R・ローティ「偶然性・アイロニー・連帯」 その3 第2章「自己の偶然性」

 この章は哲学と詩の対立という問題をあつかう。
 自分を自分以外の人間から区別するものは何か?とローティは問う。
 その回答として、もしも自分が他と異なる何かを見出せるとすれば、自分は他の人間のコピーあるいはレプリカではないことになる、という方向がある(偶然性を承認し、自己意識こそが自己創造であるとする見方。あるいは、天才は個人であることの範型であるという見方。つまり、詩人になること)。しかし、それは人を慰めるものではないという見解もある。一人の人間に一度だけ与えられるものなどには何の意味もなくて、すべての人間のすべての時代に共有される何かを見つけるのでなければ意味がないという見方である(偶然性を超越し、普遍性を達成すること。哲学者になること)。
 詩人を範とする見方はニーチェ以来のものである。それ以前の哲学はプラトンの哲学を引きずっていた。ニーチェ以降、自由とは偶然性の承認であるとする見方がでてきた。
 プラトンは、詩人を、特異なもの偶然なものに無駄に言葉をついやすものとして否定した。もしも偶然を承認してしまうならば、人間は生まれて死んでいく動物という次元を超えることはできないとしたのである。動物ではない人間は、真理を知るという人類に課せられた責務を果たすことで慰めを得ることができるとした。真理こそが不滅である。動物的な次元のものは消滅してしまう。
 真理を知るという考えを棄てるべきである、ということを最初に言ったのはニーチェだった。自分自身の用語で自らを記述すること、自分自身の言葉を創造することがニーチェの主張したことだった。ニーチェが拒否しようとしたのは、他人の言葉、自分以前の言葉で自分を語ることであった。自分という存在の原因の根拠を、自分の言葉で語ること。
 しかし、原因というのは発明されるものではなく、自分の外にあって発見されるものなのではないだろうか? この見解は自然科学の分野では特にはっきりとしているように思われる。しかし、そこにもクーンのような見方がでてきているわけである。
 世界に合致するものとしての言葉という考えを棄てることが必要である。自らの言語が偶然の産物であるということを理解すれば、それは難しいことではないはずなのだが。
 馴染みのある普遍的な言語と、馴染みはないが新しい言語との間に境界がある。それはプラトンキリスト教の世界で人間と動物の間にひかれていた境界に対応するものである。プラトン的な世界では、自己よりも巨大で永続的なものに繋がることが救済なのであった。しかし、ニーチェは《すべての「あった」を「私はそう欲した」に置き換える》ことを救済であるとした。アリストテレスは、自己が、自分より巨大で強力で高貴な世界のなかにあることに気づくことの驚きが、哲学の源泉であると考えた。一方、ニーチェ以降の哲学においては、自分がつくったのではない世界、継承された世界の中で死ぬことを恐れるようになった。
 このニーチェ的な見解を支えるのがフロイトである。フロイトは、良心の源泉を個々人の成長過程に求め、自己のそとにある何かに求める行きかたを否定した。フロイトは人間の道徳意識もまた偶然の所産であるとしたのである。
 フロイトによって、われわれは、ある人の不幸には同情的でありながら、別の人の不幸には無関心でいられるのは何故か、という問いに答えられるようになった。われわれの哀れみの感情もまた普遍的なものではないのである。
 カントは「理性」と「経験的感覚と欲求」を分けた。前者は人間に普遍的であるが、後者は個々の人間ごとのものであるとした。しかし、フロイトによれば、理性とは、ある偶然を別の偶然と適合させるためのメカニズムなのである。
 プラトン的あるいはカント的な見方は、われわれが道徳的でありたいのであれば、われわれの個々の行為を律する一般原理を知らなければならないとする。しかしフロイトによれば、一般原理などというものはなく、あるのは個人歴だけなのである。
 つまり、フロイトは、公共的なもの/私的なもの、国家の部分/魂の部分、社会正義/個人の完成、それぞれを総合しようとする試みや、そのどちらを優先すべきかという議論を否定した。自己創造という私的な倫理と、相互調停という公共的な倫理を峻別した。
 ここで問題が生じる。何ら精神の鋭敏さや知的好奇心もなく、殉教するほどの宗教心もない人がたくさんいるということである。カントはそういう人こそが賞賛すべき人であるとし、彼らのためにその哲学を作りだした。そういう人たちは、自分が絶対的な義務のもとにあるのだ認めることに、自己の栄光を感じるのである。そういう人たちは自分たちが範型的な人間であると信じている。
