④ 社会主義

 1991年、あっというまにソヴィエト連邦が消滅してしまったときには本当に驚いた。信じられない思いだった。1989年のベルリンの壁の崩壊にもびっくりしたけれども、東側の体制というのがこんなにあっけなく崩れてしまうというようなことは予想だにしていなかった。1968年の時代にそれを予見できていたひとがどれくらいいたのだろうか? アメリカだって予想できていなかったに違いない。そうでなければ、あんなに真面目にヴェトナムに介入したはずがない。ドミノ理論などというのが本気で信じられていたのである。
 ソヴィエト崩壊以来、社会主義体制は現実の社会体制としては機能しないことが歴史によって証明されてしまったことになって、将来の社会体制としてそれを目指すという動きはほとんど消滅してしまった。しかし、1968年にあったのは「革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義者派」であり、「社会主義青年同盟解放派」であったりしたのである。それらの運動は本気でマルクス主義を、社会主義を目指そうとしていたのであろうか? その頃「反帝反スタ」とかいう言葉があった。反帝の帝は帝国主義であって西側は帝国主義段階にいることになっていたわけで、それには当然反対する。と同時に東側もスターリニズムという独裁体制下にあるのであるから、そういう体制にも反対する(反スタには反=日本共産党という意味もあるのであろうが)。
 双方に反対なのであるが、現在自分が生きているのは日本という資本主義体制による西側陣営の国であるので、まずなによりもそれに対抗しなければならない。その符牒として選ばれたのが、マルクス主義であり、社会主義だったのではないだろうか? 今は根本的に間違っているのだから、それは根源から改められなければならないという気分を表すものとして使われただけではないのだろうか?
 本書にもかかれているように、60年安保で反対運動を主導した共産主義者同盟(ブント)の流れのなかから「三派全学連」が生まれた。60年安保において「ブント」は、革命ではないかもしないけれども、本気で政権の転覆を考えていたと思う。しかし「三派全学連」がそのようなことを考えていたのかがわからない。
 その当時の学生運動の主流であった「三派全学連」と全共闘運動は別のものであるというのが本書の主張の一つとなっている。全共闘には組織がなく(上下関係がなく)、指導者(命令を下し、責任をとるという意味での)もおらず、規約もないのだという。
 自分もその渦中にいたのに「らしい」などというのはおかしいが、「東大全共闘」というのが結成されたのは1968年7月5日だったらしい。全然記憶にない。このときに「処分撤回」とか「機動隊導入自己批判」とかいう、自分がいる場所で起こった具体的な問題に対して闘うための組織としてつくられたのだという。
 わたくしの認識では、学生運動の世界で以前からの日共系と反日共系の対立があったなかで、反日共系のさまざまな派が、反日共系ということを共通の枠組みとしてとにかくも緩くでもいいからまとまろうというのが「全共闘」であると思っていた。「三派全学連」と独立して、有志の運動として別に「全共闘」ができたとは思わない。少なくとも当時はそうは思っていなかった。ただ「全共闘」という組織がいわゆるシンパを吸収するものとして有効に機能していたであろうことは間違いない。「三派全学連」という核があり、その周囲にシンパ層もふくめたゆるい組織として「全共闘」があると思っていた。
 このシンパ層は別にマルクス主義とか社会主義というものに思い入れをもっていない人が多かったであろう。著者の小阪氏もそういう意味でのシンパであり、相当活動的なシンパであったということのようである。どうもこのシンパ層としての全共闘こそが本当の全共闘なのであり、今からふりかえっても何らかの意味を見出せるものがそこにあった、というのが小阪氏が本書でいいたいことのようなのである。
 小阪氏は全共闘運動を「生をめぐる観念の闘争」だったという。そこにあったのは「どう生きるか」という抽象的な倫理だったという。これらが政治的な言葉で語られたとしても、政治行為なのではなく表現行為であったのだという。しかし、自分にしか関心のない政治運動というのは奇妙なものである。全共闘運動でどうしてもわからないのはその辺りであって、その当時語られた政治言語を、それを語ったひとがまったく信じていなかったのだろうかということが、その当時から今に至るまで一貫して疑問として残っている。そして小阪氏がそういう政治的言語を氏として、どの程度信じていて、どの程度信じていなかったのかということは本書を読んでも、少しも明らかにはならない。
 「どこか社会がおかしい」と思っても、それを語る言葉は古典的なマルクス主義といった古い用語しかなかったというのが小阪氏の論である。しかし、それは奇妙な言い方であると思う。問題は、「どこかおかしい」社会を根本的にそれとは別の「おかしくない」社会に何らかのやりかたで変えていくことができると氏が考えていたのかということである。それは可能なのであるが、マルクス主義はその方法としては採用できないという立場もあるはずでああるが、小阪氏がそのような立場であったようには読めない。
 わたくしが、当時、そとから見ていて共感できた全共闘運動の部分というのは以下のようなものであると思う。《現在の社会はおかしいが、それを変えることは不可能である。しかし、偶然、どういうわけか自分の周囲にそのおかしな社会から独立した不思議な祝祭空間が出来上がってしまった。それをいかに長く持続させるかということだけが課題である。それへの外部からの介入を阻止するためには、あらゆる利用できる言語を用いる。大学当局に対しては、一見交渉をしているような提言をしていくが、こちらは妥協するつもりなど初めからない。むこうから妥協的な回答があればさらに呑むことが困難な一層過酷な要求を追加していくだけである。マスコミ人はマルクス主義社会主義にコンプレックスをもっている人間が多いから、自分たちの言説をそういう文脈で飾っていけば、一定期間マスコミを味方にすることができる。それは自分たちの空間を少しでも長く持続させることに有効であろう。妥協して自分から運動をやめる気持ちはないのだから、運動の終焉は権力による物理的介入しかない。しかし何で権力は介入してこないのだろう。こんなに俺たちがやりたい放題をやっても権力は遠巻きにして見ているだけなのだから、俺たちはいい国に生まれたのかもしれない。東側でこんなことをやったらあっという間に戦車がでてくるだろうから。》
 全共闘運動に参加していたもののなかには、社会変革などということを一切信じなかった人もたくさんいただろうと思う。わたくしが共鳴できたのは、そういう人たちだけであったと思う。古典的な革命を信じているような部分にはまったく共感できなかった。全共闘運動がわかりにくいのは(マルクス主義的な)政治的言語にまみれているからである。
 ところで政治的なものは何ら全共闘運動とはかかわらない、ということを説得的に論じているのが、橋本治の「ぼくたちの近代史」である。ということで、次にはそれをとりあげてみたい。