尾藤誠司編集「医師アタマ 医者と患者はなぜすれ違うのか?」

   医学書院 2007年3月
   
 ついにこういう本がでたかという感想である。なにしろ“構造主義医療論”である。実は、この本の共著者の一人名郷直樹氏が「JAMICジャーナル」という医師転職雑誌に連載していた「構造主義医療の挑戦」は何回かは読んだことがあり、面白い人がいるなあと思っていた。
 わたくしが構造主義について特に何かを知っているわけではない。内田樹氏が「寝ながら学べる構造主義」(文春新書 2002年)で言っている構造主義というものからの類推である。《いまの私たちにとっては「ごく自然」と思われているふるまいは、別の国の、別の文化的バックグラウンドをもっている人々から見れば、ずいぶん奇矯なものと映るでしょう》ということであり、《ABそれぞれの国民のものの見方はとりあえず「等権利的」であり、いずれかが正しいということはにわかには判定しがたい》ということである。
 これを医療に応用すると、医者の見方も患者の見方も等権利的であり、医者がごく自然と思っていることも患者側からみると随分奇矯なものである、ということになる。この医師が抱く偏見?に充ちた医療への見方を、本書では「医師アタマ」と呼ぶわけである。
 尾藤氏によれば、「医師アタマ」とは《「世界は、正しいことと間違ったことから成り立っている」という考え方、そして「正しいことは、すべての人にとって正しいものであり、間違っているものは、すべての人にとって間違っている」という考え》なのだそうである。
 いうまでもなく、こういう考えは自然科学を専攻するひとが当然の前提としているものであろう。医療という行為が科学であるかどうかという点については、議論がつきないところであろうが、仮に医療行為も自然科学であるとしたら、医師が「医師アタマ」になるのも当然ということになろう。
 文化相対主義的な見方によれば、自然科学により事物を説明するやりかたも、西欧文明が作り出した一つのものの見方に過ぎないことになり、違う文化圏にいけば通用しないものであるにもかかわらず、それがどこにおいても通用すると思うのは、西欧文明の自文化中心主義に過ぎないということになる。
 しかし、そういう見解には、ほとんどの自然科学者は賛同はしないであろう。なぜなら自然科学により得られた知見は、西欧でしか通じないということはまったくなく、日本でも中国でも中東でもアフリカでもどこでも通じるのであり、それは地球を超え、宇宙全体に普遍的に通用するものだからである。われわれを構成している原子が、宇宙全体をもまた構成しているのであり、われわれを地球につなぎとめている重力がブラックホールも形成するわけである。
 ということになると、本書は「医師アタマ」などという冗談めいたタイトルがつけられているが、実は「サイエンス・ウォーズ」につながるきわめて深刻な問題を根底にふくんだ本、西洋哲学史を二分してきた認識論上の問題を根本にはらむ、きわめてやっかいな本ということになる。だから、こんな問題を論じ出すと泥沼だぞ、という気がしないでもない。筆者たちが、その点をどの程度、覚悟しているのかは、本書を読んだだけでは、よくわからなかった。
 たとえば、以下の文である。《血圧を測らなければ、決して高血圧患者は存在しない。》 たぶん、この文章一つで、認識論の本が一冊書けると思う。この文章を含むパラグラフには、《血圧を測らなければ高血圧なんて存在しない》という小見出しがついている。高血圧患者が存在しないのか、高血圧が存在しないのか、それで話がまったく違ってしまうと思うけれども、いずれにしても、自然科学のスタンダードからは相当ずれた見方である。
