J・M・エーデルマン「脳は空より広いか 「私」という現象を考える」

   草思社 2006年12月
   
 著者のエーデルマンは、1972年、43歳で「免疫抗体の化学構造に関する研究」でノーベル賞を受賞したあと、脳の研究に転じた人らしい。なんだかクリックと似たような経歴の人のようにも思える。もっとも、クリックとくらべると、随分と大人しいというか謙虚なひとであるように思えるが。
 それでテーマは例によって、《どのようにして、ニューロンの発火から主観的な感覚や思考や情動が生まれるか》である。
 ダーウインとともに(独立して?)進化論をつくりあげたウォレスの話から議論がはじまる。ウォレスはヒトの持つ高度な知性や道徳は自然選択では説明できないとした。しかし、ダーウインが信じたように、意識もまた進化の産物として説明できるのだ、というのが本書の基本的な主張である。
 著者は、《意識自体は実質的には何も起こさない神経活動にともなう単なる随伴現象である》という説も、《意識は実効性をもつ。意識は何らかの結果を引き起こす》という説の両者を批判する。後者の心身二元論は《物理世界は因果関係において閉じている》という科学の根本原則に反する、とエーデルマンはいう。意識が物理世界の因果関係に介入できるのであれば、物理法則がいつでもどこでもつねに貫徹する法則ではなくなることになる。
 事実、そのように信じている人も多いであろうし、かつては生命現象そのものが物理世界の因果関係からは説明できないとする説が支配的であった。生気論は、まさに生命現象は物理学からは説明できないとするものであった。今日、生気論などを信じるものはいないが(というようなことはとてもいえないことは、前世などというものを信じるている人がたくさんいる以上、明らかであるが、それはここではおいておいて)、生命は物理化学現象かもしれないが、ヒトのこころは物理化学現象ではないとしているものはまだまだ多いように思う。だから《物理世界は因果関係において閉じている》ということから、心身二元論を否定することはできないのであろうが、《物理世界は因果関係において閉じていない》とすることは、何らかの超越的な力を導入することであるから、それは進化論ですべてを説明しようというエーデルマンの方向とは反することになる。
 《物理世界は因果関係において閉じていない》という論は否定しようがない主張であって、あることがそうなったのは神様がそうしたいと思ったから、というのは論駁不可能である。論駁不可能であるから科学の議論ではない。著者のエーデルマンはとにかく科学で説明しようとするわけである。
 わたくしには、エーデルマンの主張は一種の随伴現象説のように思えるのだが、《随伴現象説というのは、神経の活動が本態であって、それにたまたまこころというような現象がともなっているが、それはたまたまそうなっているのであって、本来あってもなくてもいいものなのである、とするものである》とエーデルマンはしているようである。つまり氏によれば、神経の活動が遺伝子型、神経の活動によって生じるこころという現象が表現型なのである。淘汰圧は表現系にかかる。
 この議論が「哲学的ゾンビ」論(神経系が活動していれば、意識があろうとなかろうと同じ行動ができるはずという議論)を否定できるかが問題である。エーデルマンは、ある動物がただ何かをしているというのと、何をしているかを知っているというのでは、生き残りの可能性が違うと言う。意識を持つことで動物同士のコミュニケーションが可能となり、それは生き残りにおいて有利である、と。コミュニケーションというのは「こと」であり、「もの」ではない。「もの」でないものには物理作用が及ぶことはないのであるが。
 エクスキュルは「生物から見た世界」(岩波文庫 2005年)で《イヌが歩くときは、この動物が足を動かすが、ウニが歩くときは、その足がこの動物を動かす》といっている。随伴現象説というのは、イヌは自分で足を動かしていると思っているかもしれないが、実際には足がイヌを動かしている、ただ意識というものの存在によって自分が動かしているように思っているだけだ、という説のように思える。
 ここに古来からの自由意志という問題が頭をもたげてくる。《自分があることをしようと思って、あることをした》ということをどう理解するかである。《自分があることをしようと思う》というのは非物理的な現象であり「こと」であって「もの」ではないとしたら、どうしてそれが、行動という物理的な現象をひきおこしうるかという問題である。
 エーデルマンによれば、「おもう」という「こと」には、神経系の活動という「もの」の変化が表裏一体となっているのであり、この神経系の活動が行動を起すのであるから、それは矛盾でもなんでもないということになる。そうすると過去のすべての生き方の記憶(意識的なものにしろ無意識的なものにしろ)の総和が次の行動を決めるのあるから、それは自由な選択ではなく、強いられた行動ということになるようにわたくしには思える。そのように思えてしまうというのはわたくしの理解が浅いのかもしれないが。
 エーデルマンの議論からは、神経系が活動しなくなれば意識は消失するという当然の結論がえられる。そしてその系として、こころが死後の残るということはありえないことも帰結する。しかし、そのようなことを信じたくない人もいて、それは、事実にあわなくても、信じたいことを信じさせてくれるのが高次の意識なのだから、それでいいのだ、というようなことをエーデルマンはいっている。
