本上まもる「〈ポストモダン〉とは何だったのか 1983−2007」

 
 ローティの「偶然性・アイロニー・連帯」を少しづつ読んでいるが、あまりにこちらの知識が乏しいため、いささか息が切れてきた。それでしばしの息抜きとして(などというと著者の本上氏に失礼だが)、本書を読んでみた。偶然、本屋で見つけた本で、著者についてはまったく知らない。まだ30代後半の人のようである。
 書き出しは以下。

 近代において、人間は理性をもった自律的個人を単位とし、法律や科学といった知の体系を整備していくことで、圧制や迷信、貧困や宗教的束縛からの解放を求め続けてきた。しかし、教育の普及と物質的豊かさをある程度実現した現在、これまでの原理はもはや通用しない。こうした状況をポストモダンと呼ぶことができる。

 まず、ここでわからないのが、この書き方だと、ある時点までは、近代の原理は通用していたとしているように見えるがそれでいいだろうか?ということである。ポストモダンというのは、理性とか自律的個人とか法律とか科学といった知の体系に根本的な疑念を提示するものではないかと思うので、なんだかひっかかる。
 さらに本上氏は、最近の無気力な若者たちが嫌いらしく、「成熟する社会のなかで人は未成熟のままでよいのだろうか?」などともいう。だが、今の社会は成熟しているのだろうか?成熟するという概念は近代のものではないのだろうか? どうもこの書き出しの部分は、あとの部分と整合しないように思う。
 氏は日本のポストモダン思想のはじまりを、1983年の浅田彰の「構造と力」の出版であったとする。氏が強調するのは「構造と力」は一見「軽薄短小」風に見えたが、底に「重い」ものを持っていたということである。どうも氏は現在の「軽い」ものの蔓延(本上氏によれば、東浩紀氏がいう「動物化」)が気に入らないらしい。それで日本のポストモダン受容の中にもあったはずの「重い」ものを、それを再読することにより再発見していこうというのである。
 わたくしは「マトリックス」という映画は見ていないが(というか映画というものをほとんど見ないが)、それでも橋本治の本などでいろいろと論じられていたので、内容はある程度は想像できる。で、本上氏は、ニーチェフロイトマルクスの近代批判は、わえれわれが当たり前と思っている現実を、「こんなものはマトリックスにすぎない!」と喝破し、人類を覚醒に導こうとしたのだという。
 さて、氏は1983年に浅田彰の「構造と力」が10万部以上も売れた理由はよくわからないという。つまり、それが時代に適合していたので売れたのではないとする。その当時の日本は経済大国として自信に満ちていた。しかし、その後、バブルの崩壊以降、明日は今日よりもよくなるという神話は崩壊した。本上氏は必ずしも、経済大国としての自信と「構造と力」のベストセラー化を結びつけない。しかし、わたくしは浅田氏の本が受け入れられた前提として、「もう生きていくだけなら大丈夫」という安心感があったのではないかと思う。フランス本家のポストモダン思想もそうで、「お前たちには、一見、今の世界がよいものとみえるかもしれないが、実はそうではないのだ!」という視点を提供した点でインパクトがあったのだと思う。だからバブル崩壊後の日本のように、自信喪失と未来への不安の時代においては、「お前たちには、一見、今の世界がよいものとみえるかもしれないが」という前提がなくなり、誰がみても面白くもない時代なのだから、「こんなものはマトリックスにすぎない!」というレトリックの「こんなもの」が消えてしまったのである。
 誰の目にも見えるものの分析は、社会学と心理学の得意とするところかもしれないので、いくら本上氏がそれを批判して思想の復権を唱えても、それは厳しいのではないかと思われる。
 第二章はフランス近現代思想のおさらいである。ポストモダンの前にあるものとしてサルトルの拠って立つ、西洋近代の進歩主義、理性中心主義、人間中心主義という観点が提示される。それに対して、主体の自由な選択という考えを批判したものとして、構造主義が位置づけられる。ドゥルーズガタリは、近代において個人は土地や共同体からは自由になったがいまだに家族からは自由になっていないとした。だから、現状に適合しようとすると神経症になる。しかしスキゾは現状を変革しようとする。「自分が治る」のではなく「現実を変える」ほうを選ぶ。「病気なのは社会のほうだ!」という彼らは、人類の真の解放にむかう。
