東浩紀「ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2」

  講談社現代新書2007年3月
  
 ライトノベル美少女ゲームを通して日本のポストモダン状況を分析しようとするものである。ライトノベルというのは《マンガ的あるいはアニメ的なイラストが添付された、中高生を主要読者とするエンターテインメント》であり、美少女ゲームとは《ひとりのプレイヤーを想定した、アニメ風のイラストで描かれた女性キャラクターとの恋愛の成就を目的とする、男性向けのアドヴェンチャーゲームあるいはシミュレーションゲーム》なのだそうである。どちらもわたくしのまったく知らない世界であるので、本書をどのくらい理解できたのかは甚だ心もとないが、東氏はわたくしのような読者も想定して執筆しているので、観想を書くことは許されるであろうと思う。
 東氏がいうポストモダンとは「大きな物語」が崩壊した状態である。これはリオタールという人の用語らしいが、読んでいるうちに「大きな物語」というのが何かがよくわからなくなってきた。
 本書では、《ポストモダン論が提起する「大きな物語の衰退」は、物語そのものの消滅を論じる議論ではなく、社会全体に対する特定の物語の共有化圧力の低下、すなわち、「その内容がなにであれ、とにかく特定の物語をみなで共有すべきである」とするメタ物語的な合意の消滅を指摘する議論》であるとされている。
 ごく普通に「大きな物語」の消失というと、マルクス主義が力を失ってきたなどがまず想起される。もちろん、今でもマルクス主義を奉じているひとはたくさんいるのであろうが、すくなくともそれが思想として、かつての威力を失いつつあることは確かであろう。これがソ連の崩壊を頂点とする東欧圏の消滅という事実がもたらしたものなのか、社会を統合し推進していくなんらかの指導原理がどこかにあるはずであるという信憑が失われたことによるのか、それが問題なのであると思う。東氏の論を読むと後者としているように思えるが、マルクス主義などの大きな物語は衰退したが、それがフェミニズムや環境問題などの「小さな物語」へと拡散していっている、というような議論もある。そのような「小さな物語」は《「特定の物語を共有すべきである」とするメタ物語的な合意》を形成することはないのだろうか?
 わたくしなどは、「大きな物語」の崩壊という言葉をきくと、《ヘーゲル的な「世界はある方向へとむかっている」とする感覚をほとんどの人が信じなくなっているということ》を指すのではないかというという気がする。だが、このような「大きな物語」は西欧全体で保持されていたわけではなく、ドイツを中心にヨーロッパ大陸で行われたものであり、イギリスなどでは主流になったことはないのではないだろうか? そして、「大きな物語」などというと、すぐに思想方面のことが想起されてしまうが、たとえば日本においてある時期、「大きな物語」を提供したのはバブル景気だったというようなことはないのだろうか? 日本から「大きな物語」を失墜させたのは、マルクス主義の権威喪失ではなく、バブルの崩壊だったというようなことはないのだろうか?
 いうまでもなく、人類の歴史において、ほとんどの時間に「大きな物語」を提供したきたのは宗教であるけれども、宗教が力を失ってきたという歴史の趨勢の大きな流れの中で、その擬似的な代替物としてヘーゲル哲学のようなものが生まれて、宗教的な何かを延命させてきたが、それもいまや命脈がつきようとしている、ということなのではないかと思う。東氏はそれでも人がそれぞれの「物語」を持つことは認める。しかしそれを信じるのは個人の自由ではあるが、それを他の人に強要することはできない。いくら「大きな物語」であっても、それはほかの多様な物語の一つとして、「小さな物語」としてのみ流通を許されるのだという。
 憲法に信教の自由という条項がある。橋本治氏によれば、これはむしろ信仰しない自由、他人から信仰を強制されない自由を言っているということになる。しかし信仰というのは他人に強制するのが本来であるものである。自分がある真理を知っていたら、まわりにいるそれを知らない人に、それを知らせるのは自分の義務なのではないだろうか? 宗教は世界を覆おうとするものであって、あなたがそれを信じるのは勝手などといわれることは侮辱であるはずである。だから信教の自由というのは本当は信仰の否定に等しいことになる。同じように、個人のための「小さな物語」としての「大きな物語」などというのは矛盾であって、これは「大きな物語」の否定なのである。なんのことはない《神は死んだ》である。
 東氏によれば、近代というのは18世紀の末から1970年代まで続き、そのあとがポストモダンなのだそうであるが、なぜ1970年代にそれが終焉したのかということは論じられない。ただ事実認識として提示されるだけである。
 大きな物語が共有されていた時代というのは、規範意識や伝統が共有されることで秩序が確保されていたのだという。きちんとした大人、きちんとした家庭、きちんとした人生設計のモデルが有効に機能していた。しかし、ポストモダンにおいては個人の自己決定や生活様式の多様性が肯定され、「大きな物語」は自分を抑圧するものと感じられるのだ。という。それは1990年代の後半から明確になってきている、という(これはバブルの崩壊と関係ないのだろうか?)。自分のことを考えてみても、結婚したのが1974年であって、そのころのほうが今よりもずっと規範的な家庭のありかたといったものを信じていたと思う。自分としては、自分で考え、自分で考えをを変えてきたつもりでいたのだが、単に時代に流されていただけなのだけなのかもしれないようにも思える。
 またここで書くのは場違いであるのかもしれないけれども、医療の場におけるインフォームド・コンセントの登場と普及もまた、まさに「大きな物語」から「小さな物語」への転換に対応しているのかもしれないと思う。医療もまた時代の流れの上にあるということである。ポストモダンの時代と、年代的にも合致しているはずである。
 さて、東氏がライトノベルに注目するのは、それが旧来の文学が依拠していた自然主義的リアリズムに対抗する「まんが・アニメ的リアリズム」によるからである。ここあたりの東氏の論は高橋源一郎氏の「ニッポンの小説」をすぐに想起させるものである。国木田独歩の散文が二葉亭四迷の散文に接しておこした劇的な変化である。

