③革命

 
 本書のあちこちに「革命」という言葉が見られる。それも気軽にというか、いたって無造作に使われている。この「革命」という言葉の意味がわからない。
 「革命」というのは、通常は暴力的手段で権力を奪取することを指すものと思われる。しかし、そういう使い方には見えない。世の中が現在とはまったく別のものに変わるということを意味しているように見える使い方が多い(「まったく新しい社会ができるかもしれないと期待していた覚えがある」p104)。それが「百人の兵士で首相官邸と警視庁を占拠する」(p118)という話とパラレルに出てくるのである。
 今の世の中はもうどうしようもないものであって、現在とは根本的に異なるまったく新しい社会にとって変わられる以外には救いのない、きわめて絶望的な世界である、という認識が一方にある。そして他方に、新しい社会を作り出すために百人の兵士で首相官邸と警視庁を占拠する、という議論があって、それが無媒介に結びつく。論理以前の無茶苦茶であるが、もし今の世界がどうしようもないものであるならば、何もしないことは100%敗北である。夢物語といわれるような革命計画でも何もしないよりも増しであるというような論理によって、「革命」という理念自体は救済されてしまうのである。
 社会制度が変わることによって、人間が今とは根本的に違った“立派な”ものになるというような神話が信じらていたのは何時までだったのだろうか?
 1960〜70年代にはまだ一部では信じられていたが、現在でももはや誰も信じるものがいなくなった思想の代表が、このような神話なのではないだろうか? 《文化大革命》になぜあれほど多くの人が共鳴したのかといえば、《文化大革命》といわれた運動が、社会を変えることにより人間を変える運動に、外からは見えたからであろう。
 社会組織が変わると人間も変わるという思想は大昔からあるものではない。19世紀以前には知られていなかったものであろう(フランス革命は1789年であるけれども)。19世紀から20世紀にかけて世界を支配した特異な思想が20世紀後半のどこかで消滅したのである。今の若者は未来に希望をもたない、というようなことがよく言われる。しかし、未来への希望というのが、未来が現在とは截然とちがった世界になるということであるのなら、そのような希望は本来ありえないものなのであるから、それがなくなったことは当然のことがおきただけのことである。
 いまからたった40年ほど前と現在とで一番変わったのはこのことではないだろうか? ユートピアの思想が失われたのである。それにかわった、ユートピアが実現できないのならば、あるのは索漠とした無意味な未来だけであるというのも、ユートピア思想の残像なのであるから、まだユートピア思想は完全には失われてはいないのであろうが。
 人間は人間以上のものになることはできない、10年先、100年先、1000年先の人間も別に今と違った人間であることはできないというのは、進化論を受け入れることから生じる平凡な帰結であるが、それを受け入れるまでに人間は随分と長い時間を必要としたわけである。
 人間もまた動物の一種であるという平凡な事実を受け入れるならば、「革命」という理念もまた魅力を失う。すくなくとも「革命」という理念を志向する情念を支えるものがなくなる。「革命」というのは、たんなる政治技術としては、人に訴えるものをあまりもたない。本書で感性ということが強調されるのはそのためである。本書でいわれることは、政治理念としての「革命」は間違っていた(あるいは実現不可能な妄想であった)が、「革命」を志向した感性は、無意味として捨て去ることのできない何かをもっていたということである。
 全共闘運動にも政治的な「革命」を一切信じない立場と、それを信じる立場の双方があった。それを信じたものは連合赤軍などのような悲惨な道命をたどっっていった。しかし、「革命」を信じないにもかかわらず、現状を否定する運動をおこなったものもある。それが現在的な意味をもつ全共闘運動なのである、ということを小阪氏はいいたいらしい。
 だから連合赤軍的なものと全共闘的なものをはっきりと小阪氏は分けて論じる。そして連合赤軍的な立場に厳しい分だけ、全共闘的なものへの評価が甘くなってしまっている。