた。
 このルイスはサイードの論敵として有名なのだそうである。さすがのわたくしもサイードの名前は知っているし、「オリエンタリズム」は本棚のどこかにあるはずである(例によって読んでいないけれども)。それとバレンボエムとの音楽論。
 日本には「サイード学派」(池内氏のいうほとんど「サイード教」徒)とでもいうべき一派があり、サイードを少しでも批判する人、サイードを批判する人を少しでも肯定する人を許さないのだそうである。池内氏によればサイードアメリカの英文学者であって「オリエンタリズム」ではオリエンタル学の世界では相手にもされないような通俗的なオリエント論をとりあげているだけなのだそうである。こんなことを言ってしまって、池内氏が「サイード教」徒からどのような仕打ちをうけるか、想像するだにおそろしい話である。
 「日本の中東・イスラーム言説に制約を課している「業界的」事情」がなぜ生じるのかということを考えていくと、「近代化」をどうみるかという問題に帰着する。中東世界が“遅れて”いるのか?という問題である。それを“遅れて”いるとみるのは西欧的価値観を普遍的なものとする誤謬であり、西欧世界は物質的には豊かであるかもしれないが、中東世界のほうがトータルには“豊か”なのであり、少しも“遅れて”はいないのだというような言説を信奉できない人間は、業界人とはなれないという事情があるようなのである。今わたくしは意識的に平板化し単純化して書いたので、いくらなんでもこんなことをいうひとはいないであろうが、要するにポストモダニズムの悪い部分だけを凝縮したような人たちが中東・イスラーム言説業界には集まってきているようなのである。
 池内氏によれば、日本の中東・イスラーム業界のひとたちは本当は中東にはあまり興味をもっていない。興味をもっているのは日本の近代化であり、それにたいする批判だけだという。《われわれの近代化は間違っていた。しかし、われわれの轍を踏まない、西欧近代に毒されない何かが、中東世界にはあるはずだ》という期待と希望の対象としてだけであるということである。日本人にとっての政治的・思想的な「最後の秘境」とみているのであり、「現状を超え」「オルターナティブ」を提示してくれるものとして、西洋崇拝とは逆の幻想を抱いているのだという。それはかつては中国や北朝鮮、あるいはユーゴやキューバに対して抱かれた幻想である。しかしもはやその幻想は通用しなくなってしまっている。最後に残ったのが中東・イスラームである、という。
 かつて文化大革命はそのような文脈で賛美された。その夢はさめたが、イランがかって進めた世俗化・西欧化政策を覆して、固有の民族文化・価値規範に基づく政治を唱導しているホメイニ師のような路線は、いまでもマスメディアからは肯定的にみられている。
 とすれば、問われるべきものは「近代化論」である。近代化論は1950年代的なテーゼである。それに対抗して1970年代に文化相対主義がでた。「イスラーム化」というのは「近代化」に対抗するために持ち出されて概念である。近代化=悪であるとするために持ち出された「イスラーム化」は当然、近代化を否定する独自の論理がそこにあることが期待される。「イスラームとは普遍的な何かであり、それは宗教でもあり、思想でもあり、文明でもある」ということになる。イスラームというのはトータルなものであるから、イスラーム教、イスラーム思想などとわけて考えるのもいけないという議論もでてくる。イスラーム世界を知りたいというよりは、日本国内の思想的・党派的・政治的な対立の中で「イスラーム」というものを導入することで、どう対立相手を倒すか、自分の勢力を伸張させるかが、最大の関心事項となってしまう。
 だが、「イスラーム」を一体のものとして理解すると、90年代以来イスラーム世界で顕著になっているテロリズムなどをどう説明するかという難問が生じてしまう。また、その関連で「イスラーム原理主義」という言葉を使う人間が批判されるという現象もおきていた。ところがその批判者が9・11以降、今度は、今回の事件をおこした「イスラーム原理主義」思想は、一般イスラーム教徒の信仰とはかけはなれた異常な現象であるなどというようになった。
 なぜそんなばかなことがおきるかという点について池内氏は、思想界におけるマルクス主義の権威失墜によるのではないかと推測している。マルクス主義思想崩壊のあと、「ジェンダー」「環境」などとともに善悪を裁く基準として選ばれたのが「イスラーム」なのであると。
 しかし、ここの池内氏の説明はいささか納得できないところがある。マルクス主義はどう考えても「近代化論」の範疇である。ここでも問題はマルクス主義ではなく、《自分が正義の側にいたい》という心情なのであろうと思う。あるいは、《他人を不正義であると糾弾できる立場に自分が立ちたい》という心情である。だから、マルクス主義が正義であるとされている時代にマルクス主義に走るのであり、イスラームが正義であるとされる時代にはそちらにいくわけである。
 問題は、なぜイスラームが正義とされるようになったのかということのほうである。マルクス主義にしても、ジェンダー論にしても、環境派にしても、そして「イスラーム」派にしても、そこに共通しているものは「今」は間違っているという認識である。「今」を否定して反権力の側に立ち、「今」を肯定する権力側の人を罵倒できる理屈として、その時々に選ばれるものが、時代によって違うということだけである。