 それで、ハイデガーである。ポストモダンというとハイデガーといことになるらしい。「世界は単に個々の存在するものの集合ではなく、行く着くところ、その根源において「世界がある」ということに気づかされる。世界があること、それ自体に驚きがある(というよりも、そこに驚きを見出すことが哲学という営みなのだ)」ということである。しかし、と思う。「世界」などというものはないのであって、あるのは「世界」という言葉だけである。「世界」を「物質」という言葉に置き換えてみる。「物質」もまた言葉である。「物質」などというものもまたない。しかし、「世界」とは接触することはできないが、「物質」となら接触することができる。「物質」には手ごたえがある。「世界」は頭でしか感じられないが、「物質」は体で感じることができる(ハイデガーは「世界」を体全体で感じることのできる稀有な感受性を持っていた人であるのかもしれない。ハイデガーの哲学はそのような感性をもたない人を呪詛するためのものでもあったように思う)。人間以外の動物は「世界」があることを知らないと思うけれども、「物質」があることは《知って》いると思う。「物質があること、それ自体に驚きがある」ということからは哲学ではなく、物理学が生じるのではないかと思う。非常に変な言い方をすれば、物理学というのは人間がいなくてもありうるもので、人間は、すでに存在しているそれを発見するだけである。だから、物理学というのは人間以外の他の星にいる知的生命体にも理解可能なはずのものである。しかし、哲学(ハイデガーがいう意味での)は、「世界」とか「存在」という言葉のないところにはありえないものであり、ギリシャ語もドイツ語もない他の星にいる知的生命体には解不可能であるはずである。
 今、われわれはたまたま地球という星の上に生きているのであるから、他の知的生命体に通じるか否かなどということはどうでもいいことであり、今のわれわれの生きかたこそが大事なのであることは間違いない。だが、「“哲学”という言葉がその源泉からわれわれのところに達するのを聞きとれば、それは philosophia と響いてくる。つまり、“哲学”という言葉を口にすることはギリシャ語を話していることなのだ。」(G・スタイナー「マルティン・ハイデガー」(岩波現代文庫 2000年 で紹介されているハイデガーの言葉。 Das Wort "Philoshophie" spricht jetzt griechisch )などというのは、わたくしにはついていけないとしかいいようがない文である。この本でスタイナーも述べているように、ラッセルの「西洋哲学史」はハイデガーに一切言及していない。黙殺である。また一方、同じく指摘しているように、ハイデガーをカント以後の最大の哲学者、形而上学者であるとするものも多い。このように極端に評価の異なる思想家はほかにはいないとスタイナーはいう。
 その点を、本上氏は新カント派と「物自体」派という違いとして説明する。新カント派の流れとしては、英米で現在主流である論理実証主義分析哲学があるという。彼らは理性の限界を確定し、理性にできることを通して科学的真理の基礎づけをすることが哲学の課題であるとする。一方、「物自体」派は、認識の限界である不可能なものに肉迫する知的営みとしてカントをみる派であり、世界の根源、思考の限界、不可能なものにあえて挑もうとする。もしも「物自体」派のようなものがいなければ、世界は理屈で割り切れる世界となってしまうが、それでは人間の不安や喜びといったものは理解することができないだろうと、本上氏はいう。人間というのは理性の限界内に自足する存在ではなく、「世界はどうなっているのか?」を問うことを止めない存在なのである、と。
 ハイデガーによれば、理性の限界の中であつかえるものなどは、非本来的なものなのであり、その中で生きることは「頽落」でしかない。しかし、人間は不安を抱く。世界が無根拠で、無意味で、不気味であることに不安を抱く。そして不安の根源は自己の限界としての「死」である。「死」を直視して、自己の有限性を自覚することにより人間は本来的となり倫理的になるとハイデガーはいう。われわれは世界の無根拠さの根源である「無」から聞こえてくる「良心の声」に聞き従わなければならない、とする。
 町田康風にいえば「やれん!」である。よくまあこんなわけのわからないナンセンスなことを言うなあ、とわたくしなどは思う。しかし、本上氏は「物自体」派なのである。だからハイデガーを20世紀最大の哲学者であるとする側である。(スタイナーは「マルティン・ハイデガー」で、ハイデガーの哲学にはいささかの倫理もふくまれていないとしており、それがハイデガーナチスとのかかわりについて一切の反省をしなかったことと深くかかわっているとしている。わたくしもそれに同感である。)
 それで、ハイデガーの系譜をたどり、当然、次はニーチェを論じることになる。ニーチェキリスト教の根幹にある「無垢なるものの生贄の儀式」を否定したのだという。「あの人は無実なのに、殺されてしまった。私たちはみなあの人を見殺しにした。私たちはみな罪深い存在なのだ」という構図を断固拒否したのだという。たとえばキングの「グリーンマイル」などもこの構図を踏襲しているのだという(そういわれて、フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」などもそれと同じ構造なのだろうかと考えた。また村上春樹の小説、たとえば「海辺のカフカ」などもそうなのだろうかとも思った)。