 パリスの「神は老獪にして…」(産業図書 1987年)というアインシュタインの伝記は、アインシュタインが散歩中、「月は君が見ているときにしか存在しないと本当に信じているかね」と著者に尋ねたということから、本を書き出している。もちろん、アインシュタイン量子力学における観察者問題を論じているのであり、パリスもいうように、日常生活レベルにおいては観察者問題がでてくることはない。
 《血圧を測らなければ、決して高血圧患者は存在しない。》ということで、この章の著者の名郷氏のいいたいことは、量子力学での観察者問題であるとか、バークレイ僧正の唯心論ではない。われわれ医師は血圧を測ることで高血圧患者を作り出しているのであり、多くの人は血圧を測定することで、健康人から患者への転落という不条理を味わっているのではないか、血圧を測ることはひょっとして犯罪的な行為なのではないか、ということである。
 血圧の数字と脳卒中の発症率が比例関係にあることはよく知られている。例えば、220/140という血圧の人を治療することに有効性は相当程度高いことが期待される。しかし、160/100では、140/90ではということになると、その有効性は当然低くなるであろう。最近、導入されたメタボリック・シンドロームでは、高血圧の境界は、130/85となってしまった。そうなると個々の患者さんが高血圧治療をすることから受けるメリットはどんどんと減っていく。
 ある母集団の中で、血圧の治療を受けることでメリットを受ける人が、10年間で5%いるとする。残りの95%は受ける必要は本当はなかったわけである。しかし、あらかじめ誰がメリットを受けるかは予測できない。それは統計的分散の世界である。あなたは血圧の治療を受けることで、10年後の脳卒中の発症率を5%低くすることができます、という言葉が何を意味するかである。名郷氏は、5人の有効のために95人が犠牲になるというイメージを持っているように見える。しかし、それは事後に確定することである。事前においては、個々の患者さんそれぞれの発症率を5%減らすというのが正しい解釈なのではないかと、わたくしは思う。わたくしの解釈は違っているのかもしれないが、確率論というのは、われわれの日常生活には適合することがきわめてむずかしいものなのであり、「たぶんおこらない」とか、「ひょっとするとおきる」とか、「相当おきる可能性が高い」とか、そういうさ日常語での表現を、一見科学的な装いに変えただけではないかという気もする。
 本書でしばしば論じられる、高血圧と脳卒中の関係で、たとえば、10年間に高血圧を無治療でいた場合、治療した場合にくらべて5%脳卒中の発症が高まるというデータがあったとする。この5%の脳卒中発症率の上昇というリスクをどう考えるか、それは治療を要するほどのリスクであるとするのか、治療に用いる薬剤の副作用の発現率はどう考えるかというような、関係するすべての事象を全部勘案した正解などはありえない、というのが本書の主張である。リスクをどう評価するかは価値観とかかわるから、それは当然なのであるが、医者は5%のリスクの上昇の阻止を自分たちの医療行為を正当化するものとして、何の疑問ももたずに自明のものとしている、それが本書で批判される狭義の「医師アタマ」である。
 しかし本書で本当に問題とされるのは、10年間で5%のリスクを減らすために100%の高血圧患者を作ってしまうということである。大部分の高血圧は10年後に振り返ってみれば、治療をする必要のなかったものであることがわかる。しかし、他の少数の利益を得た患者のために、多数の人間が健康人から病人になるという不利益をこうむったことになる、それは正当化されないのではないか?、そういうことへの疑問を持たず、平気で日常の医療行為をおこなっているのが、広義の「医師アタマ」である。
