R・ローティ「偶然性・アイロニー・連帯」 その4 第三章 リベラルな共同体の偶然性


 真理の存在を否定するものは、相対主義者、非合理主義者と非難される。
 客観的な道徳律の存在を疑うものは、非道徳の嫌疑をうける。
 そのような非難にまともに反論することは、実は真理と道徳律の側の土俵で議論してしまうことになる。なぜなら、そういう議論は何が正しいかを客観的に確定しうるのだということを前提にしているからである。
 啓蒙の合理主義の語彙は、リベラル・デモクラシーの始まりにおいては不可欠であった。しかしいまやそれは民主的な社会にとっての障害になってしまっている。現代において、真理、合理性、道徳的な義務という考えは、有効性を失っている。
 理想的なリベラリズムの文化は、徹底的に啓蒙され、世俗化された文化であり、神性の欠片も残されていなような文化である。そこには、人間が責任を負わなければならないような人間以外の諸力があるという考えが存在する余地はない。「神聖さ」「真理への献身」「精神の最も深い必要の充足」といった観念も廃棄されるか、再解釈される。
 要約すれば、そこでは、「有限で、死すべき、偶然の存在である人間存在が、その生の意味を、他の有限で、死すべき、偶然の存在である人間以外の何かから引き出す可能性がある」という考えにまったく効用を見出すことができない。
 そこでは、われわれは《自然》の計画の到達点の終極点にいるのではなく、《自然》の実験の一つの産物にすぎないことになる。それでも、シュンペーターは、「自己の確信の妥当性が相対的なものであることを自覚し、しかもひるむことなくその信念を表明すること、これこそが文明人を野蛮人から区別する点である」といっている。それに賛同して、ローティは、自分自身の良心の偶然性を認めながら、なおその良心に対して忠実でありつづけるような人びとを、二十世紀のリベラリズムな社会はますます多量に生み出してきている、という。そして、その社会は「深い形而上学的な要求」という私たちの病を治癒する方向にむかっているという。
 しかし、自己の確信が相対的なものであり、偶然の産物であるのだとしたら、なぜ、それを確信をもって語れるのか、という反論がある。
 これに対してローティは、絶対的な妥当性というものは基礎的な数学的真理といったものに限られるのであり、「自分が何者であるのか、自分は何のために生きているのか」という認識にとっては重要ではないので、誰の興味もひかないという。「絶対的な妥当性」という考えは、自分というものが「神聖なもの」と「獣的なもの」に分割しうるという見方、理性と情念、理性と意思に分けられるという見方を背景にしており、人格は理性と情念に分割できないとするフロイトに同意しているリベラルにとっては受け入れられないものであるとも、ローティはいう。
 何が正しく何が正しくないかを裁定できる上位の枠組みがあると想定するのでなければ、相対主義であるということが非難になるということはありえない。そして、そのような高い階層からの見地はないとするのが、リベラルなのである。リベラルは人間は歴史性から逃れられないと考える。
 二つの考えがある。1)「いかにしてあなたは知るのか」と、2)「あなたはなぜそのような仕方で語るのか」、である。哲学はこのような対立を解決しうる俯瞰的な真理を提供しると豪語していた。諸学の母としての哲学、という伝統的な立場である。しかし、今あるのは、それに対しては実にさまざまな見解があるという多元的な立場である。リベラルな社会というのは、行為でなく言葉、強制ではなく説得が維持されるならば、何でもありだ anything goes ! という立場なのである。だからリベラルな社会には、哲学的な基礎は存在しえない。