  • 使用前:嗚呼吾生れて人間となり、来りて此世に住み、住みて此時代に遭ひ、知らず期せずして此境遇を享く。自然! 此高遠、沈黙、無限、偉大、微妙なる吾が周囲の此自然、これ何ぞや。
  • 使用後:日が暮れるとすぐに寝てしまう家があるかと思うと夜の二時ごろまで店の障子に火影を映している家がある。理髪店の裏が百姓家で、牛のうなる声が往来まで聞こえる、酒屋の隣家が納豆売りの老爺の住家で、毎朝早く納豆納豆としわがれ声で呼んで都の方へ向かって出かける。

 高橋氏によれば、後者の文で残ったのは《透明な見ている「私」》だけということになる。東氏は、大塚英志氏や柄谷行人氏らの説を援用して、そのような言文一致体というのは「私」と「現実」を描くために要請されたのだという。柄谷氏の用法によれば、使用前の文章は「不透明」な文であり、使用後の文章は「透明」である。
 そして「透明」な文では書けないものがある。「まんが・アニメ的リアリズム」は「半透明」なのであり、それ故に新たな可能性を持っていることになる。「透明」なリアリズムは「現実」を描く、と東氏はいう。「半透明」なリアリズムは「仮構」を描く。仮構を描くことでしか描けない現実がある。ライトノベルがそれをしている、というような論旨である。
 というように述べてもなんのことやらであるが、例えば次のようなことである。ライトノベルは、既存のアニメなどのキャラクターに大幅に依存している(二次利用)。したがって、唯一無二としての存在ではなく、ワンオブゼムとしての物語を語る。ワンオブゼムとしての物語など旧来の文学観からいえば必然性の欠如であり、そもそも文学ではない。しかし、ありえたかもしれない可能性の一つという見方、リセットが可能なゲームの提示する《確率と呼ばれる無慈悲な死神》もまたわれわれの生き方と深くかかわるのではないかというようなことである。われわれは必然を生きているのではない。偶然に翻弄されている。しかし、旧来の自然主義的リアリズムの文学においては、主人公の生き方が読者に必然のものであることが納得されるように腐心したきた。しかし、われわれの生とはそのようなものではないのではないか、ということである。
 これまた、唐突であるが、医療行為とも深くかかわってくる問題であると思う。われわれは医療行為において常にサイコロを振っているからである。《神はサイコロ遊びをしない》のかもしれないが、一寸先は闇であり、運がいいか悪いかが未来を決めるている。
 本書を読んでいて、一番、違和感を感じたのは、「まんが・アニメ的リアリズム」に対するものとしての旧来からの「自然主義リアリズム」のあつかいである。現在そのような「自然主義リアリズム」で書いている作家など「純文学」分野でもいるのだろうか? 村上春樹の「神の子どもたちはみな踊る」にしても「東京奇譚集」にしても「海辺のカフカ」にしても、あるいは村上龍の「昭和歌謡大全集」にしても「五分後の世界」にしても、「希望の国エクソダス」にしても。確かに「半島を出よ」はリアリズムに捉われて苦労しているところはあると思うが。あるいは中島梓の「グイン・サーガ」などをどう評価しているのだろうか? あるいは「ハークレイ・ロマン」とか。ライト・ノベルがある特定の集団において圧倒的な支持を得ている、ということはあっても、ほかにも特定の集団に支持されている別の小説というものあるわけである。
 ここでライト・ノベルにいわれていることは中島氏の「グイン・サーガ」とかやおいモノとかいわれる小説にもそのままあてはまるような気がする。またここでいわれているデータベース的な小説という見方は、たとえば石川淳の小説にも当てはまるような気がする。あるいはわたくしが、吉田健一の小説を読んでいる態度は、オタクたちがライト・ノベルを読んでいる態度と同じであるようにも思う。あるいはイギリス人がウッドハウスの「ジーヴスもの」を愛するのも同じような感覚なのではないだろうか? 倉橋由美子の「桂子さんもの」もまたデータベース小説であるように思う。東氏はライト・ノベルをことさら新しいもののようにいうが、決してそういうことはないように思う。

