小松秀樹「医療崩壊」(7) Ⅶ.立ち去り型サボタージュ


 本章は、「医療崩壊」のサブタイトルともなっている。現在、日本でおきつつある医療崩壊の一つの原因を指摘したものとして、いろいろな方面からの注目を集めている。わたくしがこの本のことを知ったのも、そういう流れの中においてである。
 ここで小松氏が主張していることは、日本の医療界では、現在、病院から医師・看護師が立ち去りつつあるということである。医療崩壊とは日本の医療全体におきていることではなく、病院におきてきている現象なのだというのが大事なポイントである。医師や看護師が病院をやめて開業する(診療所に移る)ということを始めていて、そのため病院は診療に必要な要員を確保することができず、縮小へとむかっている、これが日本の医療崩壊の根本の原因なのだ、ということである。
 ここで押さえておかなれればならないと思うことは、厚生労働省が以前から日本の病床は多すぎる、欧米なみに病床数を減らさなければならない、という主張を繰り返してしてきていることである。日本の病床数が多い大きな原因は1985年の医療法改正による地域医療計画による病床数抑制の前におきた「駆け込み増床」というわれたものであろうが、もっと根本的には日本の病院の多くが開業の診療所が大きくなる過程でできた小規模病院が多いということに起因するのであろう。厚生労働省はこのような小規模の病院は世界標準からみれば病院としての要件を欠いていると思っている。このような病院とはいえない病院が淘汰されて、大病院だけが残る状態が正常な医療の状態であると考えて、様々な施策をおこなってきた。その結果、できてきたのが療養型の病床といわれるものである。それを本来の病院(急性期病院とか一般病院といわれるもの)から切り離して、医療の世界でなく、介護福祉の世界へと移し、世界的に言えば、ナーシング・ホームといわれているような機能をもつ施設へと転換させて、医療の世界とは区別してあつかいたい、としてきた。この問題にかんしては、わたくしはほとんど知識がないに等しいが、厚生労働省の政策はある程度は効を奏して、世界的にいえばナーシング・ホーム機能を果たしてきた中小病院(老人病院などと陰口をたたかれていた存在)のベッドは減ってきているように思う。しかし、厚生労働省の思惑に反して、これらはナーシング・ホーム的なものへの転換はせず、診療所機能すなわち外来機能だけ残して、病院機能はやめるという動きによってである。ここでも、病院から診療所へという動きがでてきているわけである。
 そういう動きが一方にあるところにもってきて、今度は、厚生労働省がこれからの日本の医療の核になる部分であると思っていた急性期医療を担っている病院が、特に地方において崩壊をしはじめているのである。
 なぜ、病院勤務医が、開業へと走るようになったのか、それは病院勤務のハイリスクと患者との齟齬の煩わしさが限界を超えたからだという。人間は理不尽な攻撃を受けながら、だまってだた奉仕を続けることのできる存在ではないという。人間には誇りが必要であり、誇りがないところでは士気を維持できない。現在の病院勤務医の仕事は人間としてのプライドを保てるようなものではなくなっているのだという。
 小松氏は、日本の勤務医像を以下のように描く。1)社会と多少距離をおいており、先頭に立って社会を引っ張ろうというような強い使命感はもたない。2)自尊心と良心を保てる仕事をしたいと思っている。他からの賞賛より、自分が納得できることが重要とする。3)医療にささやかな誇りと生きがいを感じている。4)医師の仕事は金を得るための労働とは考えない。生活に苦労することがない程度の収入でよりとしており、多額の報酬を望んでいるわけではない。だから、自らの利益を声高に主張するようなことはしないし、自らの職場環境や待遇などを改善するために立ち上がることはしない。5)徒党を組まない、というようなものである。自分のことをふりかえってみると、1)から5)まですべてあてはまっているように思う。
 以上のような人たちなので、病院の環境が悪くなると、それを改善するという方向、あるいはそれを社会にアッピールするような方向へとは向かわず、病院から立ち去って、もっと小さな病院へ、さらには開業へと向かうのだという。小松氏は隠遁に近いという。「立ち去り型サボタージュ」は小松氏の命名であるが、ある人は同じことを「逃散」と表現しているのだという。日本の荘園制度を崩壊させた、土地を放棄した農民の逃亡である。
 小松氏自身は、開業を考えたことはないという。それは「本格的医療」から離れるつもりはなかったからなのだという。この「本格的医療」というのが問題である。おそらく、今まで病院に医者をひきつけてきたものは、医者の「本格的医療」への志向であったのだと思う。たとえば外科系の医師にとっては開業はほぼ手術からの引退を意味する。内科の医師にとってもCT・MRのないところで仕事をするのはつらい。もちろん、小松氏も書いているようにCTなどの検査を病院に依頼するシステムはできているが、開業をして「本格的医療」を続けていくための仕掛というのはまだまだ整備はされていないように思う。わたくしもまた開業を考えたことはない。現在、わたくしがしている仕事はGP(一般医)であると思うが、恥ずかしながら、眼底が見られず、鼓膜が覗けず、婦人科の内診ができず、直腸診も外科まかせであるから、とてもGPなどと言えたものではない。だから、外科、産婦人科、眼科、耳鼻科、皮膚科などの先生の協力が得られないところで独りで仕事をしていたら、ほとんど何もできないと思う。こわくて開業などできない。