 「ジェンダー」や「環境」や「イスラーム」の根底にある思想はポスト・モダニズムである。西欧近代の否定である。1970年代以降の思想界の「正義」はポストモダンの側にあったということで、ポストモダンの陣営に属していれば、すでに非勢になった「西欧近代派」を思う存分罵倒できるという特権的地位を手に入れることができることになったわけである。とすれば、9・11があろうとなかろうと、昨今のポストモダン派の退潮の中では、早晩、「イスラーム」陣営は戦略の建て直しをせまられることになるのは避けられなかったわけである。
 だから、近代化という問題を真剣にもう一度考え直すことがなにより肝要というのは池内氏のいうとおりなのである。そこで池内氏が持ち出すのが、「政教分離論」と「世俗化仮説」である。近代化というのは《政治の権力と宗教の権力が分離していくこと》であり、世の中が非宗教的になっていくという定義から近代化という問題を整理できないかということである。イスラム世界においても現実には政治権力と宗教権力が分離していなかったわけではない。しかし思想・理念の世界においてはそれが一致すべきであるという考えが維持されてきたのであり、その世界からは「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」という主張があらわれなかったという事実の問題なのである。
 
 ある世界が、幸福であるかどうかを測ることはできないが、物質的に豊かであるかどうかは、ある程度は測定可能である。そして物質的に豊かになるためには“西欧近代化”以外のやりかたはないのだろうかというのが、問われるべき問題である。
 『イスラム世界はなぜ没落したか?』の「没落」というのは西欧的近代化の流れの中に入ることができなかったということである。それがなぜいけないのか。もちろん、いけないことはない。
 ここで事実判断と価値判断が対立する。「中東は近代化してこなかった(事実判断)」←→「中東は近代化しなくてもかまわない(価値判断)」、あるいは「中東は近代化するはずがない(事実判断)」←→「中東は近代化しないほうがいい(価値判断)」。自らがすすんで近代化しないという道を選んだのか? 近代化できないことを自覚して、負け惜しみをいっているのか?ということである。
 こういう問題を考えてくると、明治以降のわが国の歩みの問題と深くつながっていることは容易にみてとれる。池内氏が本書で岡倉天心の「茶の本」をとりあげ、しかも天心は避けて通ることのできない対象であるが、今は取り組みたくない対象であるといっているのも当然であろう。日本は戦争に負けたという事実によって、この思想問題がもう決着してしまったと思いたがっているが、そうであるならイスラームの問題にもっと旗幟を鮮明にできるはずなのである。非西欧化、八紘一宇などというのは無謀な試みであった。無駄な抵抗はやめるべきである、とか。
 しかし、この問題に最終的な決着がつくはずはない。なぜなら幸福かどうかを測ることはできないからである。今中東で生きている人たちは、われわれより、あるいは現在西欧で生きている人たちより幸福か?という問いには絶対に答えはでない。
 問題は文化相対主義の問題、ポストモダン思想の問題へと戻っていかざるをえない。
 わたくしがこういう本を読んでいるのも、文化相対主義ポストモダンの問題が、医療ともかかわるからである。
 ここにあるひとのある状態があるとしよう。それを病気と認識することも、一つの認識論的枠組みの結果であるのだから、それは一つの見方にすぎないのかもしれない。その見方は、その状態はある人がかけた呪いによるとする見方と等値であり、それらの間で正邪あるいは優劣を決めることはできないのかもしれない。そういう見方が、ポストモダンおよびそれに連なる文化相対主義からでてきていることもわれわれは知識としては知っている。
 しかし、ある人が急に胸が苦しくなって倒れたとすれば、その人の心臓に血液を供給している血管が詰まったのである。それは事実としてそうなのであり、一つの見方としてそうなのではない。医療者はみなそう思っている。
 ある状態を心筋梗塞という病名で認識する、そういう見方が「近代化」というある動きと必然的に連動するものであるのかが問題である。「近代化」は不幸なのであり、「近代化」はしないほうがいいのである、という見方には相当多くの支持がある。では「近代化」しない世界には心筋梗塞はないのだろうか。もちろんあるのだが、そういう名前で呼ばれず、そういう疾患の機構は認識されないのかもしれない。
 もちろん、心筋梗塞という病名があろうとなかろうと人々が幸福であればいいのである。だから、われわれは近代化したが不幸になったと思う人々は、われわれの轍を踏まない生きかたに憧れることになる。たかだか、ある種の疾患の理解と対応にいささか優れているとしても全体として不幸な世界など否定されるべきなのである。われわれはかって和魂洋才などという馬鹿なことを言った。そういう分離は不可能なのである。だから、トータルとしてのイスラームということになる。
 そういう流れの中で、池内氏の「政教分離論」「世俗化仮説」が問題となる。歴史は《政・教が分離し》《世俗化》という方向に動いていくという大きな流れの中にあるのだろうか?