 別の例を考えてみる。胃がんの手術をして、「このまま無治療でいても再発率は10%くらいだと思いますが、抗癌剤治療すれば、それが5%以下に下がるので抗癌剤治療をしましょう」という提言が医師からあったとする。「医師アタマ」は10%が5%に下がることは無条件でいいと思っているわけである。大多数の患者においては抗癌剤治療は不要であるという事実には何の疑問も感じないわけである。
 癌の手術でどこまでのリンパ節をとるかということについては、時代とともにいろいろと変化がある。一時はどんどんと拡大の傾向にあり、最近はまた縮小傾向にあるときいている。ある時期には、再発率が少しでも減れば、拡大に意味があるとされていたのであるが、あるところまで来て、コストパフォーマンスに疑問がでてきたということなのであろう。しかし、癌の手術でどこまでリンパ節をとるかについてのエヴィデンスを提示して、あらかじめ患者さんとリンパ節をとる範囲を相談している外科医はまずいないのではないかと思う。
 血圧というものは存在する(とわたくしは思う)。しかし、それが高いと判断するか低いと判断するかは、科学のみからは出てこない。医療というものの出発点に価値観がある。脳卒中は“病気”であるとするのは、ある価値観を前提にしている。もしも、脳卒中の発症は避けれられるものであれば、避けるべき事態である、ということが認められるならば、そこから、血圧を下げるのはいいことである、というところまでは一直線である。
 自然科学としての医療は、本書でもいわれているように、病態生理の探求であった。どのような事象が血圧を上昇させるのか? なぜ高血圧が脳卒中の原因となるのか、なぜ高コレステロールは心臓血管エヴェントの原因となるのか? 糖尿病はなぜさまざまな合併症を生むのか、そもそもインスリンの作用機序は? それらの研究により、高血圧が脳卒中を引き起こすメカニズムが発見されれば、血圧を下げることがいいことであるのは自明であることになる。
 本書でいわれていることは、EBM(Evidence Basede Medicine)がいわれるようになり、ある治療が実際にどの程度の効果を発揮するのかを疫学に基づいて検討するようになると、いままで疑問の余地のないように思われていた医療行為が実は疑問だらけであるということが判明し、医者が自信をもってある治療行為を推奨することなど、ほとんど不可能になってきてしまっているということである。
 病態生理学も科学である。疫学も科学である。しかし、科学は価値については何もいわない。それにもかかわらず、医療行為の出発点には価値判断がある。現場ではつねに価値判断が要求される。その価値判断までも従来は医療者が独占的におこなってきた。しかし、それを医療が独占していいという根拠はないのだ。それにかんしては医者も患者も平等である、というのが本書のいいたいところであるように思う。
 「論理は常に事実によって修正されるが、論理によって事実が修正されることはない」と名郷氏は書く。これも、「事実」とは何か? 「観察の理論負荷性」というようなことになると、科学哲学の泥沼にたちまち沈んでしまいそうである。名郷氏は「癌はあるか? (中略)その患者を癌かどうか決めているのは、医師の論理であり、患者の論理である。論理がなければ癌なんてものはない」という。これは医者の、あるいは患者の論理が癌という事実を作り出すということではないだろうか?(つまり、論理によって事実が修正される) 名郷氏はまた、「私の前に一人の患者がいる。しかしその患者が癌かどうか、それを判断するのは私の脳にすぎない。私の脳の外にある現代医学が判断する、そう思う人がいるかもしれない。しかし、それは勘違いというものだ。その現代医学が私の脳になかにあるにすぎない」という。しかし、こういうことを議論しても意味があるだろうかと思う。判断は脳の中にあるのかもしれないが、その判断の結果、手術がおこなわれたりする。外科医が手術している癌もまた、外科医の脳のなかにあるにすぎないのだろうか? 患者さんのなかには癌はないのだろうか?