 現在の医師不足の原因といわれているものの一つに2004年からはじまった研修の義務化がある。そもそもこの制度ができた理由として挙げられていたのが、日本における医師の過度の専門医志向の問題である。一般医、家庭医としての資質をもった医者が少なくみな専門医になりたがるので、自分の専門領域だけしか診られない医者ばかりになってしまっている、という問題の指摘である。その是正のために、最初の2年間に内科・外科・救急医療・産婦人科・小児科・精神科・地域医療などをとにかく学ばせるということであった。しかし、研修が終った医者が婦人科の内診ができるようになっているとは思えないし、眼底や耳鼻咽喉科的検査を学ぶ場はもともとあまり提供されていない。そもそも大学病院で研修医に、独りで眼底検査から婦人科診察まで教えられるような医師はいない。GPを養成するという発想さえ大学医学部にはない。おそらく医学部教育においては、GPは医者ではないのである。それが証拠に専門分化は進む一方である。
 従来、医者が病院への勤務を望んだのは、病院という場にいなければ「本格的医療」を行うことが難しいという判断からであったのはないかと思う。お金を稼ぐことよりも、自尊心と良心を保て、自分が納得でき、ささやかな誇りと生きがいを感じることができる場として病院を選んでいたのだと思う。以上のように書くことは、開業している先生、診療所の先生にはなはだ失礼なものいいであることは重々承知している。診療所は初期治療(プライマリイ・ケア)の場であり、病院は高度医療の場であるとして医療の中で役割分担をすべきであるということは当然である。しかし日本ではプライマリイ・ケアの専門家を養成しようとする仕組みがほとんど出来ていない。国民の側が診療所をプライマリイ・ケアの場であると思っていない。だから病院の外来に風邪や胃腸炎の患者さんまでもが来ることになる。感冒で病院にいくことはできない医療制度の国は多いのではないだろうか? 日本の病院の医者が疲労困憊で疲弊していることの対応策として、病院が外来業務まで引き受けているからいけないのであって、病院は入院機能に特化すべきであるという意見がある。そうすれば病院医師ももっと余裕のある勤務ができるというのである。病院がこれだけ外来をやっている国はあまりないかもしれない。しかし、上にも述べたように、日本の中小の病院は診療所機能に入院設備が付加された形でできたものが多い。もともと外来と入院が混然となっている。患者さんの側もそれを当然と思っている。入院機能と外来機能を別個のものとして分離することは容易ではないだろうと思う。また医療技術の高度化がこれからも進む一方であり、患者さんの側でも一見高級そうに見える医療機器への信仰は強まることはあっても減退することはないであろうから、現在のような日本の病院の形態は容易には改まらないだろうと思う。
 2005年に開かれた医師不足をテーマとする座談会で、岩手医大の医学部長がこんなことをいっているそうである。「岩手県であれば、地方の基幹病院というのはほとんどが公的病院です。そういうところで例えば小児科を一人でやっていて、夜中の二時半に熱出した子どもが来て、五時半に熱出した子どもが来て、そして呼び出されて行って、朝八時半に行ったら二五〇人も患者さんが待っている。これじゃ俺、死んでしまうよ、やっていられないよと」「うんと儲けるために開業するわけではなくて、自分の生活と人生を守るために、生活できるぐらいでいいやといって開業医になっていく人がいるから、病院の中に中堅医師がいなくなった。」 そういう環境であれば、わたくしも「やってられないよ」と辞めるであろう。二五〇人外来に患者さんが来たら24時間かかっても診察できない、待ち時間は無限大であろう。それでもそこに来るとしたら、ほかに小児科診療をしている診療所もないということなのであろう。病院から開業医へのシフトではなく、まさに逃散してどこかにいっていしまったのであろう。これは医師不足といった問題ではなく、すでに医療が完全に崩壊しているということである。小児科医の絶対数の不足があるということなのであろう。小松氏は「子供の病気や死を受け入れようとしない親の感情をそのままにして」おく限りは、この問題は解決しないといっている。また小松氏は「患者の権利意識の肥大化」ということもいっている。
 しかし、「親の感情をそのままにして」おかないで何らかの方法で是正すること、「肥大した患者の権利意識」をどうにかして縮小させること、それは可能なのだろうか? 少なくともそれは医者の仕事ではないし、医者にできることではないと思う。わたくしは医者でなくても誰にとっても、それは絶対にできないことなのだろうと思っている。医療の技術を進歩させてきた歴史の流れがまた、「子供の病気や死を受け入れようとしない親の感情」を強化し(運命であるとあきらめることをさせないようにし)、人の権利意識を肥大化させてきたのだと思う。もう医療技術などは進歩しなくてもいい、世の中のさまざまなことも便利にならなくてもいい、という合意ができないかぎり、その流れを止めることはできないだろうと思う。それはほとんど資本主義のダイナミズムを止めるということに等しい不可能の要求なのではないかと思う。
