⑥ 「討論 三島由紀夫 vs. 東大全共闘」

 小阪氏の本によれば、小阪氏は69年に東大焚祭委員会という組織をつくったのだそうである(焚祭は「フンサイ」とも読むのだそうである。つまらない洒落である)。しばらくして小阪氏はそこからも離れていったようであるが、その委員会を継いだ友人の木村修氏から三島由紀夫との討論会をやるからというので参加を要請されたと書いてある。「討論 三島由紀夫 vs. 東大全共闘」(新潮社1969年)の著者名は、三島由紀夫・東大全学共闘会議駒場共闘焚祭委員会(代表 木村修)となっている。ここにでてくる全共闘Aとか全共闘Bとかいう面々の一人は小阪氏なのだろうと思う。
 小阪氏によれば、ここでの《全共闘》の発言は決して東大全共闘の思想を代表するものではないという。それを代表するものは大学院生の組織の全闘連(山本義隆氏など)だという。この討論会?で発言しているのは《全共闘》の一つの極である「自己解放派」なのだそうである。封鎖によって生じた解放区は絶対的な自由の場、既成の関係から解き放された「遊戯」の空間であるというような立場である。
 こういう《自由》の立場は三島由紀夫の場合、「鏡子の家」のような作品で徹底的に追求され、放棄されたのだと思う。何ものも信じないが故にもっとも自由であるというような虚無主義者清一郎の自由は、本当の自由は制約の中にしかないというようなカソリック的な神の思想に負けたのである。「討論・・・」の中で三島も認めているように三島のいう天皇カソリックなら神と呼ぶであろうものなのである。三島はアンフォルマルな自由には堪えられなくなっていたのである。
 だからこの討論で三島がいっているのは全共闘諸君のいっている自由などというのは虚しいぞ、自由の空間で何でもできるなどというのは生きる手ごたえにはならないのだぞ、歴史と文化的伝統にがんじがらめになったときにかえって本当の自由が手に入るのだぞ、ということである。
 しかし、それもまた理屈ではないか、「討論・・・」で全共闘諸氏がいっているわけのわからない論(「個人のいわば心的な状態において、美のほうへ、つまりあらゆる関係性、時間性、現在性を超越していく方向と、それからとって返して、関係性のほうへ向かう方向とは截然と区別されなければならない)と同じ観念論なのではなのではないだろうか?
 「私は、思想ないし観念、精神というものがどうして敵を見出さない時にこんなに衰弱するものかということを骨身にしみて感じた人間だと思うのです。(中略)私はどうしても自分の敵が欲しいから共産主義というものを拵えたのです。これを敵にすることに決めたんです。(中略)私は自分の行動を起すにはどうしても敵がなきゃならんから選んだ。」(「学生とのティーチ・イン」(「文化防衛論」新潮社1969年)) 全共闘氏の言と違ってこれは何をいっているかはよくわかる。しかし、「われわれは、護るべき日本の文化・歴史・伝統の最後の保持者であり、最終の代表者であり、且つその精華であることを以て自ら任ずる。(中略)「あとにつづく者あるを信ず」の思想こそ、「よりよき未来社会」の思想に真に論理的に対立するものである。なぜなら、「あとにつづく者」とは、これも亦、自らを最後の者と思い定めた行動者に他ならぬからである。有効性は問題ではない。」(「反革命宣言」(「文化防衛論」同))というのは?
 なぜ「よりよき未来社会」の思想に真に論理的に対立するものが「あとにつづく者あるを信ず」なのであろうか? 「よりよき未来社会」に対立するものとして「前の時代と截然と変った社会」と「永遠に変らない社会」の二つがあるのではないだろうか? 「よりよき未来社会」を目指すのが日本共産党であり、その欺瞞性を指摘して「前の時代と截然と変った社会」を目指したのが全共闘運動(の一部)であり、「永遠の変らない社会」が資本主義社会である。「永遠に変らない社会」は、「鏡子の家」でいわれた「壁」であるのかもしれない。
 鍵は「有効性は問題ではない」である。有効性は問題ではない、というのは政治運動ではない。それは有効性をうたう日本共産党へのアンチである。わたくしは全共闘運動も「有効性は問題ではない」という次元で三島由紀夫と共鳴したのだと思っていた。ところが小阪氏は「思想としての全共闘世代」で、全共闘運動のスタイルが自分のいる場所での闘争であり、ねばり強く闘争を続けるといったものだった、といっている。これは山本義隆氏らの運動のようなものをいっているのであろうか? 少なくとも「討論・・・」で発言している全共闘諸氏にはねばり強くなどという発想があるようには少しも思えない。