 医者の論理、患者の論理が、癌というものを作り出し、手術という行為を行わせている、それはその通りである。かりに癌というものがあったとしても、それが治療されなければならないという必然性はない、ということを名郷氏はいいたいわけである。症状もない癌をみつけて手術をすることは本当に正当化されるのか? 癌の早期発見、早期治療は本当にいいことなのか? 医者は勝手にいいことだと決め込んでいるが、本当にそれでいいのか? 患者さんも医者の論理に巻き込まれてしまっているように見えるが、患者さんの側もそれでいいのか?、ということをいいたいわけである。
 これが医者だけの論理であるのか、患者さんの側もふくめて現代社会において広範な合意が得られていることなのかが問題である。戦争の真っ只中で、明日の命もしれない状況においては、癌の早期発見などということは問題にもならないであろう。今日の食糧にもこと欠く状態においても、やはりそれは問題にもならないであろう。しかし、われわれは平和な飽食の時代、平均寿命が80歳を超える時代を生きているわけである。肥満が問題となり、高脂血症が問題となり、認知症が問題となっている時代に生きているわけである。
 たしかに医療は文化に相対的なものであろう。今われわれが持っている医療はわれわれが生きている文化に呼応しているのだと思う。90歳まで認知症で生きて誤嚥性肺炎で死ぬより、60歳で癌で死ぬほうが幸せであるかもしれない。しかし、患者さんの側ではそう思っていないであろう。あるいは90歳まで頭脳明晰、食欲旺盛で生きられることを当然の前提にしているのであろう。そうだとすれば、今の医療があることは、半ば必然でもあるように思う。
 健康とは何か? 病人と正常人の境は何か?と名郷氏は問う。健康なんてものはなくて、病人と正常人の境もないという。それはそうである。戦時の健康者も、現代では病人である。しかし、ふたたび、そんなことを問うて何か意味があるのだろうかと思う。
 
 名郷氏が哲学的な原理的な問いをするのに対して、その他の著者は、もう少し、医療現場に則した問いを提出している。尾藤氏は、医者がある患者を前にしたときに、特定の重大な病気が無いか、死に関する病気をもっていないか、ということを第一に考えるということをいう。その感覚がない医者は臨床家として問題であるという。しかし、これは可能性が少ないが失敗はゆるされない病気を軸にして考えているということであり、最もよくありそうな病気はさして重要視されないということなので、患者側の感覚とは乖離しているかもしれないという。
 日常一番よく遭遇するのは、実は診断もつかず、病名もわからず、ただ少なくとも重大な病気はないな、ということだけしかわからないものなのだが、それさえわかれば医者の側は満足してしまう。そして尾藤氏もいうように、われわれ医療者の側が持つ最大の薬は“時間”であって、ほとんどの症状は原因もわからないまま、時間とともに自然に治って消失してしまうわけである。この自然治癒力があるから、医者は毎日さまざなな誤診をし、思い違いをし、見当違いの薬を出しなどしているにもかかわらず、何とかやっていけることになる。外来での投薬の多くは、この“時間かせぎ”である。
 だが、重大な病気はないことは明らかであるにもかかわらず、“時間かせぎ”をしていても治らないケースがでてくる。医療現場で“不定愁訴”といわれるようなものである。これが何であるのかは、医者はたぶん誰もしらない。それは“器質的疾患”つまり病理学的な異常が背景にある状態をわれわれは病気と認定するという「西洋医学」に骨がらみである疾病観を「西洋医学派」の医師はみな持っているからである。
 患者さんの側からすれば、症状があれば何か病気があるはずなのである。一方、医者の側からすれば、症状があっても病理学的背景、器質的疾患を想定できないものは病気とは思えないことになる。間違いのない「医師アタマ」であるが、これが将来、医者の頭から消えることがあるとは思えない。
 東洋医学は診断にこだわらず症状に対して処方をする方向であるから、この隘路は抜けることができる。しかし、患者さんの側にも西欧医学の臓器別疾患の見方が深く浸透している。「先生、どこが悪いんでしょう?」と聞いてくるのだから。
 臓器別疾患の見方の正反対が体液説的な見方である。西洋医学の疾病観では体液説的な説明を嫌う。だから、「先生、どこが悪いんでしょう?」ときかれて、わからなくて適当にごまかすとしても、医者と患者の方向性は一致している。しかし患者さんはまた、体液説をも信じている。患者さんの頭の中では、臓器別疾患の見方と体液説的健康観がまぜこぜになっている。西洋医学派の医者は、それを臓器別疾病観一本に誘導したい思う。それはまさに「医師アタマ」なのであろうが、医者の方では、自分ではない科学が臓器別疾病観を支持し、体液説を否定していると思っているのである。
 《私の前に一人の患者がいる。しかしその患者が癌かどうか、それを判断するのは私の脳にすぎない。私の脳の外にある現代医学が判断する、そう思う人がいるかもしれない。しかし、それは勘違いというものだ。その現代医学が私の脳になかにあるにすぎない》ということなのだが、《私の前に一人の患者さんの遺体がある。その患者さんを病理解剖する。その患者さんが癌かどうか、それを判断するのは私の脳にすぎない》と言えるのだろうか? われわれが癌をおそれる文化をもっているかどうかによって、その病理所見もまた変ってくるのだろうか?
