養老孟司「石油が維持する世界」

 「万物流転 20」「考える人」2007年春号 新潮社
   
 養老さんが「考える人」に連載している「万物流転」の第20回。アメリカが石油の上に成立した国だということを言っている。
 アメリカの近代文明は石油の産物である。自分たちの文明が石油なしに、エネルギーなしには成立しないこと自覚している。石油が自分の国の生命線であることを、身に沁みて感じている。一方、日本やヨーロッパはアメリカほどは石油に敏感ではない。なぜなら、日本もヨーロッパも石油なしにその文明を作ったのだから、と。
 湾岸戦争アメリカが日本につきつけた問いは、「お前ら、石油の恩恵を受けながら、石油問題を本気で考えてはいないではないか」というものであったという。
 養老氏によれば、かつての日本の「近代の超克」というのも、人間の努力が石油に負けてなるものか、ということなのだという。要するに、日本は精神文明、アメリカは物質文明、精神が物質に負けるはずがあろうか?
 わたくしのアメリカ嫌いの根源もそこにあるのだなと思う。要するに物質文明が嫌い。戦前であれば、間違いなく「近代の超克」派になっていたのであろうと思う。
 この短文を読んでいて、すぐに思い出したのがトッドの「帝国以後」である(この本も養老さんに教えられた)。トッドは、イラク戦争はそれ自体は必然性のない「演劇的小規模軍事行動」であり、ただアメリカが強国であるということを世界に示すという必要からのみ要請されたものであるとするのであるが、養老さんは、石油価格の安定化という明白な目的をもった行動なのであったという(そうするとアフガン戦争はどういう位置づけになるのだろうか?)。トッドもフランス人であって、物質万能主義に一矢報いたいわけなのであろう。トッドが教育の普及が世界の動向を決めるとするのも、物質ではなく人間が世界を変えるとしたいのである。一方、ケーガンが「ネオコンの論理」でいっている「世界はいまだにホッブスの「リバイアサン」の世界にある」というのも、万人が石油をもとめて争う世界ということなのであろう。
 それで石油文明とは何かというと、例の養老さん得意の「ああすれば、こうなる」の世界である。要するに「脳化社会」であり、「都市主義」の世界である。それが維持されるためには、つねに石油は安定供給されなければならない。なぜなら、秩序とはエントロピーの減少であり、それを得るためには石油という高分子を水と二酸化炭素という低分子に分解することが不可欠だからである。しかし石油が無尽蔵であるはずはない。いつか枯渇する。だから石油会社は儲けられるときに徹底して儲けて、将来の石油枯渇時代に備えているのだという。(トヨタが大儲けしている理由もまたそれなのだろうか?)
 そこから先、養老さんは面白いことを言っている。エネルギーを消費して生きるといことは、ヒトがヒトとしてしなければならないことをしないで怠けていきることを可能にするということなのだという。そういう社会になってもそれでも怠けない人がいる。そういう人の選別がはじまったというのが格差社会なのではないかという。でも怠ける人のほうが生き残るのでは?と。働いている二割は結局は過労死するが、そのアリの蓄えた食べ物で、怠けていたキリギリスが冬を越すというのが現代のイソップ物語なのだという(ここら辺はちょっとあやしい議論であって、過労死するのは上の二割ではなく、その下の八割ではないだろうか?)。
 「ああすれば、こうなる」の機能主義に対立するものが、「一寸先は闇」の人間中心主義である。生物として人間には五億年の歴史がある。しかし「意識する脳」の歴史はせいぜい五万年である。衆寡敵せずではないか、と。
 それで思ったこと二点。1)「石油と医療」という問題を誰か論じないだろうか? 2)吉田健一は、五万年より五億年を信じたひとなのだったのだろうか?