5.動物化と情報化

 今回はp205〜209の「動物化と情報化」。
 ここで東氏は、「動物化するポストモダン」での「動物化」というのは、「複雑な人間関係や社会関係抜きで、身体的な欲求を即座に求める傾向」のことを言ったのだとしている。人間回避=動物化なのであるともしている。これは先進国でにここ数十年の変化によってもたらされたものであり、その傾向を困るといっても、それを押しとどめることは論理的にはできないことなのであるという。
 ここで氏は「社会の象徴的統合から工学的統合」への変化ということをいう。
 産業革命以前には、多様な個人の集合をまとめるものは直接的な暴力的な装置であった。それが産業革命以後、教育や福祉といってものを通して、各自を自発的に統合へと参加させる間接的な方法が主となってきた。それを氏は「象徴的統合」という。しかしそれが消費社会の到来などによって、うまく機能しなくなった。それを補完するものとして重要になったのが情報技術の発達であるという。たとえば、テレビでみなが同じ番組を見ているというようなことが、愛国心などというものに変って人を統合する機能を担うようになった。そしてさらには、情報の内容ではなく同じ情報装置につながっているという意識が人々を統合させるようになった。携帯電話によるまったく意味のない内容のメールのやりとりは、ただつながっているということの確認である。人々は、理念の介在なしに工学的に統合される。これを東氏は「社会の象徴的統合から工学的統合」へと表現するわけである。携帯電話は「複雑な人間関係や社会関係抜き」の人間関係の象徴となる。
 氏はポストモダンの時代は「国民ひとりひとりの考え方がバラバラになっていく」時代であるとするのであり、それをどうしようもない時代の趨勢とするのであるが、それを好ましいことと思っているのか、忌むべきことと思っているのか、それが今ひとつはっきりしない。
 東氏は、赤い本の巻末の「新しい批評のための20冊」で、ぬけぬけと自分の「動物化するポストモダン」もとりあげ(p370)、「自分ではすごくよく書けてると思ってるんです。完璧といってももいい(笑)」などと書き、「この本は、「新世代の萌え万歳」という読み方もされてますが、同時に「若者たちは動物だからバカだ」とも読めるようになっている。・・・そういう両義性が維持できた点に、2001年に時代性が表れていると思います」などと書いている。
 たしかにわたくしも読んだ時はそう思ったわけで、動物化を肯定も否定もしないところが、うまく書けていると思ったのだが、こういう解説文でははっきりと否定的とも読める文を書いている。どうも書くメディアによって、否定したほうがいい場所では否定し、肯定したほうがいい場所では肯定している嫌疑がある。両義性というのはそういうことではないだろうと思う。
 東氏の書いていることろによれば、氏の依拠するデリダの文はしばしば結論がないものなのだそうで、そういう文こそがポストモダン的であり、理性により世界を理解できるとした近代の行きかたを批判するものとなっているというようなことを、東氏は考えているように思える。だから両義に読める本を書いたことに氏は満足しているらしいのだが、何か違うと思う。時代のせいということで逃げている部分があると思う。いいも悪いも時代がそうさせているのだ、という言い方で価値判断を放棄している部分があると思う。多様な個人というのは、個々人がそれぞれの意見をもっているというのが前提である。個々人に意見がないということではないだろう。だから氏は、多重人格ということまでいいだす。一人の人間の中に多様な見解があるというのである。しかし、多重人格(動物格?)の動物などというものが人間以外にあるだろうか? それは動物化の正反対にあるものであるはずである。やはり、東氏は動物化を否定的に見ているとしか思えなくなってくる。