 われわれの行っている医療は深く病理学に依存している。病理学は死体学であり、そこには価値はなく、モノがある。そのモノの世界に癌はあるのだと思う。尾藤氏のいうように外来での日常臨床においては、医者が考えていることは、重要な病気=死に関係する病気を見落とさないというだけである。膵臓癌の痛みを心気的な痛みであると誤診した医者はとてもうろたえる。しかし、心気的な痛みを膵臓癌の痛みと誤診しても医者はてれ笑いをするだけである。心気的な症状は命にはかかわらない。命にかかわらない範囲でどのような誤診があろうと、それは許される範囲である。《重要な病気=死に関係する病気》であるのなら、明らかに死に関係する病気である癌は存在する。これは医者の価値観が生んだ二分法から生じたものではないと思う。医療を生んだのは人間の価値観であるのかもしれないが、この価値観は医者にも患者にも共有されているものなのであり、「医師アタマ」の産物ではないと思う。
 高血圧という例を出すから話がややこしくなる。たとえば、歯の痛みである。血圧は測らなければ存在しないのかもしれないが、歯の痛みは患者さんの側にある。逆に患者さんがどのくらい痛いのかは、本人以外には誰にもわからない。痛みというのはモノではない。だから遺体はもはや痛みを感じない。遺体にあるのは虫歯であるかもしれないが、その虫歯は痛まない。しかし。生きている間は痛んだのである。
 高血圧は状態である。状態であるからモノではない。モノではない例を出して、それは測定しないかぎり存在しない、というのは提示の仕方がフェアではない、と思う。医療というのは、その出発点では生物学に根ざしていたはずである。それは痛みであり、発熱であり、さまざまな不自由といったものであったであろう。それは今現在に存在しているものである。予防という未来の時点での出来事への対応が医療の相当大きな部分を占めるようになったため、医療には大きな歪みがでてきている。名郷氏などがいいたいのは、そういうことであろう。
 現在目の前にいる糖尿病網膜症で失明し、糖尿病腎症で透析になっている患者さんの存在が、今まったく症状のない合併症のない糖尿病患者さんの治療を正当化させるのである。最悪の場合にはそうなる。誰が最悪になるのかは確率の問題であり、誰にもわからない。目の前の患者さんがそうなるかもしれないではないか、ということが治療を当然視させるのである。医者は最悪の場合には、どういう悲惨な状態になるかを知っている。患者さんは知らない(あるいは本で知っていても、それは知識であって、切実な実感をともなうものではない)。とすれば、そうならないように配慮するのは医者としての当然の義務ではないか、という論理である。これはまさに「医師アタマ」であろう。医者の頭の中だけで内部完結している論理であるから。しかし、医者の頭の中では、それは糖尿病性網膜症や糖尿病性腎症の患者さんを救っているイメージなのである。なぜなら網膜症や腎症になってからでは遅いので、そういう患者さんを作らないことが、医者の最大限に能力を発揮できる場所なのであるから。早期胃がんの論理もまったく同じであろう。
 
 本書を読んでいてつねに頭に思い浮かべていたのが、小松秀樹氏の「医療崩壊」である。小松氏は医療の現場では当然である医療の論理(命は有限であり、医療は統計学に基づく科学である)が、患者の側にもマスコミの側にも浸透していないことを嘆き、それがために医療の現場が萎縮し、医療が崩壊しようとしているのだから、医療の論理をもっと患者側にもマスコミ側にも啓蒙していかなければいけない、としている。医療の論理には絶対の自信をもっているわけである。「医師アタマ」をふかく反省している本書の姿勢とは正反対である。
 それは小松氏が泌尿器科医という外科側の人間であるのに対して、「医師アタマ」の執筆者の多くが内科医、それもプライマリ・ケアの分野の医師であることに依る部分が大きいように思われる。「外科」対「内科」、「専門家」対「ジェネラリスト」である。