 佐太がうまれたときはすなはち殺されたときであつた。そして、これに非情の手を下したものは父親であつた。ただし、このおやじ、もともと気のちいさいやつで、コロシなんぞといふすさまじい気合はみじんも見られず、またそれがとくに人情に反する行為のやうにおもふわけもなかつた。山国の村は風あらく、家の中は吹きさらし同然、さうでなくても、やぶれ畳の上に余計なガキがすでに五箇もころがつてゐるところに、また一箇ふえたとすれば、いや、どこの家でも毎年一箇はふえることになつてゐたものとすれば、風俗はどういふことになるか。おやじは村のしきたり、すなわちおひとよしの秩序にしたがつて、畳からはみだした六番目の余計者を、裏の畑の林檎の木の下に、穴を掘つてうづめることにした。人間の子といつても、肉は畑の泥そつくり、一にぎりのふにやふにやしたやつに、イモの子ほどの生命力があるかどうか。ときに、林檎の実は大きくあかあかと照つて、決してこの土地にはとまつたことのない汽車が遠くにがーつとはしり過ぎて、村は晴天であつた。(石川淳「荒魂」 石川淳全集 第七巻 筑摩書房 1968年)

 何が「林檎の実は大きくあかあかと照つて」であろうか。このどこにリアリズムがあるのだろう。石川淳の愛読者は、氏のこういう世界を偏愛して、氏の作り出すおなじような世界をあきもせず繰り返し読むのである。ライトノベルの読者が愛するキャラのでてくる小説を飽きず読むのと同じである。

 ここで人間を出さなければならなくなる。どういう人間が出て来るかは話次第であるが、先に名前を幾つか考えて置くことにしてこれを寅三、まり子、伝右衛門、六郎に杉江ということで行く。まだ名前の人間が出て来る、であるよりもむしろ出来ている訳ではなくてただ名前の方が何となく頭に浮んだに過ぎない。これから誰か出て来る毎にこれにその名前のどれかを付けて、名前が多過ぎるか足りなくなるかすればもっと名前を考えるか、或は話の筋を変えるまでである。(吉田健一「瓦礫の中」 中央公論社 1970年)

 おそらく寅三と伝右衛門さんの関係は、吉田健一河上徹太郎との関係をどこかで反映しているかもしれないし、遠くにはジーヴスとバーティ・ウースターの関係もこだましているかもしれない。わたくしのような吉田健一愛読者には寅三が勘八になっても(「絵空ごと」)、描かれる世界は同じ健一ワールドなのである。
 倉橋由美子の桂子さんものは「夢の浮橋」で単独の主人公として構想されたに違いない桂子さんを、後にキャラクターとして使いまわしすることにしてできた連作長編である。倉橋由美子は様々な点で吉田健一を模倣したけれども、桂子さんものも、吉田健一の作品の違う小説でも同じ世界という方向を手本にしたのであろうと思う。

