25 吉本隆明

 宮崎哲弥氏の「新書365冊」(朝日新書 2006年10月)を読んでいたら、橋爪大三郎氏の「永遠の吉本隆明」(洋泉社新書y)を評した文があって、その冒頭に「昔、とある作家が、全共闘世代のことを「吉本隆明ファンクラブ」と揶揄しているのをみて大笑したことがある」とあった。そして、その少し後で、吉本氏の論考は、「時代や状況の文脈の最中において、はじめて躍動するテキスト群であって、まず、その文脈を丸ごと受け容れ、吉本と問題意識を共有しないことには、そもそも「読めない」構造になっているのだ」といっている。
 この文はそのまま小阪氏が全共闘運動についていいたいことにもあてはまるのではないかと思った。「全共闘運動というのは、それがおかれた時代や状況の文脈の中において、はじめて理解可能となりうるものである。まず、その時代を丸ごと受け容れてみてほしい。そして、わたくしと問題意識を共有してみてほしい。そうすれば、全共闘運動というものが見えてくるはずだ」ということである。
 だから、1968年から69年にかけての時代がどのような時代であり、その時、自分がどのような問題意識をもっていたかということの説明に、氏は全力を注ぐ。小阪氏の本は全共闘運動というものがどのようなものだったのかという説明ではなく、全共闘運動というものを生んだ時代とはどのような時代であったのか、全共闘運動というものを生んだ問題意識や感性はどのようなものであったのかの説明なのである。68年から69年という時代の「情況」の解説であり、全共闘運動というものから、いつの時代にも普遍的に妥当する何かを抽出しようというものではない。
 それなら「思想としての全共闘世代」という本は何を目指した本なのだろう。オレのことを、あるいはオレたちのことをわかってくれ!、ということなのだろうか? なんだかそのようにも思える。あの時は、こう思ったけれども、今から思うとここが誤っていたという方向はほとんど見えてこない。それが小阪氏の本がとても甘くみえる理由なのであろう。
 さて、「吉本隆明ファンクラブ」である。
 わたくしはなんとなく吉本氏は全共闘側の人という印象をもっていたのだが、小浜逸郎氏の「吉本隆明」(筑摩書房 1999年)によれば、吉本氏は「学生の騒ぎのなかには、理論として何も新しいものはなく、すべて古くさいマルクス主義の焼き直し(「反スターリニズム」という名のスターリニズム毛沢東主義など)にすぎない、また「自己否定」などという甘ったれた個人主義などには何の意味もない」としたのだそうである。そう見るならば、小阪氏などは「甘ったれた個人主義」の典型ということになろう。
 それならば、

 ぼくはでてゆく
 冬の圧力の真むかうへ
 ひとりつきりで耐えられないから
 たくさんのひとと手をつなくといふのは嘘だから
 ひとりつきりで抗争できないから
 たくさんのひとを手をつなぐといふのは卑怯だから
 ぼくはでてゆく
 すべての時刻がむかうかはに加担しても
 ぼくたちがしはらつたものを
 ずつと以前のぶんまでとりかへすために
 (吉本隆明「ちひさな群への挨拶」部分 「転位のための十篇」吉本隆明全著作集 1 勁草書房 1968年)

 は、「甘ったれない個人主義」なのだろうか? この詩を、あるいは吉本氏の詩集を愛読していた全共闘運動家は随分いたように思うのだが。小阪氏も一時、「遠くまでいくんだ」というタイトルの雑誌を出していたことがあるそうである。

 胸のあひだからは 涙のかはりに
 バラ色の私鉄の切符が
 くちやくちやになつてあらはれ
 ぼくらはぼくらに または少女に
 それを視せて とほくまで
 ゆくんだと告げるのである
 (吉本隆明「涙が涸れる」部分)