 また価値というのは、物理学の一般法則の上にだけに成り立つ科学的世界には必要とされないし、生命の存在しない宇宙には価値のかけらさえも見当たらないともいっている。同じようなことをポパーが「果てしなき探求」(岩波現代文庫 2004年)でいっていた。ピンカーも「心の仕組み」(NHKbooks 2003年)で、ヒトが地上に登場して以来、現在までの時間の99%である狩猟採集生活に適応してヒトは進化したのであり、われわれは農業・工業文明には適応していないといっている。科学的な説明というのがわれわれには受け入れがたいところがあるのも当然ということなのかもしれない。
 G・ベイトソンが「精神と自然」(思索社 1982年)で、生ある世界と生なき世界、あるいはクレアツゥラとプロレマの区別ということをいっている。プロレマとは石と棒きれとビリアード玉と銀河系、クレアツゥラとはカニと人と美と差異。結びつき、あるいは関係ということは、物理学では説明できないということである。
 本書を読んで「こころ」の科学、「意識」の科学というのは、、まだほんの端緒についたばかりなのだなということを痛感した。
 「こころ」を進化の観点から見るということは、「こころ」という現象もまた連続的に見るということであると思う。飛躍はないということである。われわれ人間はバクテリアともウニともイヌともサルとも連続している。
 たとえば、中枢神経系というものができたことにより、単なる反射とはことなる行動がある種の動物に可能になったとしても、中枢神経系があるときに忽然と出現したなどということはない。意識あるいはこころというものがある種の動物に出現したとしても、それもまた突然、無から急に生じたのでもない。
 生命というものがなぜか生まれ、それによりポパーのいうように物理世界に問題が出現し、価値ということが生じた。その問題を解決するために生物がさまざまにつくりだしてきたさまざまな構造の一つとして、意識がありこころがある。もちろん、意識あるいはこころは構造ではない。エーデルマンの言い方によればプロセスである。そのプロセスを生むのはニューロンとそれの間の結合である。だから正確にいえば、ニューロンとその結合が生まれた。進化の産物というのがすべて偶然の産物であるように、意識とかこころというのも偶然の産物であり、今のようである必然はないものである。
 そのことで面白いのは本書でエーデルマンが、いわゆるチェルマーズのいうハード・プロブレムあるいはクオリアの問題は解答不能の問題である、科学が答える必要のない問題であるとしていることである。それがどのような神経機能と対応しているかに答えるところまでが科学の仕事であり、《われわれが、りんごの赤の質感を感じる》ということが、ニューロンの発火からどのように生じるかは、科学が応えることのできない問題であるとしている。DNAのそれぞれの暗号がどのアミノ酸と対応しているかは科学が解明すべきことであるのかもしれないが、DNAの暗号がどうしてあるアミノ酸と対応しているのかは答えようがない問題である、それは偶然なのだから、ということと同じようなことなのかもしれない。
 意識やこころといったものは科学の解明をこばむものである、とする視点は大きくいって二つの方向からのものがあるように思う。一つはこころを規定するものは文化であり、文化は自然科学の領域ではないからとするものである。ピンカーが一生懸命に闘っているのはこちらの方面であるように思う。「空白の石版」説にあれだけこだわるのはそのためであろう。それでピンカーが持ち出してくるのが遺伝である。人間は動物なのだぞ、ということの最大の根拠が遺伝なのである。もう一つがこころを規定するものは物理法則を超越したある種の力であるとする見方である。エーデルマンが主として敵としているのはこちらのほうであると思う。《物理世界は因果関係において閉じている》ということに固執するのはそのためであろう。端的にいえば神様をもちださなくてもこころは説明できるということである。
 人間もまた動物である、ということが自明のことではありえないキリスト教文化圏においては、この議論が先鋭化することは避けられないのであろう。そして科学もまたキリスト教から生まれたということが、この問題をとてもややこしいものとしている。
 長く続いた狩猟採集生活に適応しているわわれれ人間にとっては、地動説より天動説のほうがずっと受け入れやすい。ビッグバンにより拡張しつづける宇宙よりも、静止した宇宙のほうが受け入れやすい。どう考えても、科学の説明はわれわれの生活実感とは乖離している。
 それでわたくしがどうしてもわからないのが、何らかの超越的な存在を想定することもまた、狩猟採集生活において適応的であったのだろうかということである。あるいは霊魂は不滅であるとか、死後も魂は肉体を離れて山のふもとあたりを漂っているとかいう信念を持つことが、狩猟採集時代を生き延びる上で有利であったのだろうかということである。
 そうではなく、合理的であるということがわれわれの本態なのであり、ただどういう考えが合理的とされるかということが時代時代によってかわってきているということなのだろうか? ある時代においては、誰かの呪いが病気を起こすとすることが合理的であったが、現在においては細菌やウイルスが病気を起こすとすることが合理的である、ちょうど、ギリシャ時代においては、大きな亀の背中に乗った大地という考えが合理的であり、現在においては丸い地球という見方が合理的であるのと同じように。というようなことがあるのだろうか? あるいは合理的な見方などというのが、ある時代、ある地域に生じた特異な見方なのであり、それは普遍的なものではなく、時代が変れば棄てられてしまうようなものなのだろうか、ということである。
 わたくしは、合理的であるということが人間の本態であると信じているのであるが、それはひょっとすると少数派の見解なのであり、多数派は非合理の側にいるのではないかという疑問をずっと棄てきれないでいる。


脳は空より広いか―「私」という現象を考える

脳は空より広いか―「私」という現象を考える