 「医療は、多くのエビデンスが論証するように、患者に対して益にも害にもならないことが多い。ごくたまに、何もしないよりも、より有意に患者のアウトカムによい結果をもたらし、それよりわずかにごくたまに、患者のアウトカムにより不幸な結果をもたらす。それが医療の本質である」と尾藤氏はいう。血圧の治療や高脂血症の治療なら、そういうこともいえるかもしれない。しかし、手術をする人間は、自分たちのしていることが、「患者に対して益にも害にもならないことが多い。ごくたまに、何もしないよりも、より有意に患者のアウトカムによい結果をもたらし、それよりわずかにごくたまに、患者のアウトカムにより不幸な結果をもたらす」などとは到底思っていないであろう。大部分はよいアウトカムをもたらし、ごくたまに不幸な結果をもたらす、と思っているはずである。そうでなければ、あのように侵襲の大きな行為をできるはずがない。
 医療というのは実にさまざまな範囲のことをカバーしているのであるから、本書でいうように「医者の頭の中では、明確で整然とした世界が構築されている」とは到底思えない。そういう医者もいるかもしれないが、頭の中はぐしゃぐしゃの医者もまた多いであろうし、整然としている医者同士でも、その整然の中身はさまざななのではないかと思う。
 世界にはさまざまな人間がおり、それが医者になったり患者になったりするのであるから、整然とした世界などできるわけはないように思う。本書の最後で尾藤氏は、医者が「俺たちのルールではこうだけど、でも人生いろいろだよね」と感じられるかどうかが大事だと述べている。
 「わたしはあなたは痩せたほうがいいと思うけれど、でも美味しいものも食べたいよね」「わたしはあなたはタバコをやめたほうがいいと思うけれど、でも長生きするだけが人生じゃないよね」などという医者はいい医者なのであろうか?、とんでもない医者なのであろうか?、それもまた患者さんが決めることなのかもしれない。
 医療の歴史は混沌と混乱の歴史である。その中に科学めいたものを持ち込むことによって、なんとかその混乱を少しでも統一したものに最近ではできるようになってきたというところなのであろう。そして、科学が大きな顔をしだすと、もともと人間の中で科学で対応できる部分などごく僅かなのであるから、科学で制御されない部分が反乱を起こすのであろう。
 著者たちはほとんどがわたくしよりずっと若い世代であるから、わたしが若いことに結構ブームになった《全人的医療》といったものは知らないかもしれない。デカルト由来の心と体を分けて考える見方が不幸を呼んでいる、人間を還元的に部品の集合として見るのではなく、もっと人間を全体として見よ、というような主張であった。でも全人的というのが具体的に何をすることなのかは少しも明らかにならないまま、下火になっていってしまった。
 還元的な科学というのは実に強力なのである。H2ブロッカーも、Ca拮抗剤も還元的科学から生まれたものである。こういうものは東洋数千年の経験からは生まれることはなかった。最近の分子標的薬もまた然りである。MRもCTもコンピュータ科学なしには生まれることもなかったものである。
 本書には、唯名論実在論デカルト心身二元論ニューエイジサイエンス、ポストモダン哲学、サイエンス・ウォーズ、脳科学といった実に様々な論点と密接につながる大きな問題がたくさん詰め込まれている。そういう大問題に解答などあるはずはないのであるから、医療という場に則して問題点を指摘したことだけで、本書の役割は充分に果たさせるのであろう。
 わたくしはジェネラリスト的な内科医であり、ここでの著者の主張の多くに親近感を感じる。しかし、著者ほどは自分の考えにはこだわれない。自分が世界の中心からは随分と外れたところにいることを自覚しているので、いつも自信がない。わたくしとたまたま出会ってしまった患者さんは不幸なのではないかという思いがいつも消えない。まあ、それも運命であると思ってあきらめてもらうしかないかなとは、最近ようやく思えるようにはなってきているが。
 長くなったので、結論のないままここで終えるが、本書が多くの問題を提示していることは確かなので、機会があれば、また論じてみたい。


医師アタマ 医師と患者はなぜすれ違うのか?

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