R・ローティ「偶然性・アイロニー・連帯」 その6 第五章 自己創造と自己を超えたものへのつながり プルースト、ニーチェ、ハイデガー
この章では、ニーチェ、ハイデガー、プルーストがとりあげられるのだが、困ったことにというか、情けないことにというか、わたくしはそれらの人の著作をほとんで読んでいない。ニーチェは「悲劇の誕生」と「ツアラツストラ」、それに最近刊行の超訳?「キリスト教は邪教です」位である。ハイデガーは「ニーチェ論」位だろうか。あとはアーレントの本からの類推。プルーストは「失われた時」の文庫本第一巻の半ばあたりで挫折した。というわけで、本章の理解は最初から不可能であるのかもしれない。
それに、さらに困ったことに、あるいは恥かしいことに、ニーチェやハイデガーやプルーストについて論じた本は、どういうわけか、それなりに読んでいる。原作を翻訳でさえ読んでいないくせに、それについて論じた本は結構読んでいて、先入観はたくさんそれなりにもっていることになる。
以下はそういう人間がする要約と感想である。
ローティによれば、アイロニストが目指すものは自律である。自分を超えるものを想定せず、自分を導いてきた偶然のなかから自分だけの語彙を作り出すこと、つまり、プラトン=カント的な正典といった自分に外在する規範の呪文を解き、その正典が自分には効力をもたないようにさせること、である。哲学を自分の主人ではなく僕とすること。それら正典の文芸批評家となること。
ニーチェもプルーストも、ともにこれらのことを果敢に試みたアイロニストなのである。サルトルのような形而上学者であれば、アイロニストの試みを「無益な情念」であるというだろう。しかしアイロニストは偶然に打ち克とうとするのではなく、偶然を利用しようとする。アイロニストは究極の秘密を発見しようとはしない。だから、アイロニストの生はどこかで中断したとしても、究極の秘密を発見しそこなった無益な生であるということにはならない。アイロニストが目指すのは「よりよい記述」なのであり、「ただしい記述」なのではない。
ニーチェをプルーストを分かつのは、プルーストが政治にはほとんど関係しないのに対して、ニーチェが宣教師のような社会的使命を負っているようにみえることである。
プルーストは直接自分が出会った人びとを材料に小説を書くが、ニーチェは書物の中で出会った人びとを材料にした。プルーストがとりあげたのは彼がたまたま出会った人たちであったのだが、ニーチェが取り上げたのは歴史の中で相互に関連しているとされている人物たちなのである。
ニーチェが取り上げたさまざまな人びとを統合する名前こそが「ヨーロッパ」なのである。「ヨーロッパ」という自己を超える英雄から自分自身を定義する、このやりかたが、ニーチェをプルーストから区別する。プルーストは「些細なもの」を、ニーチェは「大いなるもの」を描く。ヘーゲル、ニーチェ、ハイデガーは「ヨーロッパ」という「大いなるもの」を必要とした。
アイロニストは真理といった自分の外在する原理を利用できないから、それに変るものとして、過去との関係を利用する。現在あるヨーロッパは偶然の産物であるかもしれないが、ヨーロッパの持つ潜在的な可能性のすべてを、彼らは検討しようとする。ヘーゲルらは自分自身の創造だけではなく、まだその可能性を実現していない「ヨーロッパ」をも完成させようとする。単に以前と差異がある「ヨーロッパ」ではなく、まったく新しい、過去とは共約不可能なヨーロッパを作りたいとする。彼らは新しい時代の預言者たらんとするのである。
プルーストは、権力もまた有限であることを示すことで権力から自由になることを欲した。この世の中では誰一人として特権的な立場にはいないことを示せれば、プルーストにとっては充分であった。それにより、プルーストは自分の有限性をも受け入れることができるようになる。すべての人は自分と何ら変るところのない苦難する者たちなのである。
しかし、ヘーゲルらの見方をとると、その時点で「歴史の終焉」がおきる。ヘーゲルらは自分の論を、一つの見方、一つの仮説であるとは、しなったのである。彼らは自分を「最後の哲学者」であるとみなそうとした。