 基礎を持つべきだというのは啓蒙の科学主義の所産であり、それは人間以外の権威によって人間の企図が保証されることを望む宗教的要求の残滓なのである。十八世紀という時代においては自然科学をモデルとすることは有効な戦略であったかもしれない。しかし、それは今日ではあまり役に立たない。科学はもはや人びとの関心を一番にあつめる、興奮をおぼえる文化領域ではなくなってきているし、科学的方法といわれたものが、いかに時代に制約されたものであったかを、科学史家が明らかにしたからでもある。今でてきているのは、文化を「合理化」「科学化」しようという方向に代えて、文化を「詩化」しようという方向である。ブルームのいう「強い詩人」が文化のヒーローとなる方向である。
 われわれがリベラリズムを是としていることを正当化するものは何もない。かといって、その選択が恣意的であるということでもない。われわれの友人の選択が恣意的なものではないのと同じである。
 「強い詩人」が「新しい言葉」を発見したときにも、その言葉がそのあとでどのような有用性を持つかはまったく予想できない。キリスト教は、自らの目的が残酷さを軽減することにあったことを知らなかった。ニュートンは、自分の目的が近代のテクノロジーにあったことを知らなかった。ロマン主義の詩人は、自分の目的がリベラリズム文化の倫理の発達に寄与することにあることを知らなかった。しかし、現在の私たちは知っている。私たちは後から来たものであるから。
 ホルクハイマーとアドルノは「啓蒙の弁証法」で以下のように述べた。「啓蒙が解放した諸力によって、啓蒙自身の信念がその土台から掘り崩されてしまった。」 啓蒙思想が勝利する過程で、十八世紀には当然のものとされていた「合理性」や「人間本性」の観念が基盤を失っていき、リベラリズムはその哲学的な基礎を失い、知的破産に陥り、道徳的に破綻してしまっている、そう彼らは主張する。
 ローティはその議論を、ある運動を開始した人が語った言葉がその後の運動の発展をも正確に記述していくという前提にたっている点で、誤りであるという。そもそも、当初、当然視されたものが、その信を失っていくというのは、避けられないのであり、そういう相対化の視点(啓蒙運動も破壊的側面を持つことの自覚)をもまた自らのの資産の一つとしていくことで、われわれは豊かになっていける可能性があることを、ホルクハイマーらは無視しているという。
 「基礎」という概念をとりさった方が制度はもっとうまくいくという考えもあるのである。そう考える人たちは、「道徳」を制度・慣行などと合致している限りにおいて有効な暗黙の指示であるとみなす。道徳性はわれらの内なる神秘的な声ではなく、共同体のメンバー、共通の言語の話し手としての私たち自身の声であるということである。そういう見方からは、「私たちの社会は道徳的か?」という問い自体が不可能であることになる。
 とすると「統一体」というものはなくなり「社交体」が、つまり「共通の目標によって統一された仲間意識をもった一団」ではなく、「互いを保護し合うという目的のために協力している、同調を避ける人びとの一団」があるのだということになる。「非道徳的な行為」とは「われわれならばやらない類のこと」ということになる。道徳とは一般原理ではなくなり、歴史から生まれ、どういう未来を目指すのかから導かれるものとなる。リベラルな社会においては「詩人」と「革命家」は、その社会にある、その社会がいだく自己イメージに悖る側面に、その社会自身の名で抵抗する人びとであるということになり、それだからこそ、その社会のヒーローであることになる。
 以上述べてきたような、道徳上の信念も自分の属する共同体も偶然性を帯びているという感覚を持つ人を、ローティはリベラル・アイロニストと呼ぶ。そこからそれに対立する二つの類型が導出される。リベラルになるのをいやがるアイロニストと、アイロニストになるのをいやがるリベラリストである。前者の代表としてフーコーを、後者の代表としてハーバーマスをローティは挙げる。
 フーコーは、民主的な社会が押しつけてきた新しい抑圧を指摘する。フーコーは近代のリベラルな社会によって形成された自己が、それ以前の社会によって形成された自己よりもましであると認める気が、まったくない。むしろフーコーはリベラルな社会の文化は前近代の社会が夢想だにしなかったような類の抑圧をそのメンバーに押しつけているとする。フーコーはこれらの抑圧が苦痛の減少によって償われているとは考えない。しかし、ローティは、苦痛の現象こそがこのような抑圧を償っているとする。