 吉本隆明という人はアジテーターとしての天賦の才能をもっている人であるので、氏の理論はほとんど理解できなくても、そのアジテーションはよくわかるひとはたくさんいたのだろうと思う。というか「吉本隆明ファンクラブ」というのは、吉本氏のアジテーションへの心酔者、吉本氏の提示した反体制的な志への同調者ということではないだろうか? そして小阪氏のいっていることの一つは、この時代には反体制的な気分が横溢していたということで、それがわからないと全共闘運動は理解できないぞ、ということなのである。
 小阪氏の本では、吉本隆明については、その名前を入学してすぐにはじめて知った、と書かれている以外にはとりあげられていない。小阪氏と同世代であるわたくしが吉本氏の名前をはじめて知ったのがいつであったのかはもう覚えていない。高校生の時だろうか? 今度、吉本氏の本を本棚から引っ張りだしてきて、奥附をみてみると、おそらくはじめて読んだのは教養学部時代らしい。
 「自立の思想的拠点」(徳間書店)は1966年初版であるが、わたくしが持っている本は1967年11月刊行の第5刷である。刊行直後に買っているのであれば、教養学部の終わりの頃である。買っただけですぐに読まなかったのかもしれないし、その辺りはもう覚えていないのだが、今回、ぱらぱらと見直してみて、「情況とはなにかⅣ」という文の中に、《かしこい唯物論の立場からは、福田恆存江藤淳のほうが似非左翼よりずっと増しである》というような部分があったのにいきあたった。
 わたくしもまた、時代の空気で吉本氏の本を買ってきて(また少しは読んで)、この部分に出会ってびっくりしたのである。なにしろ福田恆存は「紀元節復活運動」などというケッタイなことをしている貧相なおじさんというイメージであったので、なんであんな馬鹿なおじさんをこの人は褒めるのだろうと思った。そういう興味から、その当時新潮社からでていた「福田恆存評論集」を買ってきて読んでみたわけである。そして、衝撃をうけた。しばらくは福田恆存から離れられなくなった。
 福田氏の評論集は1966年刊である。もちろん、そんなに売れる本ではないだろうから、刊行されたまま再版されずにいたのであろうし、買ったのは「自立の思想的拠点」を入手した1967年11月以降であるのは間違いないわけであるが、グリーンと白のツウトーンのなかなか洒落た造本のこの評論集を買ったのが今はない渋谷の大盛堂であったことだけははっきりと記憶している。そうすると駒場時代に買った可能性が高いように思えてきた。今までずっと、吉本隆明福田恆存も、本郷に進学して騒動に直面してから読んだ気がしていたのだが、それは間違いかもしれない。記憶というのは当てにならないものだと感じる。
 いずれにしても、ああいう時代でなければ、「自立の思想的拠点」という本を読もうなどとはしなかったはずで、そうであれば福田恆存を読むこともなかったかもしれない(「自立・・・」を読んだのは、胡散臭く感じていた日本共産党=民青路線あるいは進歩的文化人路線を木っ端微塵に批判粉砕している本という触れこみに惹かれてであったような気がする。その記憶もまた当てにならないのだが)。この時代に福田恆存が一番精彩をはなっていたことを考えるならば、やはりわたくしもまた、全共闘世代の一人なのであるなあ、ということを感じる。
 ただ福田恆存の著作はいまだに現役である部分がたくさん残っていると思うが、「自立の思想的拠点」は現在ではなんの意味もない本になっているのではないかと思う。そこにはマルクス主義プロレタリアート、階級といった言葉が氾濫している。この当時の吉本隆明は広い意味でのマルクス主義の文脈に連なる人であったことは確かだろうと思う。
 そこでの丸山真男らに対する批判の切れ味は実に鋭い。そして、この丸山真男批判のやりかたは、福田恆存進歩的文化人を批判したやりかたと確実にオーヴァーラップする。吉本氏の有名な「大衆の原像」の論は、福田恆存の「常識に還れ」でもある。以下「常識に還れ」から引用する。