プルーストが「美」で満足したのに、彼らは「崇高」をも求めた。
ニーチェとプルーストの対比の問題こそがハイデガーが解決しようとしたものだった。
ハイデガーは、現存在(=人間?)は自分が作ったのではない世界(自らの故郷でない、したがって自らにとって不気味な世界)に投げ出されていて、他人の言葉を語るという負い目を持って生きているとした。
それは自分が自分自身の創造物ではないということであり、自分で一つの体系を創造しなければ、他人の奴隷になってしまう、ということである。
後期のハイデガーは、自分がプラトンのもう一人の脚注者にはならないようにすること、すなわちもう一人の形而上学者にならないようにするにはどうしたらいいかという問題に専念した。ハイデガーには、ニーチェでさえ、「権力への意思」を最終的な実在とみなしたという意味で、プラトンを転倒した最後の形而上学者なのであると思えたのである。
ローティが本書で用いている「形而上学者」という言葉はハイデガーの用法によっている。しかがってハイデガーは「形而上学」という言葉を馬鹿げた言葉であると思わせることに腐心したのだが、同時に、アイロニストも高尚は真剣さを欠いたおしゃべりなディレッタントに過ぎないとした(なぜならアイロニストは存在との特別な関係を欠いているから)。ところでハイデガーは田舎者であり、コスモポリタンの教養人を嫌悪した。そして、その当時多くのコスモポリタンの教養人はユダヤ人であった。
ハイデガーは形而上学者でもなく審美主義者でもない何かをめざした。しかし、形而上学をヨーロッパの運命を決めるものとみなすことを望み、しかも形而上学は終わり、したがってヨーロッパも思ったとみなしたがった。
初期のハイデガーのいう「現存在」はアイロニストのことであったが、その言葉は後期になると、「ヨーロッパ」「西洋」でおきかえられていく。後期ハイデガーにとって、アイロニズムとはヨーロッパの最後から二番目の段階である。(ここから先のローティの説明は理解できないのだが、ローティに従えば)、その解決のため、ハイデガーは哲学的真理は、音素の選択、言葉の音・響きにかかわるとした。もしも言葉の意味が大事なのであるとすれば、たとえば「存在の家 Haus des Seins 」という語も無数の言語に置き換えられ、道具となってしまう。そうではなく、響きも含めた言葉のすべてが大事であるということになれば、それは他の言葉では置き換え不能となる。
ヴィットゲンシュタインらの言語観に対しては、物理学は他の言説に対して特権的な位置を占めると論じる「実在論 realist」からの異論がある。ハイデガーはそのどちらにも異を唱え、詩こそが他の言説に対して特権的なのだという方向で、ヴィットゲンシュタインらの言語観を乗り越えようとする。
ハイデガーは、物語を語ることによってではなく、連祷を唱えることで、ニーチェのした形而上学への回帰を自分は回避しうると考えた。ハイデガーは自分に深く響く言葉はヨーロッパ人すべてに響くのだとした。つまりハイデガーは自分を「私」であると共に「公共」でもあるとした。そして、その点で間違った。ハイデガーには、一般に通用する公共的な有用性はないのである。
アイロニストの理論は、プラトンやカントのような形而上学を読んだことのないもの、あるいは読んでもそれに深く共感したことのないものには、存在しないものに怯えているような馬鹿げた過剰反応のようにみえてしまう。それが万人(少なくとも、ヨーロッパのすべての人びと)に通じるものであることなどはありえない。
ニーチェとハイデガーは、数多の本を読み、それと自分の体験を組み合わせて、自己を創造しようとしている限りにおいては、プルーストと同じように、気高い。しかし、彼らが、近代社会やヨーロッパの運命、現在の政治について述べだすと、それはまったく意味のないものとなってしまう。
つまり、重ねて言うが、アイロニーは公共的には使いものにならないのである。