 東大安田講堂講堂封鎖解除のとき、籠城した学生たちの誰一人として死ななかったことを三島が嫌悪したことが、ネイスンの「新版・三島由紀夫−ある評伝−」(新潮社2000年)に書かれている。
 わたくしはあの時、あの事件を傍観していて、あそこに籠城している学生たちは全員死ぬ気でいるのだと思い込んでいた。誰も死ななかったことに驚倒した。ありえないと思った。その頃おこなわれた三島由紀夫高橋和巳(今では誰も読まなくなったしまった作家!)の対談で、二人とも籠城学生が死ぬ気でいるのだと思っていたということを語っていて、わたくしと同じような感想を持つひとがいるのだなと思ったことを覚えている。三島だったか、警視庁に?学生を死なせるな、死なせると彼らが英雄になってしまう、というような忠告をしたということをいっていたようにも思う。封鎖解除に二日もかかったのは死なせない配慮のためである。それを防衛隊長今井澄(わたしの大嫌いな男、こういうことをしたあと社会党の代議士になるなどという人間は最低であると思う)は「一日防衛できたことは勝利である」とかいったのだそうである。馬鹿である。要するに国家は最後までこの運動を大人あつかいしていなかったのである。そしておそらく三島の「盾の会」も大人あつかいしていなかったのである。
 倉橋由美子の「英雄の死」という大変面白い文章がある。三島の死に際して書かれた賛歌である。「しかし今度のことでそれ以上に思い知らされたのは、私が男ではなかったということで、いうべきことはそれにつきるかもしれない。三島由紀夫氏がしたことは、女には絶対にできないことなのだった。本当のところをいえば、男のなかにもあれができる男がいるとは考えてもみなかった。これは時勢が変ってあんなことのできる男がいなくなったというような俗見の適応範囲に三島氏をもふくめていたことを意味して、この無知は三島氏に対して恥じて謝すべきことであると同時に、男、あるいは人間について適当に高をくくって、見るべきものを見ていなかったことをまず自分に恥じる必要がある。三島由紀夫氏の日ごろの言動を一種の冗談だとして受けとっていた人は多いはずで私もその一人だった。」(「迷路の旅人」講談社1972年 所収) 三島由紀夫がまだ東部方面総監室にいたころ、倉橋氏の家に私服刑事がやってきたのだそうである。それは倉橋氏がある新聞のインターヴューに答えて、もし自分が男だったら「盾の会」に入ると答えたためではないかという。もっとも赤軍派による日航機乗っ取り事件の時も刑事の来訪を受けたのだそうで、それは学生たちの自分への支援者リストの中に倉橋氏の名前があったためであるという。その程度には学生たちの運動も三島氏の運動も警察の監視をうけていたわけであるが、ようするにお釈迦様の手のひらの中にいたということである。
 三島事件を三島が死ぬための口実つくりであると評するひとがよくいる。わたくしも全共闘運動をやはり死ぬための口実つくりだと思って見ていたように思う。三島が、家具を買いにいくひとをみると嫌悪を感じるといっていたような、安穏とした日常生活への極端な嫌悪を学生たちもまた共有しているのだと思っていた。だから非日常の空間である“解放区”がなくなるときが死ぬときであると思い定めているのだと思っていた。その点、わたくしは大変な誤解をしていたのかもしれない。本当に、全共闘運動とは、小阪氏のいうような、それぞれの現場で息の長い運動を続けることにより、何かが変っていくことを信じていた未来志向の運動であったのかもしれない(その発想こそが「討論・・・」で三島がもっとも批判したものであったのだが)。
 しかし、そうなのだろうか? 未来志向と籠城というのがわたくしにはどうしても結びつかない。わたくしには全共闘運動とは「時間よ、止まれ!」という運動であるとしか思えなかった。そして、「時間よ、止まれ!」というのは死という方向にしか向かないと思っていた。わたくしは根本的な誤解をしていたのだろうか?

美と共同体と東大闘争 (角川文庫)

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上記は原著と題名が異なっている。上記の題は原著の副題である。