 (大学教授達は)全学連を擁護してゐるのではない。学生をと言ひたいが、さうでもない。ただ大学教授の権威を象徴してゐる「学園の自治」を、一口に言へば、自分達の「被尊敬権」を擁護してゐるに過ぎない。大学の教授は、その最も良質な者でも、学生を取巻と化し、その上に安坐することによつて、自己の権威を保持したいといふ本能に溺れやすい。私とは全く反対の立場にありながら、私が最も好意をもつ主流派諸君に忠告する、先生とは手を切りたまへ。ついでに、共産党から貰つたニックネームのトロッキストを自称する衒学趣味から足を洗ひたまへ。歴史を手本とする教養主義を棄てたまへ。警官より物を知つてをり、郷里の百姓に物を教へうるなどといふ夢から醒めたまへ。あるいは、そんなことは十分心得てゐると言ふかもしれない。それなら「純粋なる学生の心」に賭けて戦術主義をさつぱりと棄てたまへ。(福田恆存評論集6 1966年 新潮社)

 吉本氏も天才的なアジテーターであるが、福田恆存もまた大したものだなあ、と思う。これは60年安保の騒乱に際して書かれた文章であるが、その後に展開した全共闘運動家たちの進歩的大学教授たちとの対決を見事に予見している。しかし、運動家たちは、衒学趣味からも、教養主義からも、無知な人民を啓蒙するという夢からも足を洗えなかったと思うのだが。
 それにしても、大学教授達は自分達の「被尊敬権」を擁護しているに過ぎない、というのは何と鋭い指摘であることだろうか。丸山真男に一番欠けていたのは、このような自己省察である。わたくしが市民運動家というのが大嫌いなのも、その動機が自分達の「被尊敬権」の擁護でありながら、世のため人のために自分は活動していると信じ込める鈍感さがいやだからである。丸山真男に欠けていたのはユーモアの感覚、自分を相対化して笑う感覚である。丸山真男は「私生活享受派」を嫌った。目覚めた「革新運動の担い手」を好んだ。吉本隆明は「私生活享受派」こそが、真の「人民」であるとすることによって、進歩的文化人を薙倒す強力な武器を手に入れたわけである。
 そして68年から69年にかけての混乱の中で、わたくしが福田恆存に惹かれたていったのは、全共闘運動に参加する者の本当の動機が「被尊敬権」への要求なのではないかということを強く感じた、ということにあるように思う。要するに、他人よりも優位に立つ手段として運動に参加するのであり、運動で主張されたさまざまな要求には、本当はほとんど関心がないのではないか、ということである。
 小阪氏の本において、全共闘運動というのは、それぞれの人がいる場所で何かおかしいと思えることがあった時に、それにNOという運動であったということがさかんに強調される。しかし、その当時、現場にいた人間として、どうしてもそれに納得できないものを感じる。そうではなくて、自分はNOという人間であるということを表明すること、それ自体が目的であった運動のように思えてならない。小阪氏が「全共闘運動とは、運動すること自体が態度の表明であり、意味をもつ運動だと言えるかもしれない」といっているのは、それと合致するように思う。一人ひとりがどのように態度を表明するかを競いあっていたのが、全共闘運動であったといってしまうと、皮肉にすぎる見方であると思うけれども、当時もっとも華麗な態度表明をしていた人が吉本隆明であり、それが当時の吉本氏の人気の相当大きな部分を占めていたということはあるのではないかと思う。とにかく、吉本氏は、ほとんどありとあらゆるものにNOといい続けていたわけである。そして全共闘運動家たちは、自分たちもまた吉本氏から否定されているにもかかわらず(あるいはそのことにはあまり気づかず)、吉本氏から否定の作法を大いに学んだのではないかと思う。
 宮崎哲也氏は、吉本隆明の論は書かれた時代の情況とワンセットでなければ理解できないという。その議論についていえばそうであろう。しかし、わたくしは吉本隆明という思想家は偽善を嗅ぎ当てる能力において抜群のものをもっているのだと思う。福田恆存との共通点もそこにあるのであろう。当時の進歩的文化人のもっていた偽善の腐臭を拒否するという姿勢において、両者は共通点をもったのである。
 全共闘運動もまた、他人の偽善を指摘することを得意とした。しかし、そういう行動は自分もまた偽善的なのではないかという自省とワンセットになっていない限り、自尊の運動となってしまう。自分達の「被尊敬権」を主張するだけのものとなってしまう。とすると、批判した進歩的文化人たちと、結局は変らないことになってしまう。
 小阪氏の論は、自己省察について非常に甘いところがあり、そのため、いくら卑下しているように見えても、非常に屈折した「被尊敬権」の要求ではないかと読めてしまうところが多いのが問題であろう。
 吉本が「自立の思想的拠点」などでいっている「大衆の原像」というのが何かというのは実はよくわからない。たまたま最近読んだばかりだからかも知れないが、小野寺健氏のいう「イギリス的」というものにどこか通じるものがあるかもしれないとも思う。

