岩波文庫 1992年5月
これを読んでみようと思ったのは、小野寺健氏の「イギリス的人生」(ちくま文庫 2006年)の中の「ジョージ・オーウェル讃」を読んだことによる。それであわせて「オーウェル評論集」(岩波文庫 1982年)もぱらぱらと読んでいる。オーウェルで読んだことのあったのは「動物農場」(角川文庫 1972年)だけで、これを読んだのは開高健・谷沢永一・向井敏の「書斎のポトフ」(潮出版社 1981年)で推薦されていたからだったと思う。
よく知られているように、「カタロニア賛歌」はオーウェルがスペイン内戦について新聞記事でも書くつもりでスペインにいったが、そのまま政府軍の民兵組織に入っていまい、内戦に内側からかかわった経験を書いたものである。
新聞記事でも書くつもりでスペインへやって来たのだが、到着するやほとんどその場で民兵組織に入隊してしまった。当時のあの雰囲気では、それしか考えられないように思ったのである。
というのは何だか随分軽率な判断のようにも思えるが、「当時のあの雰囲気では、それしか考えられないように思った」というのは、小阪修平氏が自分の全共闘運動経験を振り返って、あの当時の雰囲気ではそういう選択以外にありえなかった、といっているのを思い出させる。
何よりもまず、革命と未来に対する信念があり、平等と自由の時代に突入したのだという感慨があった。人間は資本主義の機械の歯車としてではなく、人間として生きようとしていた。
などというのも、どことなく小阪氏の口吻を思い出させる。
そういうきわめて素朴なオーウェルの判断が、政府軍内のコミュニズムとアナーキズムの主導権争い(特にそこへのソヴィエトの介入)に巻き込まれ翻弄されることにより大きく変化していく様が描かれていく。
おそらく個々人の善意などを踏みにじる政治の悪というのは、ヴェトナム戦争などをふくむ様々な場で繰り返し見られてきたものなのであろう。絓秀実氏の「1986年」でも、まったく自発的な市民の運動のように思われている「ベ平連」の運動も共労党という政治組織を通じてソ連と深くかかわっていたという主張に相当のページ数を割いている。
「動物農場」においては、その政治の悪が寓意的に描かれているわけである。
スペイン内戦当時においては、ソヴィエトはフランスと同盟しており、フランスはスペインに投下した資本の安全を望んだので、その結果ソヴィエトもスペインの現状維持を望み、革命を否定しようとしたため、オーウェルの属したアナーキズム組織は“反革命”としてスペイン共産党からの徹底的な弾圧を受けることになった。このような政治の悪が、ソヴィエトなどに固有のものであるのか、政治というものに普遍的にみられるものなのか、というのが議論のわかれるところであろう。
理想をもとめる政治運動はほとんどかならず全体主義に陥るメカニズムをその内に抱いているのであろう。そのメカニズムを発動させない方法があるのかということには、まだ答えはでていないのであろうと思う。現在、かなり極端な自由主義が優勢であるのは、“理想”に懲りて、“理想”というエンジンなしで政治を動かすべきだという方向に舵がきられているということなのであろう。“理想”よりも“欲望”のほうがずっといいエンジンであるということである。それは当然“不平等”を肯定することになる。
オーウェルはスペイン内戦の経験を経ても、“平等”への希求は棄てない。自分は“平等”への希求を棄てないが故に社会主義者であるという自負を崩さない。
ここしばらくは“平等”への希求などは青臭い理想論として排除されていく時代が続くのではないかと思う。しかし“平等”などというと仰々しいが、“威張らない”あるいは“卑屈にならない”というような感性がオーウェルの社会主義志向の基底にあるものなのである。
給仕人や店員も、客の顔から視線をそらすことはせず、対等の人間として接していた。卑屈な、さらには儀礼的な言いまわしまで一時は聞かれなくなった。「セニョール」や「ドン」や「ウステー(あなたさま)」さえ使われなくなった。(中略)ぼくの最初の経験といえば、エレベーター・ボーイにチップをやろうとしてホテルの支配人から説教されたことだった。
こういうことに感激して、オーウェルはあっという間に民兵組織に参加していくことになる。
確かマルクスは自分の一番嫌いなものとして“卑屈”を挙げていたような気がする。「「問題は、“貧乏”という生活レベルの問題ではなく、“情けない”という人間存在のあり方である」と貧乏の意味を喝破した時、社会主義・共産主義の唯物論は、一流の哲学になれたのである」と橋本治は「貧乏は正しい!」(小学館 1994年)でいっている。平等とか対等ということは「人間存在のあり方」の問題であって、社会主義はどのような経済体制を目指すのかという運動ではなく、どういう人間のあり方を目指すのかという運動であるとすると、それはこれからも廃れることはないはずである。
そして、その運動とはひょっとすると“文明”的であることを目指すものであるのかもしれない。最近主流の“欲望”全開路線というのは“文明”的ではないということかもしれない。もっと単純に言えば“野暮”である、ということだろうか。
社会主義が“粋”を目指す運動であるなどといえば、滅茶苦茶になってしまうし、そもそもあらゆる政治活動が“野暮”なものであるのかもしれないけれども、オーウェルという愚直という言葉を想起させる相当に“野暮”なところがある人が、それでも“優雅”な人間の生き方を懸命に模索している姿は微笑ましい。オーウェルが最終的に信頼しているのは西欧文明の伝統なのだろうと思う。東洋的な文明ではないし、江戸的な“粋”でもない。西欧文明は一番若い文明だから、まだどこかに青臭いところが残っている。その青臭さと文明への信頼の微妙なバランスがオーウェルの魅力なのかもしれない。

- 作者: ジョージオーウェル,George Orwell,都築忠七
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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