東浩紀「動物化するポストモダン オタクから見た日本社会」
講談社現代新書 2001年11月
東氏の名前は「存在論的、郵便的」が一部で評判になったときから知っていたが、浅田彰氏や柄谷行人氏の後継の書き手がでてきたのだなと思っただけで、読むことはしなかった。一つには東氏の本がデリダの思想をどうこうしているという紹介をされていたのと、書名がいかにもというものであったので、またまたポストモダンね、と思っただけだった。浅田氏や柄谷氏の本を読むと、本当に何でも知っているのに驚くとともに、世界のことは何でもわかっているというような“偉そう”な態度にいささか白けるものを感じることも事実で、人間はああまですべてのことに自分の意見をもてるものなのだろうかという疑問がなきにしもあらずであり、またその手の本なのだろうな、と思って敬遠していた。
今度、本田透氏の「喪男の哲学史」を読んでいて、急に読んでみる気になった。本田氏の本のどこかに東氏のことがでてきたのかどうか思い出せないのだが、「動物化」という言葉がでてきたのは確かで、それでたまたま本屋においてあった東氏の本を読んでみる気になった。本田氏は「動物化」を悪い意味で使っている。《「モテ」というのはただの衝動です。「動物化」です》という文脈である。
東氏の本によれば、この「動物化」というのは、アレクサンドル・コジェーヴが「ヘーゲル読解入門」(国文社 1987年)で用いたものなのだそうである。
コジェーヴは、ヘーゲル的な歴史が終ったあと、人々には二つの生存様式しか残されていないと主張している。一つはアメリカ的な生活様式の追及、彼の言う「動物への回帰」であり、もうひとつは日本的なスノビズムだ。
コジェーヴは、戦後のアメリカで台頭してきた消費者の姿を「動物」と呼ぶ。このような強い表現が使われるのは、ヘーゲル哲学独特の「人間」の規定と関係してる。ヘーゲルによれば(より正確にはコジェーヴが解釈するヘーゲルによれば)ホモ・サピエンスはそのままで人間的なわけではない。人間が人間的であるためには、与えられた環境を否定する行動がなければならない。言い換えれば、自然との闘争がなければならない。
対して動物は、つねに自然と調和して生きている。(中略)アメリカの消費社会は、彼の用語では、人間的というよりむしろ「動物的」と呼ばれることになる。そこには飢えも争いもないが、かわりに哲学もない。「歴史の終わりのあと、人間は彼らの記念碑や橋やトンネルを建設するとしても、それは鳥が巣を作り蜘蛛が蜘蛛の巣を張るようなものであり、蛙や蝉のようにコンサートを開き、子供の動物が遊ぶように遊び、大人の獣がするように性欲を発散するようなものであろう」と、コジューヴは苛立たしげに記している。
本田氏が「モテ」というのは、まさにここでコジェーヴが描いているアメリカ的生活様式のことである。
わたくしがコジェーヴの名前をはじめて知ったのは、F・フクヤマの「歴史の終わり」(三笠書房 1992年)によってであった。フクヤマはアラン・ブルームの弟子なのだそうで、ブルームがコジューヴの弟子ということらしい。ブルームの「アメリカン・マインドの終焉」(みすず書房 1988年)でもコジェーヴの名前がでてくる。そこでは、コジェーヴが「最後の人間」という問題と正面から向き合ったとされている。「歴史の終わり」の原題は「The End of History and the last man 」である。The last man とはニーチェが「ツァラツストラ」でいった「最後の人間」「末人」であり、コジェーヴが「動物」と呼ぶものは the last man のことなのである。
フクヤマやブルームやコジェーヴがニーチェを参照し、本田氏もまたニーチェを専門とした人であることは示唆的である。要するに、人間が「人間的」であろうとすると、何らかニーチェ的なものを呼び出すのである。
東氏が紹介しているコジェーヴのアメリカ消費文化論を知ったのは、丹生谷貴志氏の「「帝国」をめぐる演習」(「女と男と帝国」青土社 2000年所収)においてであった。
そこにおいてすべての者は必要充分な「人間的」与件として、「動物たち」と同じ生を送るようになるだろう、とコジェーヴは言う。つまりは死んでいないから生きているということ以上の理由をもたない生、そこにおいては自らに与えられてある所与以上のものを望む必要もなく、持たないものを欠如として嘆くこともなく、死ぬまでは生きているという理由以上のものを自身の生に説得する必要もない生がそこに残る。