こういう章を読んでいると、いつも自己言及ということが頭に浮かんでくる。ローティはいったいどんな読者にむかってこの本を書いているのであろうか、ということである。プラトンを読み、カントを読み、ヘーゲルを読み、ニーチェを読み、ハイデガーを読み、そしてプルーストを読み、ヴィットゲンシュタインを読み、さらにあとから出てくるが、デリダを読み、ナボコフを読み、オーウェルを読み、ということはもちろん、イオニアの哲学者たちも、アリストテレスも、教父哲学も、マキャベリも、デカルトも、パスカルも、スピノザもライプニッツも、キルケゴールも、マルクスも、ソシュールも、フーコーも、さらには、もちろん、ホメロスも、ギリシャ悲劇も、シェークスピアも、ダンテも、ミルトンも、トルストイもドストエフスキーも、ディッケンズも、そしてヴォルテールもディドロも、ゲーテも、ルソーも、たぶんボルヘスも、これらをすべて読み、またその何百倍・何千倍もの哲学、思想、詩、批評、小説、劇を読み、歴史また科学について数学についての膨大な本を読む、そういうような人が一体どれくらいいるのだろうか? 欧米には途方もない教養人というのがいるから、少なからずそういう人がいるのかもしれないが、そういう人でなければ(そして、その全部ではなく、そのごく一部だけが)ここに書かれていることを、自分の問題として読む(そしてローティの言い方によれば、自己創造のための材料として用いる)ことはできないのだろうか?ということである。
わたくしがこの本を知ったのは、東浩紀氏の「文学環境論集」での紹介によってであり、ポストモダンの本質をもっとも簡単に書いた本としてであった。しかし、本書を読んでみると、東氏が「大きな物語」の喪失という言葉でいっているものは、このローティの本では、「形而上学」の失権ということに相当することがわかる。
わたくしの以前からの関心として《キリスト教的な神とそれに連なる超越的なものによってものごとを説明することの排除》ということがあるので、その点でこの本はわたくしの関心に直接答えるものであるように思えた。また、もう一つの関心である《科学と非科学の分別、科学における真》という問題とも間接的にかかわるものであることもわかった。
ローティの関心は、われわれがこれから「真理」なしでやっていくということである。その「真理」の中には物理学法則もふくまれるように読める。一方、東氏の「大きな物語」の消失の中という説の「大きな物語」の中には物理学法則はふくまれていない。だからローティの論の方が射程が長い。ローティの時代区分は明らかにニーチェ以前とニーチェ以後であるから、東氏が「動物化するポストモダン」でいっている1970年以降という時代区分とも明白に異なる(東氏の本でも、第一次大戦後からそれは萌芽するとされてはいるが)。
それにローティの関心はひたすらヨーロッパあるいは西欧である(上で挙げられている名前をみるならば、それは明白であろうと思う)。わたくしは吉田健一信者でもあり、文明開化の信者であると思っているので、その点でもローティの論は他人事ではない。そしてヨーロッパの野蛮とはキリスト教であり、脱キリスト教化することによってヨーロッパは文明化したと思っているので、またしてもローティの論はわたくしの関心と重なる。
それにもかかわらず、わたくしがローティの論に疑問に感じるのは以下のような点についてである。
1)確かにニーチェは神は死んだといった。しかし神を殺したのはニーチェなのだろうか、ということである。ニーチェでもないならば、もちろんヒュームでもないことになるのだろうが、啓蒙運動が代表する自分の頭で考えるという動向は、神を疑う方向を誘導せざるをえない(というか、啓蒙運動というのは、神による説明を排除するということと同義であるようにさえ思う)。さらにまた、ニュートンもダーウインも神を殺すことに貢献したはずである。ある思想家が神を殺したのではなく、時代が少しづつ神を消滅させていったのだと思う。神はだんだんと消えていった。