 フロイトによれば、人間にはさまざまな適応形式があるのであり、ニーチェの超人とカントの普通の道徳人は、その形式の中の一つに過ぎないことになる。どちらにも長所と短所がある。まともな人は同時に愚鈍なことが多い。一方、優れた機知の人が狂気と紙一重であることもある。フロイトによれば、人はどのような人間になるかは選べないのである。
 より人間的あるいは真に人間的などということは、フロイトによればありえないのであり、そういう考えを放棄することこそが、われわれに必要なことなのであるとした。カントは神がいなくなり、世界が神聖なものでなくなった後でも、自己を神聖化することでその空虚を埋めなければならないと考えた。しかし、フロイトはわれわれが絶対的な道徳律のもとで生きるという行きかたを放棄したのである。
 フロイトの最大の功績は、人類のそれぞれの個々の人生を肯定し、人間を生まれて死んでいくだけの動物という地位から引き上げることをした点にある。フロイトの説によれば、人間の生は詩である。《すべての人間の生は言語を習得できないほど苦痛に歪められているわけではなく、自己記述を生みだす余裕もないほど労苦に沈めれているのでもない》のだから。リーフという人は、「フロイトは、万人に創造的無意識を付与することによって、天才を民主化した」といっている。またトリリングは、フロイトは「心はその性向の大部分において詩を創作する能力なのだ」とみなしたという。
 こういう見方はロマン主義の見方と何か異なるだろうか? ロマン主義者にとって、想像力は外にあるもう一つの世界の発見につながるものであった。わたしたちは本当はそこから来ているとしたのである。
 フロイトの見方によれば、自分自身のあらゆる経験を自己を創造することの糧とできるという点において、人間は人間以外の動物から区別される。だから知識人だけが特別なのではない。あらゆる人間が自己の経験から創造するのである。社会にとっては何の意味もない取るに足らないことが、個人にとっては決定的に重要であるがありえることを、フロイトは承認する。たまたま私的な脅迫観念と公共的な必要が一致することがある。そこから詩、芸術、哲学、科学、そして政治が生まれる。
 そういいいながら、ローティは、哲人王の国家が生まれることがなく、国家が廃絶されることもないのと同じに、詩人が哲学に勝利をおさめる文化が到来することはないだろうとするのだがが・・・。
 
 この章を読んでいて、疑問に思ったのは、人は、自分は自分にしかないオリジナルを発見したとか、自分は永遠の真理を理解したとか、そういうことがないと、死にあたって自分の人生には意味がなかったなどと感じるのだろうか?ということである。ローティの論ではそうであることになっている。オリジナル派の主張では、自分のオリジナルを発見できなかった人は、その人が存在する理由がなかったことになるとされる。ほかの人で代置可能な人間であるわけだから。一方、永遠派では、自分は真理という不滅のものと同化することにより、一回限りの生をいきるというくびきを脱することができるのだという。
 ローティは「真理」を否定するのであるから、明らかにオリジナル派なのであるが、人の生に意味がなければならない、ということはアプリオリに受けいれているように思われる。言語を習得できないほどの苦痛に歪められ、自己記述を生みだす余裕もないほどの労苦に沈められる生というものがあったとしたら、それは無意味な生なのだろうか? などと書くとわたくしも人の生に意味がなければいけないとしていることになってしまうが、人の生に意味がなければいけないのだろうか、と思うのである。「意味」という言葉が形而上学の方向、真理の方向を指し示してしまうのではないかと思う。
 人間が人間以外の動物とは違っているという方向を示そうとする議論はどこからかかならず形而上学を呼びよせてしまうのではないかと思う。犬と馬と象は違う動物であるから、ヒトもまた犬や馬と象とは違うのは当然なのであるが、人間が人間以外の動物と本質的にあるいは決定的に違っている、人間はただの動物ではない、とする議論は必ず形而上学を招来させてしまうのではないかと思う。
 人間は人間以外の動物と異なり言葉をもつ。言葉を持つこと自体が形而上学を呼んでしまう。ローティは形而上学を否定して、詩を優位におこうとする。詩もまた言葉で作られる。それなら、詩を肯定して、形而上学を否定することはできるのだろうか?