 世の中は多様な人間の集まりなのだから、理想を強調して余裕のない批判の投げ合いをはじめれば、争いが絶えなくなる、むやみに人の生きかたに干渉せず、一歩手前で立ちどまってからかう程度にしておくのがよい、これがイギリス人の個人主義というものだろう。また、それだけに、一人一人が内容のゆたかな、くっきりした個性を持っていなくてはおもしろみがない、ということになる。(「小野寺健「イギリス的人生」)

 これは、まさに全共闘的なものの対極にあると思うけれども、同時に吉本隆明とも無縁の世界であるなあと思う。吉本氏はもっと倫理的である。
 それなら、

 英国人はかういふ春や夏があるから冬に堪へられるのでなしに、このやうな冬にも堪えへられる神経の持主なので春や夏の、我々ならば圧倒され兼ねない美しさが楽めるのである。何れの場合も、現実に堪へ抜く強靭な生活力がそこに働いてゐることに変りはなくて、例へば、ヴァレリイはテスト氏が如何に激しい快楽の享受に鍛へられて来たかといふことをテスト氏の生活態度に就て書いてゐるが、如何に美しいものにも対抗することが出来る忍耐力といふことが、英国人の国民性に認められる一つの特徴であると言へる。或るものを美しいと見るにも力がなければならず、それを美しいと見た上で更にそれを自分のものにするには、力が一層に必要なのである。(吉田健一「英国の文学」 吉田健一全集 第一巻 原書房 1968年)

 はどうだろうか?
 こういう醜さに堪える神経あるいは体力といったものが、小阪氏には欠けているのだと思う。吉田氏は、英国人は散文的である、ということをいう。吉本氏は、詩を書く人である。散文を書いても詩人である。全共闘運動はきわめて非散文的な運動であったのだと思う。それを詩的な運動といってしまうと美化したことになってしまうかもしれないが、小阪氏が「ぼくにとって全共闘運動とはなによりも、相手と向かい合った時の態度、自分自身と向かい合う態度を意味していたのだ」などというのは、非散文的としかいいようがない姿勢である。
 吉本氏もまた、詩人として、すぐに地に足がつかなくなる人であり、それを地上に繋ぎとめるために「大衆の原像」などということを持ちだしてきたのであろう。自分を批判する視点を自分の論の中に持ち込もうとしたのであろう。小阪氏はそういう視点をついに発見できていないように思う。
 告白すれば、今回、吉本隆明の詩をまた少し読んでみて、やはりいいなあ、と思った。わたくしもまた、非散文の側の人間なのでろう。そして、大衆とは吉本氏の詩を読んで、なに馬鹿なことを言っているんだと思う人、散文の人をいうのだろうと思う。

 無数のぼくの敵よ ぼくの苛酷な
 論理にくみふせられないやうに
 きみの富を きみの
 名誉を きみの狡猾な
 子分と やさしい妻や娘を そうして
 きみの支配する秩序をまもるがいい
 (「ぼくが罪を忘れないうちに」部分)

 吉本氏の論理にくみふせられることが決してないのが大衆であり、くみふせられてしまうのが知識人なのである。小阪氏もまた、典型的な知識人の一人なのである。
 

新書365冊 (朝日新書)

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