わたくしがはじめて丹生谷氏を知ったのは、書肆風の薔薇から刊行された「吉田健一頌」(1990年7月)でであった。丹生谷氏以外に四方田犬彦、松浦寿輝、柳瀬尚紀氏らの吉田健一論をおさめるこの本で、「奇妙な静けさとざわめきとひしめき」という奇妙な題の丹生谷氏の論に圧倒された。「奇妙な静けさとざわめきとひしめき」というのは精神科医である中井久夫氏の統合失調症論のタイトルである(中井氏の論文の時点では分裂症であるので、以下分裂症という語を用いる)。分裂症発症直前に通常はごく短時間生じる静穏期のことをいう。吉田健一は近代の病理を克服するためにこの「静穏期」的時間を積極的に生きた、というのが丹生谷氏の論の主意である。《精神を事物性の地平にまで還元すること、これが吉田健一の試みとなるのである》と丹生谷氏はいう。ここでヒュームの名前がでてくる。ヒュームは近代以前の人である。それを敢えて近代以後において意思的に取り戻す試み、それが吉田健一のしようとしたことであった、と。
丹生谷氏がもう一つ吉田健一を論じている文章として、新潮社の「吉田健一集成5」の月報の「獣としての人間」がある。そこに《吉田健一の特異さは、観念や理念の完全な喪失が絶望としてではなく「人間の取り戻し」として捉えられる点である。誤解を恐れずに言えば、吉田健一はあらゆる理念を喪失して「獣」となった人間の中に十全な「人間」の姿を認めるのである》とある。また《それは現実の獣たちがそうであるような姿、すなわち自らの属性に見合った生の中に生き、だから希望もないが絶望もない状態に生きることへと戻ることを意味する。そしてその状態を、如何にも逆説的だが、吉田健一は「文明」と呼ぶのである》ともある。
この「精神の事物性の地平にまでの還元」あるいは「獣としての人間」は、人間の「動物化」を肯定しているものである。ニーチェ、コジェーヴ、フクヤマとは正反対のものである。《死んでいないから生きているということ以上の理由をもたない生、そこにおいては自らに与えられてある所与以上のものを望む必要もなく、持たないものを欠如として嘆くこともなく、死ぬまでは生きている》ということが肯定されるのである。
わたくしにはドゥルーズの専門家である丹生谷氏がこのように書いているのを見て、ポスト・モダンの思想がこれとどうかかわるかということが今ひとつ理解できないでいた。今度、東氏の「動物化するポストモダン」を読んで、その点がなんとなく見えてきたように思えた。ポストモダン思想とニーチェ・コジェーヴ的なものとの関係である。
それで東氏の本に戻る。
氏によれば、ポストモダンとは1960〜70年以降の文化的世界を指すものであり、60年代フランスで生まれ、70年代にアメリカで成長し、80年代に日本に輸入された思想としてのポストモダニズムとは区別せねばならないという。その頃(日本の)思想界でいわれていたのは、日本はいまだ近代化されていないが、それゆえにポストモダンへの移行は容易であるので、日本が世界の最先端にたてるというとんでもないことであったのだそうである。1990年ごろの対談をおさめた浅田彰氏の対談集「「歴史の終わり」を超えて」(中公文庫 1999年)などを読むと確かにそうで、これからの世界は日本の時代であるということが対話の前提となっている。コジェーヴの「動物化」「スノビズム化」も盛んに論じられている。
東氏は、1980年代の日本は「平和」で「生きやすい」時代であったのであり、そこから生まれたのが、ポストモダン思想の流行と、オタク文化であったのだという。それを壊したのはバブル崩壊であり、神戸の震災であり、オウム事件であったのだが、オタク文化は奇妙に生き残ったという。それは、アニメやゲームが90年代に入って世界的に評価されるようになったからだという。
オタク系文化とポストモダンの社会構造には深い関係があるという。それは「二次創作」(ボードリヤールのシミュラークル)の存在であり、「大きな物語の凋落」(リオタール)なのである、と。大きな物語の凋落に対するものとして「リゾーム」(ドゥールーズら)などということがいわれたが、東氏はここで「データベース・モデル」という見方を提示する。
大きな物語とは、たとえば学生たちが傾倒したマルクス主義である。70年代にはすでに大きな物語は崩壊していたのに、それへの欲求は続いていたので、そこからニューサイエンスや神秘思想あるいは過激な学生運動などが生まれた、と。しかし、オタクの世界でのキャラ萌えというのは、大きな物語ではなくデータベースへの希求なのである、と東氏はいう。
