小松秀樹 「医療崩壊 「立ち去り型サボタージュ」とは何か」(1)
朝日新聞社 2006年5月初版
本書は虎の門病院の泌尿器科部長が書いた日本の医療の現状への批判・告発の書である。きわめて示唆に富む刺激的な本であり、さまざまな論点をふくんでいる。それで本書を材料にして、医療について何回かにわけて書いてみたい。
さて、本書が画期的であるのは、他の医師がおこなった具体的な医療行為への批判が収められていることである。
医師の一人として参加するに際し、
私は、人類への奉仕に自分の人生を捧げることを厳粛に警う。
私は、私の教師に、当然受けるべきである尊敬と感謝の念を捧げる。
私は、良心と尊厳をもって私の専門職を実践する。
私の患者の健康を私の第一の関心事とする。
私は、私への信頼のゆえに知り得た患者の秘密を、たとえその死後においても尊重する。
私は、全力を尽くして医師専門職の名誉と高貴なる伝統を保持する。
私の同僚は、私の兄弟姉妹である。
私は、私の医師としての職責と患者との間に、年齢、疾病や障害、信条、民族的起源、ジェンダー、国籍、所属政治団体、人種、性的オリエンテーション、或は、社会的地位といった事がらの配慮が介在することを容認しない。
私は、たとえいかなる脅迫があろうと、生命の始まりから人命を最大限に尊重し続ける。また、人間性の法理に反して医学の知識を用いることはしない。
私は、自由に名誉にかけてこれらのことを厳粛に誓う。
これは医師の倫理にかんする有名な「ジュネーブ宣言」であるが、問題は「私の教師に、尊敬を感謝の念を捧げる」「全力を尽くして医師専門集団の名誉と高貴なる伝統を保持する」「私の同僚は、私の兄弟姉妹である」の部分である。これを「先輩を批判するな、同僚を批判するな、そういうことをすると医師専門集団の名誉と高貴なる伝統を汚すことになるぞ」と読むのは読みすぎであるかもしれないが、わたくしが医者になって研修医としてはじめて臨床の現場にでていくときに、最初に指導医から注意されたのは以下のようなことであった。「おまえたち、絶対にほかの医者の悪口を言っちゃいかんぞ。お前たち東大をでて、自分達が頭がいいと思っていて、ほかの医者のやっていることなんかみなバカに見え、なんて勉強していない奴だと思うかもしれないが、同じようなことは君たちも日常茶飯にやっていることがすぐにわかるようになる。ほかの医者が変なことをやっているように見えても、それをかばって、間違っても患者さんに、今までかかっていた医者はひどいですねえ、などといはいうな!」
いわれたことの意味はすぐにわかるようになった。医者同士がみな間違ったことを始終していることは、明らかだった。だから自分も間違うのだから、武士は相み互いで、他の医者の悪口も言うまい、というのはしごく当然のことと思えた。
だから一番の問題は「私は、全力を尽くして医師専門職の名誉と高貴なる伝統を保持する」であって、これは「医師の無謬性の神話」維持ということとふかくかかわっているのだと思う。互いに批判をしないということの目的は、一方には「誰でも常に間違いをする」ということがあるが、他方には「医者の無謬性」という神話をまもったほうが医療がやりやすいということがあるのではないかと思う。
それで思い出すのがポパーの「古い職業倫理」と「新しい職業倫理」の区別である。(「寛容と知的責任」(「よりよき世界を求めて」未来社 1995年 《1981年のウイーンでの講演である》)
両者、つまり、古い職業倫理と新しい職業倫理の基礎にあるのは、明らかに、真理、合理性そして知的責任の理念です。しかしながら、古い倫理が基礎においているのは個人的な知および確実な知の理念であり、したがって権威の理念です。それに対して、新しい職業倫理が基礎においているのは、客観的知および不確実な知の理念です。(中略)
古い理想は、真理と確実性を所有し、そして可能とあれば、論理的証明によって真理を確実なものにするということでした。
このこんにちでも依然として広範に受け入れられている理想には、賢者という個人的理想―もちろん、ソクラテス的意味においてではなく、ひとつの権威である知者、つまり、同時に王として支配する者でもある哲学者というプラトン的理想―が対応しています。
知識人にとっての古い命令は、権威たれ、この領域における一切を知れ、というものです。
あなたがひとたび権威として承認されたなら、あなたの権威は同僚によって守られるであろうし、またあなたは、もちろん同僚の権威を守られねばならないというのです。
わたくしが叙述している古い倫理は誤りを犯すことを禁じています。誤りは絶対に許されないことになります。この古い職業倫理が非寛容であることは強調するまでもありません。そしてまたいつでも知的に不正直でした。それはとりわけ医学においてそうなのですが、権威を擁護するためにあやまちのもみ消しを招くのです。
明らかにジュネーブ宣言は「古い職業倫理」にもとづくように見える。わたくしには、大学医学部教授会も日本医師会もともに「古い職業倫理」を信奉しているように見える。それに対して、小松氏は明らかに「新しい職業倫理」を提唱しているように思える。
小松氏がその根拠にするのは、生命は有限であり、医療は常に発展途上の不完全な技術である、ということである。いうまでもなく、死は誰にとっても不可避であるのだから、もし死の転帰という結果が医療行為の敗北であるとしてしまうならば、医療というのは必然的に必敗の行為であることになる。そういう根本的な認識を欠き、死という結果が生じたならばすべて医療者の瑕疵であるとするような風潮が昨今生じており、その結果、医師が医療の現場に絶望し、病院という場から立ち去ろうとしている、そのことによって日本の医療は崩壊の危機に瀕しているというのが本書の基本的な主張である。