ヴァチカンだってもはや今では聖書に書かれた天地創造などが真であるということは言っていないはずである。おそらく最後の牙城は“魂”といった方向であるはずである。しかし、たくさんあったはずの切り札のうちのほとんが、実は“嘘”あるいは“美しい比喩”であったのだが、最後の一枚だけは“真実”である、というのはとても苦しい。われわれは「神」なしで生きることをしなくてはいけなるなることは避けられない。
ということも、偶然そうなっているのであるかもしれない。われれれが宗教と政治が一致した王権を世襲する帝国に生きているのでないことも、たまたまそうなっているだけなのかもしれない。そもそもヨーロッパがキリスト教社会になったのも偶然である。(しかし、紀元前6世紀のギリシャにはじまった「イオニアの魔力」(E・0・ウイルソンの「知の挑戦」で紹介されているホールトンの言葉。世界は整然としたわずかな数の自然法則で説明できるという深い確信)もまた、単なる偶然の産物なのだろうか?) とにかくも、
2)その偶然の結果の有効期限もまた切れてきたのであり、今では別の生きかたを探らなければいけなくなっている、ということがあるとしてもそれは偶然ではない、とすることはできないだのだろうか、というのが第二の疑問である。つまり世俗化というのは歴史の極めて大きな方向なのではないかということである。
世俗化どころか現在は宗教戦争の時代に戻ってしまっているではないかという見方もあるのかもしれないけれども、それでもわたくしは世俗化というのはエントロピーの増大のような定向的な方向なのではないか思う。狩猟採集から農耕へというのはたまたまそうなったのであろうか? 農耕を棄てて狩猟採集に戻るというような歴史もありうるのだろうか? どうもわたくしは歴史の方向というものの信者のようで、人がまた中世の世界に戻るとは思えないのである。そこから次の疑問がでてくる。
3)ローティは私的な領域においては各人が自分の生を創造すること、そのことによって人生に意義を見出すこと最重要であるとして、その規範例としてプルーストを持ち出すのだが、“人生の意義”という言葉は、“神が創造した人間”という見方なしに生まれるものなのだろうか?ということである。人生に意味とか意義とは、必要ないのではないか? ただ、生きているということではいけないのだろうか? という問題である。
そのような生などは動物的である、というのならば、人間と人間以外の動物に線を引くという見方もまたキリスト教の産物なのではないだろうか、そのような言い方の中に、「神」に創造された人間という見方はすでに伏在しているのではないか、とわたくしは思う。
要するにプルーストにとって「失われた時を求めて」を書くことが、一番充実した時間の過ごし方であるからそうした、というのではいけないのだろうか? 何も自分の生を創造するなどという大げさなことではないように思うのだが。そして、そのことはヘーゲルだってニーチェだってハイデガーだって同じなのかもしれない。ただかれらは、自分が「神」である、といいだしそうなところがあって、それがはた迷惑なのである、自分の領域に引きこもっていればいい、ということになるだろうと思う。
自分が「神」であるなどということがどれほどの惨禍を引き起こすかということはヘーゲルの弟子のマルクスが十二分に証明したわけだから、もうやめてほしいわけであるが、しかしヘーゲルもニーチェもハイデガーもそしてマルクスも、自分が「神」だというのに近いことを書いているときに、一番充実した時間を過ごしていたのだろうと思う。これは「私的」な領域と「公共的」な領域を区分すべきというローティの論の陥穽の一つなのではないだろうか? なにしろ彼らは俺が言う通りになればみんな幸せになれる、あるいはそうではなくても強い人生を送れる、真の人生を送れると信じているのである。そして、まだヘーゲルやニーチェやハイデガーのような真っ当な(でもないかもしれないが、知の巨人ではあったのではあろう)人たちはいいが、たとえば、街頭ではた迷惑な音量で「悔い改めよ!」などと叫んでいる変な外人だっているわけである。それで、