 聖なるものこそが幸福に連なるのであり、世俗化は「豊かさ」をもたらすことはあっても幸福はもたらさないという見方はいたってありふれたものであろう。わたくしが従事している医療の世界にしても、またその根にある科学にしても、「世俗化」なしには実現しなかったものということはないのだろうか?
 西欧の世界では「聖俗革命」ということがおきた。西欧科学はキリスト教的世界観なしには成立しなかったのは事実であろう。しかし、それは聖から俗へという一方向なのであって、俗から聖へという方向はないのではないだろうか? その点でわたくしは池内氏の説を受け入れる立場である。世界は大きな目で見れば政教が分離し、世俗化していく方向をいくのである。
 しかし、そう簡単にはいかない。インフォームド・コンセントということを考えて見よう。医療者は医療を受ける側にさまざまな情報を提供するが、それを受け入れるかどうかは医療を受ける側の判断に委ねられる。医療者が自分で最適と考える医療行為を一方的に強制することは、パターナリズムとして厳しく戒められる。これは価値相対主義、文化相対主義の世界なのである。何が正しいのかは誰もわからない世界なのである。わたくしとしても、自分の前のエホバの証人の患者さんがいて、輸血を拒否すれば、それを強制することは絶対にしない。
 事実の世界だけは世俗化していき(というのも変ないいかただが)、価値の世界は相対的なままにとどまるのであろうか?
 イスラムイスラーム?)の世界は政教分離を拒否し、価値の世界でも絶対を主張している点で特異である。その世界が世俗化していくことはないのだろうか? わたくしは世俗化していくと思う。何によって? 教育の普及によって。かつて福田恆存は「教育の普及は軽薄の普及なり」といった。そうなのである。教育が普及することにより、人びとは軽薄になり、世俗化していくのである。
 軽薄になって生きて何が楽しいか、というものがあるかもしれない。しかし、どういう生きかたが楽しいか幸福であるかを勝手に決めてしまうのはパターナリズムというものである。われわれは価値相対主義の世界に生きている。少なくとも価値相対主義というものを知ってしまった世界に生きている。聖から俗へという方向があるように、価値絶対主義から価値相対主義へという方向もある。近代化以降の世界においては宗教さえも他の宗教を尊重するという相対主義の中にいる。宗教でさえも絶対でない。もちろん、それを宗教の堕落というものもあるであろう。それは宗教の世俗化なのだから。
 以上のようなことを池内氏の本を読んで考えた。
 内田樹氏の「ユダヤ論」や本書で示されるイスラームの世界は、日本の現状とはあまりにかけ離れている。ひょっとすると日本は世界でもっとも世俗化が進んだ国の一つであるのかもしれない。わたくしは宗教が嫌いで、政教分離どころか宗教が存在しない世界を夢みているのだが、宗教的なもののない世界、聖なるもののない世界は生きるに甲斐のない世界であるとするものも多い。しかし、わたくしは、犬も猫も宗教など信仰などもっていないではないか、それで別に困っているようにも見えないではないかと思うのである。
 世俗化というのは人間の動物化のことであるのかもしれない。人間は進化の産物であるという“事実”を受け入れるというだけのことかもしれない。とはいっても、進化の産物である人間にあるとき神様が魂を注ぎ込んだというようなとんでもない主張だってあるわけである(エックルスがそういうようなことをいっていたような気がする)。そう簡単なものではないのであろうが。
 われわれの多くが宗教的な何かに惹かれるのは、そのような性質をもつことが進化の過程で生き残ってくるために何らか有利に働いたからであるのだろうか?
 

書物の運命

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