E・M・フォースター「天使も踏むを恐れるところ」

    白水社 1993年9月
    
 フォースターの処女長編小説である。今まで読んだフォースターの小説(「ハワーズ・エンド」「インドへの道」「果てしなき旅」)に較べると、小説としての結構が一番きちっとしている小説らしい小説で、最初を我慢して読むというようなことなく、大変面白く読めた。
 フォースターの小説をいくつか読んできて、その特徴につき考えてみると、まず第一に小説というものが作り物であるということを常に意識している書き方をしていることが指摘できるように思う。だから読者は物語への没入を妨げられる。物語を操作している作者の手つきがみえてきて、あるいはもっといえば、作者がはっきりとこれは作り物だよというのが聴こえてきて、われにかえる。誰の言葉だったか(平野謙?)、小説というのは「われを忘れる」タイプのものと「身につまされる」タイプのものに二分できるというようなことを言っていたが、フォースターの小説はつねに「われを忘れ」ないように、「身につまされ」ないようにするための異物が混入してくる。だから読者は、どこかで醒めて読み進むことになる。読者を感傷にひたらせてくれないのである(「果てしなき旅」はやや例外のように思える。作者も少し感傷的になっている部分があると思う)。
 これの対極にあるものはなんだろうと考えると、日本のテレビ・ドラマの世界ではないかと思う(実はよくみていないから、かなり無責任な発言である。「韓流」ドラマというのも一つもみていないが、あるいはそれも日本のテレビ・ドラマをもっと濃厚にした世界なのであるのかもしれないとも思う)。
 とにかくわたくしの偏見では日本のテレビ・ドラマの世界というのは徹底的に湿っている。なんだかしょっちゅう泣いたり喚いたりしているようであるが、でも最後には、心の底ではみんな分かり合えるというのが大きな前提となっている。人間は本心では最後の本音のところでは善なのであり、その本心と本心が接触するならば、大御心に抱かれて、人類はみな兄弟の世界に至れるのである。「おれの目を見ろ。何にもいうな。」「悪いようにはしないから、ここはおれにまかせてくれ。」「あの人は、ほんとうはきみのことを思っているのだ。なんでそれがわからないんだ。」云々。わたくしは、そういうテレビ・ドラマを見ると、何だか恥ずかしくていても立ってもいられない落着かない感じになる。とにかくウエットなもの湿ったものが嫌いなようである。個人主義的な世界観にひかれ、共同体論理が嫌いなことの根底にはそういうウエット嫌いがあるのだろうと思う。
 フォースターの世界でも、泣いたり叫んだりはある。しかし、それによってもお互いが理解しあうようになることは決してないのである。人間は絶対に理解しあうことはできないというのがフォースターの世界の基底であるから(「なぜいま友達になれないのかね?」(中略)空も言った、『駄目だ、その地上では駄目だ』(「インドへの道」末尾))。理解への絶望があるから、その世界は乾いている。じめしめしたところがない。
 「天使も踏むをおそれるところ」は原題は、Where Angels Fear to Tread であり、ポープの詩の一節にある Fools Rush in Where Angels Fear to Tread からとられているのだそうである。人間は愚かなものであり、人間のいとなみのもたらすさまざまなごたごたには、天使はかかわってこないということである。神ならぬ人間は、すべて Fools なのであり、Fools であることによって平等なのである。
 この小説は、ごく図式的にいえば、ヴィクトリア朝のイギリスの偽善的な中流階級の世界と、イタリアのもっと野性的な生との対比、対立を描いたものである。D・H・ロレンスはヴィクトリア朝のイギリスの偽善を徹底的に嫌い、イタリアをふくむ野性による救済を求めたのであるが、フォースターは決して一方に肩入れすることはない。その当時のイギリスに生きていた人間として、ヴィクトリア朝の偽善への批判が第一にあったのは当然であろうが、そうかといってそれに変る楽園が地上に実現するという幻想は抱かない。
 この小説は1905年に書かれている。ほぼ百年前である。フォースター26歳であるから、その若さでなぜこのような成熟した小説が書けたのか、不思議である。
 これでフォースターの長編小説はあと「眺めのいい部屋」を残すだけとなった(「モーリス」を読む気は今のところはない)。
 蛇足を二つ:イタリア人はこの小説を読んでどう感じるだろうか? 歯医者さんはこの小説を読んでどう感じるだろうか?
 

天使も踏むを恐れるところ

天使も踏むを恐れるところ