⑪ 福田恆存「解つてたまるか!」

 福田恆存の戯曲「解つてたまるか!」(「解つてたまるか! 億萬長者夫人」所収 新潮社 1968年)は全共闘運動とはなんの関係もない。1968年2月に静岡県寸又峡温泉であった金嬉老事件を題材にしたものである。といっても題材にしているだけで、舞台を東京のアメリカ大使館近くにあるホテル・ハイクラスにうつしている。「エンタープライズ寄港反対、原子力空母寄港絶対反対」を叫んでデモ隊がアメリカ大使館へ侵入しようとしているというのが舞台の背景になっている。
 1968年1月の佐世保への米原子力潜水艦エンタープライズの寄港阻止闘争はその前年の羽田闘争に続く大きな反体制運動の動きであった。もちろん根っこには継続しているヴェトナム戦争がある。中国は文化大革命のさなかであり、その年の一月にはチェコで「プラハの春」がはじまっている。五月には、パリが“燃えて”いる。時代が変るのではないか、時代を変えられるのではないかという気分が確かにこのときにはあったのであり、全共闘運動もその流れに呼応したものであったことは間違いない。
 この佐世保での米原子力潜水艦エンタープライズの寄港阻止闘争には社会党共産党も大量の動員をかけている。機動隊と衝突したのは三派全学連であったため、それの印象が強いが、まだ社会党共産党もそれなりの大衆運動をできる足腰をもっていたのであり、学生運動も強固ではないにしてもそれらと連動した部分もあった。当時の学生たちの機動隊に対する武器は角材と石であった。

 俺もお前さん達の何にでも「反対せい!」といふ反抗精神に感動して、羽田の時も佐世保の時も・・・、さうよ、ついきのふの事だ、飯田橋でこれから佐世保に出掛けるといふお前さん達の仲間を見附けて、ダイナマイトを持つて行けと言つて、これを一箱渡さうとしたら、そしたら、どうだい、青二才共、勇ましいのは格好ばかりで、折角の俺の好意を台無しにしやがる、唇をわなわな震はせて、「それ、何処から持つて来たのです」なんて、警官みたいな事を抜し、ヘッピリ腰でさつさと逃げだしてしまひやがつた・・・、土台、俺は気に食はないね、竹槍や丸太棒で何が出来る? まるで敗戦間際の日本兵宜しくではないか・・・、しかも、始末に悪いことに、お前さん達には、あの時の日本兵と違つててんで死ぬ気が無いと来てゐる、(中略)どうしても解らないね、お前さん達の肚の中が、だつて、さうだらうが、日本の総理がヴェトナムへ出掛けるのを阻止する為と言つてゐながら、その飛行機が飛び立つてしまつた後で暴れ廻る、テンプラ反対とか何とか叫びながら、いざアメリカの兵士が上陸して来るとなると、角材も丸太も投げ捨てて、ニコポン面の片言英語で「脱走のすすめ」とやらの話合ひなどといふものをおつ始める気だらう・・・、そんなにテンプラが嫌ひなら、テンプラの中身を狙へば良ささうなものだ、アメリカの兵隊共を角丸で叩きのめしてやれば良いのに・・・、

 福田氏がこれを書いた2年後に三島由紀夫事件がおき、そのまた2年後に連合赤軍事件がおきるわけであるが・・・。
 小阪氏は、この頃の三派全学連の行動を政治的象徴主義だといっている。実際に佐藤首相のヴェトナム訪問を阻止できるとも、エンタープライズ寄港を阻止できるとも思っていたわけではないが、一方ではそれは反対の意思を象徴的に表現する異議申し立てであり、他方ではその行動は政治的プロパガンダでもあって、それにより勢力の拡大を図ろうともしていたという。たんなるデモでも異議申し立てにはなるが、そういう行動では勢力の拡大は図れないということなのであろうか? 
 それで勢力を拡大してその先に何をしようとしていたのかが、わからない。やはりマルクス主義とどこかでかかわるような政治体制の樹立なのだろうか? 現実に東欧ではソヴィエトからの離反が始まろうとしていた。「人間の顔をした社会主義」などという言葉がきかれるようになっていた。そういう方向なのだろうか? それとも当時にはまだ実態がまったく見えていなかった文化大革命のような永久革命路線のようなものを考えていたのだろうか?
 小阪氏はこの当時の政治を変える運動の語彙にはマルクス主義の語彙しかなかった、だからそういう言葉で語られたのだという。それでは、それから30年以上がたった現在では別の語彙であらためて語り直すことが可能なのだろうか? 構造主義などのポストモダンは何かをつくりあげる方向を指ししめすことはない。現状の誤りを指摘するだけである。永遠の異議申し立て運動、それが全共闘運動ということになるのだろうか?
 「解つてたまるか!」は発表当時、進歩的文化人批判のための劇と思われたようである。しかし、福田氏がいいたかったことは、

 この腑抜けめ! 出たらめとは何だ、出たらめとは! 俺はな、勿論、始めから本気にしてはゐなかつたさ、本気にしてはゐなかつたが、それでもあれだけお前さんの芝居に附合つてやつたのだ・・・、譬へ嘘でも、あの時のお前さんは真剣だつたのではないか? なぜ、その真剣を捨てたのだ? 一度、嘘をついたらな、最後まで頑張り通すものさ・・・、

 なんだか、つかこうへいの芝居にもでてきそうな台詞ではあるが・・・。
 政治的象徴主義などと言い出すと、何かが失われてしまうのである。
 小阪氏のように、自分を根本から動かすものは何か、などと自分に内向していては駄目で、自分がなりたいものを演戯せよ!ということである。本当の自分などというものはない、なりたい自分があるだけということである。
 そして、なりたい自分というのは、

 誰もゐない、人間の匂ひが少しもしない、町は死んでゐる、清潔な廃墟だ、そこへもう直き日が昇る、お日様はさぞ喜ぶだらうな、自分の放つた光の箭の中に生き物が一つも無いなんて、自然が長い間、待ち焦れてゐたのはさういふ世界なのだ・・・、うむ、やつと解つたぞ、俺が待ち望んでゐたのもそれだつたのだ、日の光と澄んだ空気と、そして俺だけ、さういふ世界をこの大都会の中で所有する事、さうだ、それだつたのだ、俺の求めてゐたものは・・・、

 全共闘運動がもとめていたものは、この清潔な廃墟だったのではないだろうか(もちろん解放区は不潔きわまりない空間であったのだろうが)? 全共闘運動というのは、そういう強烈なペシミズムに裏打ちされたものだと、その当時思っていた。だから、この劇の主人公と同じように、最後は死へと通じる運動なのだと思っていた。

 この廃墟の中で最後まで生き残る者は、そして死ぬ前に太陽と空気を一人占めする者は、この俺なのだ、この俺なのだ!

 今では福田恆存の信者ではなくなっているので(つまりカソリック的なものは間違いであると思うようになったので)、「藝術とは何か」や「人間・この劇的なるもの」で示されたような人間観は間違いであると思うようになっているけれども、その当時は、そうではなかったので、全共闘運動というのが非常に徹底性のあるものと見えた。
 それがその当時のわたくしにとっての、全共闘運動の一番魅力的な部分だった。政治運動としてはまったく魅力を感じなかったけれども、それでも否定できないと感じられたのは、そういう部分だったように思う。
 とすれば、その当時のわたくしにとって、全共闘運動とはカソリック思想の一つの変形のようなものと見えていたのだろうか?
 
 (「解つてたまるか! 億萬長者夫人」は絶版らしい)