E・M・フォースター「インドへの道」

  ちくま文庫 1994年
  
 小野田健氏によると(「E・M・フォースターの姿勢」みすず書房 2001年)、「インドへの道」はフォースターの最高傑作であるだけでなく、二十世紀のイギリス小説のなかの、あるいはイギリス小説史全体のなかでも屈指の名作なのだということであるが、主人公のアジズに災厄がふりかかる第16章まで、物語が動きださないので本当に困った。第16章はほとんど小説の半ばである。読み終わってみれば確かに、その扱う対象の広さといい、構想の大きさといい、並の小説とはまったくスケールの違うものであることがよくわかる仕掛になっているのだが、およそ読者へのサービス精神に乏しい作品である。どうもイギリス人の小説の味わい方というのはわれわれとは違うのかもしれない。小野寺健氏はイギリスの小説に親しむためには「単調さ」の甘美さということを理解することが必要であるといっているが(「イギリス的人生」ちくま文庫 2006年)、どうもわれわれはせっかち過ぎるのかもしれない。
 通常の小説では、ある種の文化を自明の背景として、その中での人間の葛藤が描かれる。フォースターの場合、「ハワーズ・エンド」もそうであった。しかし本書では、異なる文化の衝突を背景として、その中での人間の接近と離反が描かれる。最大の主題は相互の理解の困難、あるいはその不可能である。Only connect という願いは届かないのである。
 このテーマは今日においてきわめて切実であるが、そういう文明同士の理解不可能というような大きな問題を持ち出さなくても、人間相互の理解不可能というより普遍的なテーマが本書の根幹にあるわけである。それは実に説得的に述べられているのであるが、それが説得的であればあるほど、なぜそれなら小説を書くのかという疑問が生じてくるように思う。そして事実フォースターはこの後、小説の筆は絶つことになる。
 人間というのは何と矛盾に充ちた救いのない存在なのであろうかというのが、必ずしも絶望の表明としてではなく、むしろ諦念というか、それを基礎にしてこれからも生きていくほかないわれわれの根源的な事実として提示される。
 主人公アジズの生き方はいってみれば健気である。しかしアジズはわれわれからは遠い存在であって、フィールディングのほうがずっとわれわれに近い。しかし、その生き方は健気とはとてもいえない。知の人は健気にはなれないのである。
 何回も挑戦しては投げ出していたこの小説を今回ようやく読み通すことができたが、もう一度、あるいは二度、三度読み返さないとわからない部分がたくさん残っているように思う。今回は瀬尾裕氏の訳で読んだが、次回は小野寺氏の訳で読んでみようかと思う。原語で読めないというのはつらい。学生時代にもっと英語を勉強しておけばよかったということをつくづくと今になって思っている。

インドへの道 (ちくま文庫)

インドへの道 (ちくま文庫)