それでは、《生命は有限であり、医療は常に発展途上の不完全な技術である》という認識を欠いているのが、医療をする側であるのか、それとも医療を受ける側であるのか、というのが問題である。それは双方に欠けているというのが、小松氏の認識である。しかし、氏は医療をする側にいるのだから、まず第一に働きかけることができる対象は医療者の方である。つねに医療においては間違いや失敗はありうるのだ、それを隠すな、相互に批判しあうことが大事であるという啓蒙をすることがぜひとも必要であると氏は感じている。ところが自分はこういう間違いをしたと医者が認めれば、日本では警察が介入してきて裁判が待っている。医療を受ける側も司法の側も医者が絶対に誤ってはならないものとしており、誤った場合には訴訟の対象となるのが当然であると思っている。それでは本来するべき啓蒙ができないではないか、ということになる。
医者は自分たちが誤ることはないと考えているのであろうか? そうでないことはすでに上に述べた通りである。すくなくともわたくしは考えていない。多くの医師がそうであろうと信じている。しかし、医療を受ける側では医者が完全であることを期待しているという事実もまたある(完全であるとは思っていないであろうが、完全であってほしいとは思っているのではないだろうか?)。「手術よろしくお願いします」といったら、「いや、医療というのは不確実なもので、あなたの手術だってうまくいくかどうかはわかりせんよ」などという答えが帰ってきたのでは、うれしくはないだろうと思う。胸をたたいて「わたくしにまかせなさい」といって欲しいのではないかと思う。あるいはもう少し科学的(?)に「日本全体では、この手術の成功率は65%ですが、わたくし自身は70%です」などといわれても何のことやらであろう。「それはどういうことですか?」「あなたを10回手術したとして、7回はうまくいくが3回は失敗するということです」 しかし手術は一回なのである。「波束の収束」である。あるいは「観察者問題」である。「観察すると位置がきまる」→「手術をすると結果がでる」。結果は成功するか失敗するか、である。
確率論というのは素人にはきわめて理解しがたいもので、わたくしもたぶんほとんど何もわかっていない。小松氏のいうように医療は根本的に確率にもとづくのだが、わたくしが量子力学をまったく理解できないのと同じくらい、確率にもとづく医療行為の事前説明は、患者さんの側には身に沁みないものであろうと思う。医療の世界は素朴実在論の世界であり、シュレディンがーの猫などがでてくる余地はないのである。
わたくしももちろん確率の言葉を使って日常説明している。「あなたがインターフェロン治療をうけた場合、あなたのウイルスの型と量からすると、有効率は50%程度でしょう」 これが「効くかもしれないし、効かないかもしれないし、なんとも言えません」というのとどう違うのか、わたくしには説明できない。確率50%などという、なんとなく専門的な言葉を使って患者さん側を煙にまいているだけかもしれないとも思う。
内田樹氏は、日本は「「医師の全能性についての呪術的信憑」という民族誌的奇習を最大限に利用して、これまで医療が効果をあげてきた社会だろうと思う」といっている。(「私の身体は頭がいい」新曜社 2003年) わたくしは、これは日本だけでなく、かつては世界どこでもそうであったのではないかと思う。何しろ医者のできることはほとんど何もなかったのだから、呪術的なことでもしなければ一体なにができたのだろう。
だから医者の側から「医者は決して全能ではなく、しばしば過つのです」などと言われると、患者さんの側から「そんなこと言われたら、治る病気も治らなくなるではないですか。そんなこと言わないでくださいよ」という返事がくるかもしれない。」
同書で、内田氏はこんなことも言っている。
治療が失敗する度に、医者が失職したり、腹を切って死んでいたら、ヒポクラテス以来、今日まで医療の進歩はなかったでしょう。どんな薬物についても治療法についても、失敗は必ずあったはずです。でも医療者たちが、そのつまづきからそのつど有意な医療情報を引き出して体系化してきたからこそ、医療は進歩してきたのだと思います。
ですから、「医療というのはいまだに生成中のシステム」である、ということを踏まえておくことがたいせつだと思います。医療をすでに完成しきったもの、運用面にのみ選択の余地が残されているもののように考えるから、話が変な方向に行ってしまうのであって、試行錯誤を繰り返している発展途上のシステムと考えれば、責任の取り方というのは明らかです。それは賠償とか謝罪とか、そういったことで「決着」をつけてはならない次元の話です。(中略)
あちこちの病院で見られたように、責任逃れのために、失敗が隠蔽され、データが改竄されるなら、結果的には一人で済んだはずの同じ治療法で傷つく犠牲者がさらに増えるばかりです。
私はむしろ「医師の判断はしばしば過つ」という事実を淡々と承認しなければいけないと思っています。おのれの過誤を開示し、治療法の改善に向けてプラスの情報を書き加えること、それが医師の責任の取り方だと思います。そういう仕方で責任を取る医師を倫理的には責めるべきではないと思います。
これは小松氏のいっていることとほとんど同じであり、またポパーのいっていることにも通じる。
しかし、「医師の判断はしばしば過つ」という事実を淡々と承認してくれる人ばかりではないだろう。なにしろ、日本は文明国の中で死刑制度の残っている数少ない国の一つであり、日本の死刑とは、ほとんど国が代行する敵討ちではないかという気がするくらいである。また日本には非業の死をとげたものの魂は容易なことでは慰められないというという考えも根強くある。だから菅原道真が天神様として祀られることになる。わたくしは医療訴訟というのは、医療ミスという非業の境地に陥ったものへ、関係者が捧げる供物という性質ももっているのではないかと思っている。理性的な判断とは異なる次元をももっているのではないかと思う。
しかし、話が拡散してしまった。「はじめに」の2ページについて感想を書きはじめたら、いつの間にか、こんな方に話がきてしまった。また稿をあらためて、少しづつ議論していきたい。
- 作者: 小松秀樹
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