4)ローティは「真理」などない、われわれを統括する統一的な原理などない、とするのであるが、リベラルな多元主義の社会に住んでいる人の中には、われわれを統括する原理があるということを信仰する人びともまたたくさんいる。それは端的に誤りである、とすることは多元主義の立場からできないわけであるが、それでも、それはローティの立場からは端的に誤りということにはならないのだかろうということである。わたくしの仕事にひきつけて言えば、「あなたは癌です、手術しましょう!」「いえ、わたしは、びわの葉っぱを煎じて飲んで治します」という対話である。なにが正しいのかわからない世界であれば、手術もびわの葉っぱも等価である。しかし自然科学においては、なにが正しいかわかる(かもしれない)とすれば、等価ではなくなる。もちろん、ここには無限に多くの問題がからんでくるわけで、医療は肉体しかみていなくて、トータルの人間はみていないなどという批判からすれば、なにが“正しい”医療行為かという議論自体が、そもそもなりたたないのであるが。
ローティは「真理」はないと信じる。とすれば超越的原理を奉じる宗教とは両立しない。その場合、多元主義は、それを許容するのだろうか? そもそも超越的立場を信じないからこそ多元主義がでてくるわけである。その多元主義の中に超越的立場も包含していくということには矛盾がでてくる。
そもそも超越的立場を信じるものが多元主義社会の中で生きること自体が矛盾なのであるのだと思う。信仰の自由ということ自体が、本当は超越的宗教の否定なのである。“正しい”立場を知っている宗教の立場からいえば、それを全員に強制することことが正しい行き方であり、各人の自発的帰依を待つなどというのは、その人が不幸にあるのを放置するようなものである。寛容は非寛容を寛容するか、という昔からの問題である。「真理」はない。だから「真理」はあるとするひとたちは間違っている、というのは「真理」であるというのは何かおかしい。Informed Consent は「説明と同意」であるが、科学という一つの立場(医学がはたしてどの程度科学であるかは大問題であるとしても)からの主張に、同意する必要などさらさらないわけで、多元社会は anything goes! である。しかし(一部の)医者は自分の行おうとしていることは“正しい”と信じているわけである。なぜならそれは、自分の個人的な信念ではなく、自然界の“真実”であるのだから。つまり、現在は科学がある種の超越的立場を主張しているというということがある。
自然科学は《ヨーロッパという大いなるもの》の産物なのであり、自然科学こそが《ヨーロッパ》の優位を示す、という説に、わたくしは非常な共感を感じてしまう。そしてその自然科学がおそらくキリスト教信仰なくしては生じ得なかったであろうこと、それが転倒したキリスト教であることに当惑を感じる。「イオニアの魔力」のみでは自然科学は生じなかったであろうと思う。それにスコラ哲学に起因するようなある種の思考の徹底が加わって、はじめてそれは生まれたのだろうと思う。そこから思考の徹底だけを残して、イオニアに由来する物質への関心をも保持して、キリスト教を消してしまう、それが合理主義なのではないかと思っている。心とか精神とはをべたに考えてばかりいると足が地につかなくなってしまう。足を地べたにつけているための重しが自然科学なのだと思う。足が地についているとは超越的にならないということである。ヒュームの哲学は足が地についているように思うけれども、ハイデガーの哲学は(読んでいないでいうのは無責任なのではあるが、ローティの説明を読むかぎり)足が地についていなのでないかと思う。あるいは地についているのではなくて地霊についているのではないかと思う。
何だか自分でも何を書いているのかよくわからないくなってきたが、ローティの話はデリダからナボコフ、オーウェルへと向かっていく。またしてもオーウェルを除いてはほとんど読んでいない著者たちである。よく理解できない部分が多いので、3章をまとめて次に論じることにする。