⑯ 阿部謹也 「世間とは何か」・その1

 阿部謹也氏の「世間とは何か」(講談社現代選書 1995年)の本文は以下のように始まっている。

 今から十数年前のことである。女子学生の一人が、ゼミナールのコンパの席上で突然次のような質問をした。「先生、中年の男性ってどうしてあんなに汚らしいのですか」。一瞬私は答えられなかった。自分の父親の年齢の男性をそのように見ていることが腹立たしかったが、他方で彼女の意見に共感するところもあったからである。(中略)
 電車の中で中年男性達がかたまって座っている場面に出会うと、私も似たような感じをもつことがある。ダークスーツに身を固め、実直そうではあるが、没個性的で夢も希望もとうの昔になくしてしまったように見えるのである。同じ年齢であったも中年女性の集団は少し違う。眉をひそめさせるような言動がないわけではないが、没個性的とはいえず、よくいえば天真爛漫である。
 (中略)この問題は一人一人の男性の問題というよりもわが国の男社会(世間)の問題なのである。わが国の男性達はわが国独特の人間関係の中にあって必ずしも個性的に生きることができないのである。むしろ個性的に生きることに大きな妨げがあり、その枠をなしているのがわが国の世間なのである。

 魅力のない中年男性の一人として(もう老年かな?)大いに身につまされるものがあるが、養老さんの「日本人は生きられませんからね」のヴァリエーションである。ただし、ここでは《日本人は》ではなく、《日本の男は》であるが。
 日本の男性は《会社という籠に入れられて、まったく動けないようにさせられているが、給与という餌と水が目の前を流れるくるので生きていることは生きている》。ある意味、これは楽な生活でもあって、とにかく飢えることのない生活ではある。だが、それが生き生きとしてみえることはないだろう。それを「汚ならしい」「生きていない」と思うひとがでてくることもまた当然である。《餌も水も充分、病気にもならず、長生き、でも何か変。「生きてない」ように見える》。村上龍の大嫌いな、リスクをとらない生きかたである。これは世界一の長寿国日本の民が幸せであるのか、そもそも医療の目的とはという医療の大問題ともかかわってくるのだが、それは擱く。
 全共闘運動のきっかけとなった「Tくん誤認処分問題」で、なぜ教授会が処分をとりけせなかったのかというのも「世間」の論理である。たぶんこんなものであったのだろうと推測する。「やはり、これだけ学生がごちゃごちゃ言ってくるところを見ると、Tくんは現場にいなかったんだろうな。やはりわれわれはいない人間を処分しちゃったんだろうな。まずいな。処分はとりけさにゃあいかんのだろうな。でも処分をとりけしたら、学生どもは、絶対に教授会の責任追及をいってくるな。処分にかかわった教授を処分せよ!なんていってくるな。あの処分を決めた委員会には○○先生も××先生もいたよな。みんないい先生たちで、ただ病院の秩序を護ろうという善意からだけしたんだよな。だいたい警察ではないんだから、誰がどこにいたかなんていちいち調べているわけないじゃないか? 医局員の△△が、あいつもいましたとかいうから処分しちゃったんだよな。悪いのは△△だ。○○先生や××先生じゃない。あの先生方が善意からやったことで学生たちからつるし上げられるなんてことになっては絶対にいけない。どんなことがあっても処分撤回はしてはならない。ところで、△△はどこかにとばしてしまおう。」 
 だから、学生たちが「ねェ、ちょっとひどくない? バカだと思わない?」(橋本治「ぼくたちの近代史」)と思うのは当然であるし、「ああいう分からないでいる体質が実は、医学部の古い体質を作っていくんだな」(同前)と思うのも当然であるが、医学部の古い体質というのは実は「世間」のことであったかもしれない。そして「日本の体制は全部ここに象徴されてて、日本の体制ってだめなんだよね」(同前)ということになるのならば、全共闘運動が対峙しようとした日本の体制というのは、「世間」であったということになる。そして学生たちのほうもまた、「個性的に生きる」ことを目指したのではなく、養老さんのいうように、村社会の論理、非国民の論理、共同体の論理、つまり「世間」の論理で動いていたのであるから、「世間」という日本の体制を打ち壊すことなどできるはずはなかったことになる。
 もしも、全共闘運動が「汚らしい中年男」を「美しい中年男」に変えるための運動であったとしたならば、それは見事に失敗したことになる。本の裏表紙の写真にでている小阪氏は、何か変な帽子を冠ったさえないおじさんのように見える。女子学生から、どうしてあんなに汚らしいのですか、と言われる疑いが濃厚である。何というのだろう、凛としたところがかけらもないのである。
 養老氏は山本義隆氏に非常に厳しいが、わたくしなどは氏が弁解もせず《総括》もせず、黙々と物理学の歴史の本を書くのはなかなか凛々しいと思うのである。などと言うのも、わたくしもまた日本人の論理の中にとらわれているからなのだろうか? 男は黙って・・・、黙って腹を切る中野重治の「豪傑」、いいなあ、プライドだよなあ、武士は喰わねど高楊枝。
 小阪氏は「思想としての全共闘世代」で弁解ばかりしているように見えるのである。女々しいのである、というのも差別用語といわれるのであろうか? 女々しいが、天真爛漫とは程遠いのである。

 どうして 男は
 (うじうじ ぐずぐず)
 どうして 男は
 (もじもじ うだうだ)
 素直に自由が楽しめない!
 素直にエッチが楽しめない!
 
 どうして 男は
 (あれこれ ぐずぐす)
 どうして 男は
 (あれこれ うだうだ)
 言いわけばっかり 多すぎる!
 頭がやっぱり 悪すぎる!
 
 どうして 男は
 (あんなに理屈が好きなのよ?)
 どうして 男は
 あんなに あんなに
 あんなに あんなに
 屁理屈並べて
 うだうだ並べて
 素直に 素直に
 素直に 素直に
 自由なエッチが楽しめない! (橋本治月食」 河出書房新社 1994年)

「世間」とは何か (講談社現代新書)

「世間」とは何か (講談社現代新書)

月食―R ̄AHU

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