N・ハンフりー「赤を見る 感覚の進化と意識の存在理由」

   紀伊国屋書店 2006年11月5日初版
 
 赤い色が投影されたスクリーンを見る。そこに赤い色があることを知る。同時に赤という色を感じている。この「知ること」と「感じること」について論じた本である。
 われわれが生きていくだけならば「知ること」だけで十分ではないか? 「感じること」などは必要ないのではないか? もっといえば、われわれは生きていればいいのであって、生きていることを感じることなど必要ないのではないか? そこから問題は次のように展開する。生きていることを感じること=意識であるならば、意識は生きていく上では必要ないものではないか? そうであるならばそれは余剰であり、意識を生物学的に、すなわち科学として説明することは不可能なのではないか?
 ハンフりーは、その逆をいく。意識が進化の過程でわれわれに与えられてたのであれば、それが生存にとって有用なものであったからに違いない。意識はどのような点で生存に有利であるか、それを考えよう。つまり、自己意識というような高次機能を生物学的に説明できないとすると、どこかから神あるいは創造主といったものが現われ出てくる可能性があり、ハンフりーはそれを何としても阻止したいのである。
 ここで「知ること」は「命題的」、「感じること」は「現象的」という難しい言葉に言いかえられる。「命題的」というのは、いってしまえば物理化学生物学的言語に翻訳可能なものである。赤=760ナノメートルの波長、それを見ると脳のどの部分が活動する、それはPETで脳の血流の変化として観察可能である、といったものである。それに対して「現象的」というのは、赤いという質感、最近の流行の言葉でいえば、クオリアの感じを得ることである。さて「現象的」現象は何をもたらすか? 自分自身を経験者として経験させる。「経験は経験者なくしてはありえない」(フレーゲ)ということである。経験されない痛みとか気分とか願いとかは存在しない。それをハンフりーは逆転させる。内なる世界の経験が人間の存在の証となる、という。人間があるから経験があるのではなく、経験があるから人間がある、と。われわれは意識があることを好む。われわれは「自己」を経験する。

 現象的経験/命題的経験
 感覚/知覚
 価値/事実
 一人称/三人称
 「心の理論」の理論説/「心の理論」の模擬説
 そこに存在すること/無

 というハンフりーが提出する二分法のうち「心の理論」(他者にも独自の心の状態があるという認識、チンパンジーの言語研究で有名なプレマックの提唱した理論。「心の発生と進化 チンパンジー、赤ちゃん、ヒト」新曜社 2005年5月)にかんする部分はよく理解できない(左右が反対ではないかという気もする)が、それ以外はニュー・エイジ・サイエンスあたりからいわれていた西欧におけるデカルト以来の身心二分法の不毛という議論に通じるありふれたものでもあるようにも思う。それをニュー・エイジ派は東洋古来の叡智などというわけのわからない呪文で突破しようとしたわけであるが、ハンフりーは一人称も感覚も価値も科学にとりこもうというわけである。
 さて、なぜ知るだけでは駄目で感じることも必要か? それはただ知るだけではそれが自分のこととは感じられないからである。感じることによってそれは自分にかかわることとなる。それをハンフりーは盲視という特殊な状態から説明する。網膜から入った情報は最終的に視領域で認識されるわけであるが、一部の情報は視領域以外にもおくられる。したがって視領域が機能しない病態においても網膜からの情報はある程度認識される。しかしまさに認識されるだけであり、ものを見たという感じを伴わない。それは自分とは関係ないのである。盲視の視覚は質的な深さを欠く。感覚はそこにあるものと自分がかかわっているという感触を生み出し、今この瞬間の経験に、今、ここで、自分が、という感触を与える。
 現在の最新の脳科学の動向、心を脳の活動として示そうという行き方では両者の次元が一致しない、とハンフりーはいう。
 知覚とは外界をモニターすることであり、感覚とは自分自身をモニターすることである。そして感覚が完全に「潜在化」し、ある感覚に対する反応がそこへフィードバックされず、脳内で完結するループとなってしまった状態が意識であるというのが、ハンフりーの仮説である。
 ハンフりーが提示する実にユニークな身心二元論解釈は以下のようなものである。たしかに身心二元論は錯覚である。しかしそのような錯覚をおこさせているものは自然淘汰の主人たる自然である。なぜなら、そのような錯覚を人間が持つことは人間が生き延びる上でプラスに働いたから。人間として生まれたからには、何か特別にすばらしいもの、死をも超越して維持するべきものを持っているという信念は、自然が人間に抱かせている錯覚であるかもしれないが、そのような信念をもつものとして進化してきたが故に人間は地球上での現在の地位を得たのである、と。意識は、追い求めるのに値する人生を持った自己という観念を人間の中に作り出すが故に、進化上有意義であったのだ、と。
 ハンフりーは詩は命題的内容よりもずっと多くを語るという。そして絵画でも音楽でも同様であるという。そして最後にホプキンスの詩を引用する。その最後4行。

 Each mortal thing does one thing and the same:
 Deals out that being indoors each one dwells;
 Selves―goes itself; myself it speaks and spells,
 Crying What I do is me; for that I came.

 ハンフりーの定義にしたがえば、これは語の意味以上のものを語っているわけであり、何を言っているかと問うことは意味がないことになる。それにしても、こういうのを読むと英語は詩に適した言語なのだなと思う。
 ハンフりーが絶対に創造主などを持ち込むないぞとしている意思は大したものであると思う。大きな敵がいるほうが論が明確になる、ということなのであろう。しかし、このハンフりーの論をそのまま適応すると創造主というものを作り出すものまた、進化の過程が生んだ人間の脳の構造であるということになるのかもしれない。ハンフりーにすればそれでいいのだろうと思う。神もまた人間の脳の産物である、ということになれば神は神でなくなるわけであるから。しかし、神というのは定義からして人間の浅慮を超えるものなのであるから、一旦できてしまうと、人間を支配してしまうのではないだろうか? 観念は人間の産物であるが、人間が作った観念が人間を殺してきた事例は枚挙に暇がない。
 人間は進化の過程で、どういうわけか知らないがこんな存在になってしまったが、それでも自分が動物であることは忘れないほうがいいよ、というくらいが穏当なような気がするのだが、そうはいかないのが一神教の歴史の重圧というものなのであろう。
 わたくしもまた神なしでいきたいと思っている人間であるので、ハンフりーの本は大変面白いのだが、神を否定しても人間を素晴らしい存在であるとはしたいという点で、キリスト教圏の発想であるなあ、ということを感じる。本書でも共感の例としてアダム・スミスの「道徳情操論」が引かれているが、スミスは人間はもっと愚かであると思っていたと思う。Crying What I do is me; for that I came というのだってたくさんの人を殺すものでもあるかもしれない。
 ところでハンフりーの二分法に、
 医療/医学
 というのを加えられないかな、というようなことをちょっと考えた。


赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由

赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由