 ローティが持ち込む対立、詩対形而上学という対立そのものが、人間の人間以外の動物への優位という前提をアプリオリに持ち込むのではないだろうか?
 ローティのいう形而上学実在論なのである。唯名論形而上学ではないとされているように思う。しかし、唯名論から詩が生まれるだろうか?
 ポパーの「知的自伝」に以下のようにある。

 生涯を通じて、私は哲学者たちが「外部世界」と呼ぶものの存在を信じただけでなく、反対の見解をまともに取り上げるに価しないものとみなしてきた。(中略)私は常に実在論の支持者であった。そしてこのことは、普遍名辞の問題の文脈内ではこの「実在論」という言葉がまったく異なった意味で、つまり「唯名論」に対立する立場を言い表すために用いられたという事実に、私を敏感に反応させた。いささか誤解をまねくおそれのあるこの実在論という言葉の使用を避けるために、唯名論に反対する一切の(古典的)立場、特にプラトンアリストテレスの理論(また近代人のうちでは、フッサールの「本質の直感」)に当てる名称として「本質主義」という用語を、私は新たに作った。

 わたくしが上で形而上学といったものは、ポパーの用法では「本質主義」ということになるのかもしれない。ポパーはさらにこう続ける。

 一九二〇年代のはじめに、私はこれらの考えにある感化を及ぼした二つの議論をした。第一のものは、経済学者で政治理論家のカール・ポラーニとの議論であった。ポラーニは、私が「方法論的唯名論」と名づけたものは自然科学の特徴ではあるが社会科学の特徴ではない、と考えた。少し後におこなわれた第二の議論は、大いなる独創性と広大な学識をもった思想家ハインリヒ・ゴンベルツとのもので、彼は私の立場を言葉の両様の意味で「実在論的」であると評して私に衝撃を与えた。
 ポラーニとゴンベルツはいずれも正しかった、と私は今では信じている。ポラーニが正しかったというわけは、自然科学が言葉上の議論におちいることがほとんどないのに反して、社会諸科学のおいては語義詮索がさまざまなかたちではびこっていたし、今なおはびこっているからである。(中略)ゴンベルツが正しかったわけは、「外部世界」を信じる実在論者は必然的にカオスよるもコスモスの存在を、つまり規則性を信じるからである。そして、私は唯名論よりも古典的本質主義の方がずっと是認できないと感じていたけれども、類似性の存在の問題を規則性への生物学的適応の問題におき代えている点では唯名論よりも「実在論」にずっと接近していた、ということがその当時にはよくわかっていなかった。

 ここで「実在論」といわれているものは、realism である。
 ポパーが述べている立場、1)外界の存在を信じる。2)外界にはある規則性があると信じる。3)しかし、プラトンイデアのような外界の外にある(超越的な)「本質」は信じない。というのは、わたくしもまったく同感で、1)の外界の存在を信じることに反対する立場は、ポパーのいうように、まともに取り上げるに価しない、と思う。
 問題は2)と3)の関係である。
 2)はプラトン的「本質」「真理」概念の支持なしには成立しえないものであり、プラトン的「本質」を受け入れないのであれば、3)の外界の規則性もまた否定されねばならない、とする立場がありうるのであり、ローティもその立場なのではないかと思う。