 フーコーは、人間が抑圧から解放されて、社会制度が人間の自律を具体化させるような社会を未来に夢想する。しかし、ローティは、自律というのはすべての人間が求めるものではないという。それは、自分の内面を抑圧するものがなくなれば自動的に解放されるようなものではなく、ごく一部のものだけが希求し、さらにそのまた一部のものが手にいるれることができる特殊なものなのであるする。それは残酷さと苦痛の軽減というリベラルな社会の目標とはかかわりのないものだという。
 ハーバーマスは、ニーチェは近代を批判することにより、近代が内包していた解放への可能性の芽をつぶしてしまったと考える。そしてハイデガーからフーコーにいたるニーチェの後継者である「主観性の哲学者」の系譜を批判し、理性の哲学・主観性の哲学から、間主観性の哲学、コミュニケーション的理性による哲学へと向かうことを提唱する。理性を社会的な規範が内面化されたものとみなすのである。そのハーバーマスを、民主的な社会は、その自己イメージとして普遍主義と合理主義と啓蒙を持っている必要があるとしている点で、ローティは批判する。
 J・S・ミルは「人びとの私的な生を守ることと、その苦しみを防ぐことの間のバランスを適正化することに政府は努めるべきだ」とした。これはリベラルな社会の構想そのもであるとローティはいう。フーコーは現代の社会の抑圧を非難するが、現在のリベラルな社会には、それを自己修正していくメカニズムが組み込まれようとしていると、ローティは主張する。
 
 この章を読んでいてわからなかったのが「啓蒙の合理主義者」というのがどのような信念をもっている人のことを指すのかということである。通常は、自分が世界の仕組みを理解していて、まだそれをわかっていない無知なるものの蒙を啓くために、知識をつたえる人というような者を指すのだろうか? わたくしの啓蒙のイメージはポパー経由なので、そういうものとは随分と違っている。
 啓蒙時代の代表者する一人がヴォルテールであるということについては、異論はでないであろう。そのヴォルテールが啓蒙について以下のようにいったとポパーはいう。「寛容は、われわれとは誤りを犯す人間であり、誤りを犯すことは人間的であるし、われわれのすべては終始誤りを犯しているという洞察から必然的に導かれてくる。としたら、われわれは相互に誤りを許しあおうではないか。(「寛容と知的責任」「よりよき世界を求めて」未来社 1995年)」 こういう言葉は全知の知識人が無知なるものの蒙を啓くなどというイメージからは随分と遠い。これだけ読めば、ローティのリベラルな社会と整合性がありそうである。しかし、ポパーはその先でこのようにもいう。

 (相対主義は)あらゆるテーゼは知的には多かれ少なかれ同等に主張可能であるというテーゼを導きます。ですから相対主義のテーゼは、明らかにアナーキー、法の喪失状態、そして暴力の支配を導くのです。(中略)
 ここで相対主義に対してひとつの立場を対置しておきたいと思います。それは、いつでも相対主義と混同されていますが、相対主義とは根本的に異なるものです。わたしはこの立場をしばしば多元主義(Pluralismus)と呼んできました。しかし、そう呼んだことがまさに混同を導く誤解を招いてしまったのでした。ですから、わたくしはここではそれを批判的多元主義として特徴づけておきたいと思います。(中略)
 相対主義と批判的多元主義を対置するにあたっては、真理の理念が決定的な重要性をもちます。
 相対主義とは、何でも主張できる、したがって何も主張しないという立場です。すべては真であるか無であるかなのです。ですから、真理は意味をもちません。