 現在、病院をめぐっておきている逃散の動きにどのように対応していいのか、それはわたくしにはわからない。ただ「本格的医療」を志向する人がゼロになることはないだろうと思うので、ある一定数の医者はそれでも病院は残るであろうと思うだけである。あとは医療を受ける側が病院が崩壊したとしてそれで困ったと思うかどうかである。誰が書いていたことか忘れたが、病院関係者はいつも病院がつぶれたら地域住民が困るようになるというが、そんなことはない、困るのは病院従業員だけで地域住人などは全然平気である、ということをいっていた。厚生労働省もそう思っているのかもしれない。都道府県別の医療費という統計を見たことがあるが、各都道府県の医療費を決める最大の要因が医者の数らしい。医者が多くいるところでは医療費もまた多い。医者が医療需要を作っているらしい。厚生労働省は病院が減ることではなく、医師数自体が減ることを本当は望んでいるのかもしれない。医療費削減の究極の方法はそれだからである。
 とにかく現在、病院医療においては大きな地殻の変動がおきようとしていることは間違いない。患者さんの側が必要とする病院医療が提供されない事態が生ずれば、患者さんの側から何らかの反応がでてくるだろうと思う。その時ではもう遅いのかもしれないし、もっと早く手を打っておけば、数年で済んだ対策が何十年もかかる大きな仕事になってしまうかもしれない。けれども、自らの利益を声高に主張するようなことはしない、自らの職場環境や待遇などを改善するために立ち上がることはしない、徒党を組まない、という病院勤務医の性格はあまりこれからも変ることはないだろうと思う。だからこそ逃散というのが最大の意思表示であり、抗議行動であることになる。
 この数日、内田樹さんの「下流志向」、諏訪哲二氏の「オレ様化する子どもたち」といった教育について論じた本を読んでいる。「教育崩壊」について論じているものなのだが、これまた「病院崩壊」と深く通じるものがあると思った。諏訪氏は教育は資本主義になじまないものであるといっている。わたくしもまた医療も資本主義になじまないものであることを感じる。われわれがしている医療行為に価格をつけるということは本来不可能である。諏訪氏は教育という行為は「贈与」という性質を持つという。それならば、医療行為もまた贈与である。われわれ医療者は見返りをもとめて何かをしているわけではない。そしてもしも医療行為が基本的に贈与であるならば、勤務医という形態は開業医という形態よりも、それになじむかもしれない。提供するものに値段がついたら贈与でなくなるからである。われわれがどのような医療行為をしても、勤務している病院から給与が増えるわけではないというのは、医療行為になじむものであるように思う。もしも開業していて、今月従業員に払う給料などということが頭に浮かぶと、必要ないんだけどももう一つ検査しておこうか、などという邪念が浮かばないともかぎらない。そういう誘惑から遮断されているということが、勤務医を病院につなぎとめている案外ばかにならない要因の一つとなっているかもしれないとも思う。
 現在の病院をとりまく状況を見るならば、病院から逃げ出す医者がいることは誰も非難できない。しかし、病院でしかできない医療というものがあり、それは診療所での医療とは別種の魅力があるものなのであり、個人的偏見によれば、それは診療所での医療よりいささかやりがいのある部分をもっている。そういう偏見をもつ医者がわたくし以外にもある数はいるだろうと思っていて、そういう医者に患者さんの側でもまたなんからの信用をもってくれるということがあるならば、病院というものは何とか続いていくだろうと思っている。とにもかくにも、患者さんの側に必要と思ってもらえる医療をしているのでなければ、医者の側が何を言っても説得力がない。
 医者が病院からでて開業し、患者さんも病院への通院をやめてその診療所に通ってなんの不満もないということであるならば、その部分にかんしては病院は、本来病院でなければできないことをしていたわけではないことになる。しかし、多分、問題は病院か診療所かではない。患者さんにとって信用のできる医者がいるのが、病院であるのか、診療所であるのかということなのだと思う。
 勤務医の特性であると小松氏がする、自尊心と良心を保てる仕事をしたいと思い、他からの賞賛より、自分が納得できることを重要とし、仕事にささやかな誇りと生きがいを感じていて、医師の仕事は金を得るための労働とは考えない、といった特性は病院の医師を相対的には、ある程度、信用のできる存在にしているのかもしれない。
 しかし、医者にもいろいろな人間がいる。どういう医者にあたるかが多分に患者さんの運命を決めるという状況は、これからも変らないかもしれない。