 外界というのはただあるだけである。ただあるだけでは規則性があるもないもない。その外界を「真理」が存在するはずという眼鏡をかけてみると、そこに規則性が(最終的には物理法則が)見えてきてしまうのだ、ということである。
 生物の進化を支えるものは外界の(生物学的時間でみた)規則性である。毎年どんな大きさと堅さの木の実がなるということがフィンチの嘴の形を規定する。毎年それが同じであれば、同じ種が繁殖を続ける。進化は環境の変化という偶然に翻弄されながら、じぐざぐに進んできた。だが、進化は偶然に左右されるとは言っても、来年、急に酸素が地球からなくなることがないことを前提にしている。もちろん、来年、酸素がなくなることはあるかもしれないし、地球というものが消失していることもありうるわけであるが、そうならない蓋然性が高いということが、進化の前提である。とすれば、生物が存在していること自体が規則性を保証していることになるのではないかと思う。問題はその蓋然的な規則性を真理というようなものへ飛躍させてしまうことである。
 理解していないことを書いていることは承知しているが、蓋然的な規則性を真理というものへ飛躍させてしまうことはできないということを論じたのが、ヒュームであったのでないかと思う(帰納法によっては真理にいたることはできない)。ヒュームによってまどろみから目覚めたが、それにもかかわらずニュートン万有引力の法則という「真理」を発見できたということにびっくりしてできたのがカントの哲学である、というのがポパー説である。万有引力の法則というは外界を説明するための仮説である。しかし、その仮説がその当時あまりにうまく外界を説明できたので(遠く離れたものがお互いに引っ張り合うなどという荒唐無稽な説であるにもかかわらず)、それを「真理」発見と思ってしまった。ならば、ローティのいっているのはヒュームの哲学まで戻れということであるようにも思える。
 外界には規則性がある。しかし、その規則性の理由は人間にはわからない、たださまざまな説明が提供できるだけ。問題はそこから先である。そのさまざまな説明の間で優劣があるといえるか、ということである。いえる、というのがポパーであり、以前よりもよい説明というものはある、という立場である。しかし、以前よりはよい、などというと、「真理」という考えを呼んでしまうのではないか、ということをローティは警戒する。現在の科学哲学の主流のクーンのパラダイム論などは、良い理論などというものはなく、その時代を規定する枠組みに適した説明があるだけと主張する。ローティは、よりよい理論などといわず、より便利な説明といえばいいとしているように思う。
 本当はローティは自然科学自体にはあまり興味がないのではないかと思う。ローティが自然科学にかかわるのは、それが「真理」という言葉が現在においても死滅せず生き残っていることの関連においてのみあるように思われる。「真理」という言葉は宗教が消えていく過程で自然消滅していくはずなのである。それが自然科学に支えられて生き残るとしたらとても皮肉なことである。宗教の権威を失墜させるにあたって力があったのはやはり自然科学であったであろうと思われるから。宗教は最後は理神論のような砦に閉じこもったわけであるが、その砦は案外に堅固であったということなのであろうか? 