 批判的多元主義とは、真理の探究という関心のもとにあらゆる理論が‐理論の数が多ければ多いほど、理論はよりよくなるのですから‐理論間の競争に投げ入れられるべきであるとする立場です。この競争は、理論についての合理的な議論と批判による〔不適切な〕理論の除去とから成立します。討論が合理的であるとは、つまり、争いあう理論間で真理が問題になるということであり、批判的討論において真理により接近していると思われる理論がよりよいものであるということであり、そして、よりよい理論が悪しき理論を排除するということです。したがって、真理が問題となっているのです。

 ローティも多元主義を唱えているように見えるのだが、それでもローティとポパーの立場は正反対である。それはポパーが主として意識しているのが自然科学であるのに対して、ローティが念頭においているのが哲学であることから来ているのかもしれない。
 ポパーは寛容を主張するのであり、われわれの理性の限界をいい、われわれの考えは常に過つことを主張し、哲人が全てを知って指導するというようなプラトンからマルクスにいたる知識人の傲慢を批判する。ローティも同じく、プラトンからマルクスに至る路線を批判する。それが真理を僭称しているという理由で。
 問題は真理を僭称しない主張の相互の間においてはその優劣をいえないと、ローティはしているように見える点である。もしそうなのであれば、相互の間の議論は意味がないことになる。ポパーが言っていることは、優劣は決定できないとしても、それでも相互の間で議論することが必要である、ということである。そして議論がおこなわれるためには、どこかに正しいことがあるという前提が必要であるということである。
 ローティの議論にしたがえば、今あることを説明しうるものは、現在までに至るさまざまな偶然の集積である。とすれば、ローティが現在、多元主義にもとづく、科学よりも詩が優先される文化を主張しているのも、また偶然のなせるわざであるということになる。偶然だからといっても恣意的ということではない。偶然の積み重ねが必然を生んでいるのである。
 しかし、現在の社会はローティの理想とするような形態になっていないのであるから、偶然がローティの主張するような社会をもたらすということはない。とすれば、ローティは多元主義の社会の中で、ある見方を他の見方の上とし、偶然を超えて今とは違う社会が来るべきであることを主張していることになる。それは何かを正しいと考えるからである。ただローティがあることを正しいと信じていること自体は偶然の産物なのだが。
 リベラルな社会では、「有限で、死すべき、偶然の存在である人間存在が、その生の意味を、他の有限で、死すべき、偶然の存在である人間以外の何かから引き出す可能性がある」という考えにはまったく効用を見出すことができない、とローティはいう。
 ここでいわれている《生の意味》というのは、何か超越的なものに由来するのではないか、という疑問が生じる。生に《意味》がなければならないというのは無前提的になりたつ議論ではない。人間以外の生物の生には《意味》はない。それはただ生きているだけである。人間もただ生きているだけではいけなのだろうか? 《意味》という語がキリスト教の残滓をひきづっていないということはいえないだろうと思う。有限で、死すべき、偶然の存在である人間以外の何かを説明として持ち出すことはできないとしても、説明をもとめる問いの方は《有限で、死すべき、偶然の存在である人間以外の何か》を信じていた過去に由来する可能性がある。《有限で、死すべき、偶然の存在である人間以外の何か》を信じていた過去というのも、われわれに所与となっているさまざまな偶然の一つである。
 何らか超越的なものを信じることが合理的であった時代も過去にあった。《生の意味》という問いに答えられるのは超越的な何かだけであるとするものは、いまだに多い。西欧では、患者さんが臨終に近くなると、医者は引っ込んで牧師さんとか神父さんがでてくるのだそうである。ローティは果敢に《生の意味》を個々人の物語形成により作り上げようとしているように見える。が、それもまた宗教の残滓なのではないだろうか? 