大きな物語が失われたあと、人間性を担保するものは何かという文脈で、上記のコジェーヴが紹介される。ここでいわれる日本のスノビズムというのは、「形式化された価値に基づく」環境の否定なのだそうである。たとえば切腹! 名誉のためにということであれば死ぬ理由がなくても死ぬこと! これは動物的ではないだけ、コジェーヴによってアメリカ的消費社会より増しであるということになった。日本の思想人たちはそれを喜んでうけれていたようである。
スノビズムの問題はのちにジジェクによって「シニシズム」と呼ばれた。ジジェクの論はスローターダイクの論に依拠するというのが東氏の見解で、第一次世界大戦の後においては、啓蒙や理性という市民文明への信頼は根こそぎ失われたので、肯定はすべて、《それでもなお》にならざるをえないという状況での思想なのだという。ポストモダンとは第一次世界大戦からすでにはじまっていて、共産主義の崩壊により完成したのだと氏は論じる。《20世紀とはひとことで言えば、超越的な大きな物語はすでに失われ、またそのことはだれでも知っているが、しかし、だからこそ、そのフェイクを捏造し、大きな物語の見かけを、つまりは、生きることに意味があるという見かけを信じなければならなかった時代である》という。
大澤真幸氏は《戦後日本は45年〜70年までが「理想の時代」、70年〜95年までが「虚構の時代」となる》といっているのだそうである。その後がデータベース消費の時代であるというのが東氏の論である。これはコジェーヴのいう「動物化」にあたるのだ、と。コジェーヴによれば、人間は欲望をもつが、動物は欲求しかもたない。人間の欲望は本質的に他者を必要とする、と。
ポストモダンは「大きな物語」がもはや機能しなくなったことは認めるのであるが、それに変るものは提示しないように禁欲しているようである。そして大きな物語は、ヘーゲル‐ニーチェの線なのであるから、実はドイツ哲学によっている。本田氏の「喪男の哲学史」も、哲学史でありながらヒュームなどのイギリス経験論の方向にはまったくふれていないという奇妙さを持つ。丹生谷氏の「奇妙な静けさとざわめきとひしめき」には、何箇所かヒュームを論じた部分がでてくる。ここでのヒュームはドゥールーズを経たヒュームのようで、哲学に疎いわたくしには理解できない部分が多いが、《精神を事物性の地平にまで還元すること》というが、ヒュームに通じるのであろうか?
わたくしは吉田健一は、観念論と闘い続けた人であったと思っているので、大きな物語=観念論が壊れたポストモダンの時代の思想とどこかで通じるものを持っていることになるのだろうと思う。しかし、西洋近代を否定するものとしての文化相対主義というのもまた観念論であると思うので、西洋近代が科学によって世界を席捲したことから目をそむける議論は生産的ではないだろうと思う。また「個人」というものを発見(発明?)したのも西洋であると思っているので、西洋を相対化しても、「個人」を消すことはできないだろうと思う。
ポストモダンというのは人間が動物であるということを再発見したというだけのことではないかというようにも思える。しかし、パスポートを持たないと国境を越えられない動物は人間だけであり、国民国家間の戦争というのも(当たり前だが)人間だけのものである。ポストモダンの時代になっても近代の産物である国家というのは厳然と残っている。そして、それにもかかわらず、お金=資本という透明なものが国境を越えて自由に行き交い、インターネットによって情報も国境を越えて自由に行き交う時代にもなっている。《人間はそのままで人間的なわけではない。人間が人間的であるためには、与えられた環境を否定する行動がなければならない。言い換えれば、自然との闘争がなければならない》などというヘーゲルの思想が否定されるようになった時代、それがポストモダンの時代なのであろうと思う。人間はようやくそのままで人間ということになったわけである。人間がようやくただの動物になろうとしているのである。
動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)
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