 天に輝く星々(ニュートンの法則)と我が内なる道徳律を結びつけて、神なきあとも。、外在的に人を律する何かを維持しようとしたのがカントである。カントは普通の平凡な人は「義務」の内に生きていると感じることによって幸福な生をおくれると考えた。その普通の平凡な人間を「末人」として切捨てたのがニーチェツァラツストラである。なぜなら「義務」などというのは他人が作った嘘なのだから。嘘を信じなければ生きていけないものは情けない存在であるのだから。そして、それを逆転して、どんな普通の平凡な人間も本当は「超人」なのである、といいだして万人を救おうとしたのがフロイトである。
 などというのはいくらなんでもの要約であろうが、こんな風に書いていると、どうしても想起されるのが、「自分探し」とか「本当の自分」とか「自分らしい生きかた」とかいった言葉を発しているひとたちである。これらの言葉はみんな静的というか受身で、どこかから牡丹餅が落ちてくるのを待っているような情けない姿を思わせるけれども、精神分析というのが行き着くところは、どうもそのあたりが多いように思う。とてもニーチェの超人を想起させるようなものではない。「神」は信じなくなったが「自分」はしっかりと信じられるのである。ローティは「強い詩人」のもつ「影響の不安」ということをいうのであるが、はなから自分の独自性を疑っていなくて、「影響の不安」など感じてもいない。前世からスピリチュアルまで何でもありであって、自分は独自である。自分を自分以外の人間から区別するものは何か?とローティは問うのであるが、「自分が自分以外の人間と違っているなんて当たり前じゃん。だって、わたしはあなたではないのだから!」である。
 ローティはインテリなのであり、「影響の不安」などを感じるのはインテリだけなのだと思う。
 ローティのこの本の根幹は公と私の分裂ということであり、公と私をくくれる一つの原理はないということである。アーレントの「人間の条件」は人間を人間たらしめるのは「公」だけであるという強い主張をもった本であるが、「公」というのは人間だけにしかないものなのだから、人間は動物とは異なるという主張を根底に持つ。
 ローティのこの本も同じである。「神」が死んだ以上は、「真理」という見方を抹消せよ、とローティはいうのであるが、「神」がもたらしたもっとも大きな災いは「真理」ではなく、人間と人間以外の動物は異なるという見方なのではないかと、わたくしなどは思う。
 ある犬が自分が他の犬と異なる何かを持っていることを発見できなければ死んでも死にきれない、などと思うことはない。そう思わないからこそ犬畜生なのであるという人もいるかもしれないが、そんなことを思うから犬畜生以下という見方だってありうる。
 私というのは人が公の場にでていったときにはじめて発見されるものだと思う。公の場というのは強い言い方すぎるとしたら、人々の中である。ひとは生きるため自分を維持するために働くが、その働く中ではじめて自分というものを発見していくのではないかと思う。他人との相互関係が自分をつくる。本を読むような一方的な関係では自分をつくることはできない。とすると蝶々や蘭の採集なども自分をつくることはないのかもしれない。「訳者あとがき」によれば、若いころのローティが取り憑かれていたのは、ニュージャージー北西部の山に自生する蘭の花を見つけることだったのだそうである。なんだか養老さんみたいな人である。ローティの「私」のイメージの原点はそこにあるらしい。一方、ローティの両親はトロツキーの秘書を一時かくまったりしたことのある元アメリ共産党員なのだそうで、「公」のイメージの原点はそこにあるようである。野性の蘭の花とトロツキーでは、それに共通するものを見出すのは確かに困難であろう。
 ローティにとっては、はじめから「私」というものが存在しているようである。他人とは関係なしにそれだけで自立する個人が「私」なのである。そして、その個人が集団を形成すれば、そこに利害調整の場が生じ、「公」が生まれるという図式である。
 しかし、「自分さがし」などを一人でしても自分は見つからず、集団の中にでていったときにはじめて「自分」というものが発見されるのであるとしたら、「公」と「私」はそれほど強く対立したものであるとはいえなくなる。われわれは「公」でもなく「私」でもない「私たち」として生きているのかもしれない。しかし、そのような方向で議論していくと、ローティからは遠く離れてしまう。
 「公」の問題についてのローティの見解は、次章の「リベラルな共同体の偶然性」で主として論じられている。「真理」とか「神」とかいった自分を超える存在を一切仮定しないで成立する社会、それをローティはリベラルな共同体と呼ぶ。「神」が死んだあとの社会である。