 フーコーについては何も知らないけれども、批判だけして代案を出さないというのはとても潔いというようには思う。内田樹さんの「寝ながら学べる構造主義」によれば、フーコーは「今・ここ・私」を歴史の進化の最高到達点とみなす思考法を「人間主義」と呼んで批判したのだという。その批判をローティも「偶然性」という言葉で批判するのだが、フーコーは、現在を歴史における最悪の時代とまでもいわないまでもその前の時代に比べて劣るとも勝らないとしているのに対して、ローティは劣るところもあるが勝っているところもあるとしている。いずれにしても、「われわれの時代は、いろいろなことにもかかわらず、われわれが歴史上のあらゆる時代のなかでも最良のものであり、また、われわれが西側にあって生きている社会形態は、多くの欠陥にもかかわらず、知られているかぎりで最良のものである」(「西側は何を信じているのか」(「よりよき世界を求めて」))などというポパーの能天気とは対照的である。
 この講演で、ポパーは自分を啓蒙運動の信奉者であり、合理主義者であり、真理を理性を信じるものであるという。まさにローティの敵手である。ポパーは合理主義者とは《批判によって学ぶことができるという確信を持つもの》であるということだけだという。つまり合理主義者とは「おそらくあなたが正しいのであって、わたくしが間違っているのであろう。いずれにしても討論のあとでも、どちらが正しいのかを決めることはできないとしても、ことがらが以前よりも明瞭に見てとれるようになったことに希望をもつことはできる」とするものである。大事なのは誰が正しいかではなく、客観的な真理に近づいたかである、という。
 いずれにしても知識人は「予言者のポーズ」をとってはならない、という(わたくしはフーコーになんとなく「予言者のポーズ」というようなものを感じる)。思想家、特にドイツの思想家は、予言者として、宗教の創始者として、世界と生命の秘密の告知者として現れることを期待されてきて、それに答えようとしてきた、という。
 啓蒙家の態度と自称予言者の態度は対照的であると、ポパーはいう。ポパーによれば、啓蒙家は数学と論理学という狭い範囲を除いては、いかなる証明もないことを知っている。宗教戦争の結果生じた宗教的寛容の意味するものは、強制された信仰には価値がないという認識であった。これが真摯な信念の尊重、やがて個人とその意見の尊重へと繋がっていった(カントの「人格の尊重」)。合理主義はこのような伝統の上にはじめて生じてきたのだと、ポパーはいう。
 さらにまたこうも言う。

 合理主義は、何といっても、それなくしては西側が存続しえないであろうような理念です。なぜなら、西側の文明が科学〔学問〕に熱心な文明であるという事実くらい、われわれ西側の文明を特徴づけるものはないからです。それは、自然科学を産み出し、そしてこの科学がまさに決定的な役割を演じている唯一の文明です。しかし、その自然科学は合理主義の直接の産物です。それは、古代ギリシャ哲学、つまりソクラテス以前の哲学者たちの合理主義の産物なのです。

 ポパーは今日では合理主義が時代遅れと感じられ、科学は一般の人にとって疎遠なものとなり、原爆のあとでは恐ろしいもの、非人間的なものとなっていることを認める。今日の西側の社会はキリスト教社会ではなく、合理的社会でもなく、統一した理念のないしゃかいであるが、まさにそのこと、多様な多元主義の社会であること、人びとが多種多様なことを信じていること、それが西側が誇れること、信じていることであるという。それなのに、多くの知識人は、われわれがまさに悲惨な時代に生きていて、あらゆる時代の中で最悪の時代に生きているというペシミズムを主張していることをポパーは嘆く(またしてもフーコーを想起した)。
 ローティが「偶然性・アイロニー・連帯」という本を書き、それを世に問うということ自体、理性を信じ、合理性を信じていることに繋がるのではないかと思う。
 ポパーの主張は、そのままフォースターの寛容と啓蒙の論にもつながるのであり(「ヴォルテールとフリードリッヒ大王」(「フォスター評論集」岩波文庫))、さらにはクンデラの「小説の精神」にもつながる。クンデラの「小説の精神」からの長い引用が「偶然性・・・」の冒頭を飾っていることは、「序論」を論じたときに述べたとおりである。

 もし自由と多様性と寛容と同情を大切に考えているなら、全体主義の空気は吸えないということを、彼はベルリンで学んだのです。表面は素敵かもしれない‐しかし! 組織の能率は完璧かもしれない‐しかし! 何かが欠けているのです。人間の精神がないのです。ヴォルテールは一生、人間の精神を信頼していました。彼は今から二百年も前に、その精神でドイツの独裁制と戦ったのです。(フォースター「ヴォルテールとフリードリッヒ大王」)

 ローティもまたポパーやフォースターやクンデラと同じく、西欧的価値の信奉者なのであると思う。その言にもかかわらず、人間の理性と合理性を信じているのではないかと思う。真理ということは信じないかもしれないが、規則性ということは信じるのではないかと思う。人間の精神もまた信じていると思う。そして、たぶん、フーコーは人間の精神をどうしても信じることができなかったのだろうと思う。それがフーコーの暗さであり、フーコーの徹底性の根源でもあるのだろうと思う。
 たぶん、ローティは明るい側の人間なのである。