 片桐がアパートの部屋に戻ると、巨大な蛙が待っていた。二本の後ろ脚で立ちあがった背丈は2メートル以上ある。体格もいい。身長1メートル60センチしかないやせぽっちの片桐は、その堂々とした外観に圧倒されてしまった。
「ぼくのことはかえるくんと呼んで下さい」と蛙はよく通る声で言った。(村上春樹「かるくん、東京を救う」(「神の子どもたちはみな踊る」新潮社 2000年)

 村上春樹の文章は、石川淳吉田健一のものに較べればずっと透明であるけれども、でも自然主義リアリズムとは遠いものである。
 小説についてはむかしから文体か物語かという議論がある。東氏が大きく依存している大塚英志氏の「物語の体操」(朝日文庫 2003年)などは、もっぱら物語派である。石川淳信者は文体派であろう。かつての日本の自然主義文学という、奇形としかいいようのない文学では物語が極度に排斥されたので、文体派が主流になった。現在ある文学はそれへの反動で物語への傾斜が目立つ。
 石川淳の小説は自然主義全盛時代には異端であったとしても、結局、独自の世界をつくりあげて、(多くはないかもしれないが)信者を作ってきたわけである。文体か物語かではなく、その人でなければない何かがあるかである。ただ、その人でなければない何かというのは、「かけがえのない自分」などというものとは正反対の何かなのであるが。
 だから、本書でいわれているライトノベルの可能性などというのはどうもあまり真面目にとることができなくて、むしろ問題はそういうものになぜ一部の人間が強くひきつけられるのかということのほうであろうと思う。そして、その問題にかんしてはすでに中島梓の「夢みる頃を過ぎても」(ベネッセ 1995年)の「少女たちの見る夢は」で論じつくされているように思う。

 これらのものは私の小説も含めて、確かにいうところの「下らない」のだと私は思う。それはべつだん深くもない。高くもない。高邁でもなければ深遠でもないだろう。何かを教えてくれるわけでもなければすばらしい芸術に到達できる見込がどこかにあるわけでもない。このジャンルをつきつめていったらいつの日か「本当の文学」が誕生するか、といえば、それはそうではないだろうと私は思う。

 中島氏は少女たちが読むコバルト文庫とかルビー文庫とかスニーカー文庫とか、あるいはハーレクイン・ロマンスとかレディースコミック、少女マンガ、やおいものというようなものについていっているのだが、東氏がここでとりあげているライトノベル美少女ゲームが「オタク」たちを救っているということは間違いなくあるのであるから、それがなぜかということこそが追求されるべきものなのであろう。中島氏は「少女」というのが世の中の歪みをもっとも強く受ける存在であるがゆえに、そこで受ける傷からの防御として、こういう「下らない」ものが必然として要求される世界があるのだという。「オタク」というものまた極めて繊細で傷つきやすい存在であり、それゆえにこういうライトノベル美少女ゲームで救われるのであろうが、そのメカニズムはいかなるものなのかということについては、本書ではほとんど解析されていないように思う。
 本書を読んでわたくしなどが感じるのは、このライトノベル美少女ゲームといったものが技巧的にきわめて手の込んだものになってきているということで、当今、日本で文学といって流通しているものに較べても、数十倍(数百倍?)職人的技能が進んでいるのではないかということである。三島由紀夫中村光夫との対談「人間と文学」(1968年)で、アイラ・レヴィンの「ローズマリーの赤ちゃん」を評して、技巧的に完璧、しかし中身は何もない、といっているのと同じような感想かもしれない。
 それだけの技巧を弄して、挙句の果てが、
 
 全てのカケラが紡がれ、完成された世界。
 これ以上ない、理想の世界。
 まだこれ以上、何を、
 あなたは望む?
 古手羽入は、
 まだ望む。
 だって、
 もっともっと、私たちは幸せになれるから。
 望んだ数だけ、幸せになれるから。
 
 それは遠い未来のことじゃない。
 ちょっとすぐ先の未来。
 
 ……なら、それはいつ?
 だから割と、すぐだってば。
 
 私たちは、幸せになれるよ。……ほら、
 
 などということになると、わたくしにはどうしてもついていけない世界なのだが。