 ニーチェの思想は、意識や理性でなんでもコントロールできるという考えを否定し、われわれの奥底にあるコントロールのきかない異質で過剰なものに目をむける、予定調和を排した、過剰としての「力の思想」なのだと、氏はいう。
 意識は存在に規定され、無意識にひとは動かされてしまうことを指摘した、マルクスニーチェフロイトが、19世紀近代思想を解体した。その反人間主義、反近代主義ポストモダン思想の特徴であり、人間的あるいはヒューマニズムというような近代においては善とされていたものへの疑念提示と異議申し立てこにこそ、ポストモダン思想の重要性を見て取ることができる、と氏はしている。
 そのあと、日本のポストモダンに移り、浅田彰柄谷行人東浩紀の3人をとりあげる。
 まず。1983年の浅田彰「構造と力」。それは「はじめにEXSESがあった」とはじまる(後のEの上には逆向きのアクサンがつく)。要するに理性ではとらえられないものがあるよ、ということ。人間は、本能にしたがい生きる人間以外の動物とは異なり、有機的な秩序(ピュシス)の中では生きられない反自然的な存在、錯乱した本能である欲動に突き動かされる存在である、ということである。人間はピュシスの中にではなく、カオスの中に生きる。
 こういう説明を読んでいると、そのころ読んでいた丸山圭三郎の「ソシュールを読む」(1983年)だとか、栗本慎一郎の「パンツをはいたサル」(1981年)、岸田秀の「ものぐさ精神分析」(1977年)などを思い出す。そこでいわれていた「ホモ・デメンツ(錯乱した人間)」「蕩尽する人間」「本能の壊れた動物としての人間」といった人間観とここに提示されているものはほぼ同質なのだと思う。
 今回、この本上氏の本を読んで、思い出して本棚から「構造と力」を引っ張り出してきた見たら、驚いたことに傍線まで引いて最後まで詳しく読んでいる。ところが何も覚えていない。それはわたくしが記憶力が悪いという問題に過ぎないのかもしれないが、丸山氏、栗本氏、岸田氏の本はそれなりに記憶に残っている。浅田氏の本にくらべてずっとわかりやすく書いてあったからなのだろうか? それもあるであろうが、一番の違いは、丸山氏、栗本氏、岸田氏の本が今自分にかかわる問題について考えているものとして、つまり自分を相手に対話し、自己説得の手段として書いているということが見えるのに対して、浅田氏の本はその論が浅田氏のどのような問題意識と呼応しているかということが見えなくて、何となく学者さんが高いところから無知なる人民のために書いた案内書のようにしか見えなかったところにあるのではないかと思う。
 浅田氏についての印象と同様な印象は柄谷氏の著作についても感じた。なんと頭がいいのだろう、ということだけはわかるのだが、ひっかかるところがなくてすーっと読めてしまう。中島梓村上春樹を評していった「インポの匂いがする」という感じとどこか通じるような何かなのだろうか? それに比べると、丸山氏、栗本氏、岸田氏もとても過剰なものを抱えていることがわかる。そういう過剰な何かが本を読ませる力なのではないかと思う。「はじめにEXSESがあった」とはいいながら、浅田氏は妙にEXSESに乏しい人なのではないかと思う。
 「構造と力」の最後の段落は「砂漠へ」と題されている。それはウエットなものを排し、ドライな世界を指す志向を強調したものなのだという。浅田氏はドライといえばドライなのでもあろうが、なんだかロボット的でもある。
 次が柄谷行人。本上氏は柄谷氏が「情熱恋愛」にきわめて警戒的であることを批判する。氏が一時展開してすぐに解散したNAMという運動など、組織をくじ引きで運営することで互酬的、非官僚的、参加的民主主義を保証できるとしたのだそうで、わたくしには正気だろうかとさえ感じられる。そこでは「他人を手段としてのみならず同時に目的として扱え」というカントの言葉が「倫理」として求められた、などというのを読むと、悪い冗談としか思えない。頭がいいということが昂じ、あまりに理性的であることが昂じると、それは狂気に接するようになると思うけれども(というようなことをチェスタトンがどこかで言っていたような気がする)、何か柄谷氏にもそういう匂いを感じる。もちろん、あまりに理性的な人には「情熱恋愛」が愚かしくも危険なものに見えるのは当然である。わたくしには、柄谷氏はポストモダンの人ではなく、近代を正統に継承した理性の人であるように思える。
 最後が東浩紀
 東氏はデリダ論である「存在論的、郵便的」でデビューしたわけであるが、デリダ脱構築を、本上氏は「ある命題とその命題の否定が同時になりたつことを証明することによって、命題そのものを無意味なものとしてしまう」ことと説明する(これだけ読むとカントの「純粋理性批判」のアンチノミーの問題と同じであるように、わたくしには思えてしまう)。本上氏はそれが生じるのは言語が数学での記号や数字のように一意的に意味と対応しないものであることに由来するという。論理実証主義は言葉を数学での記号と同じように厳密に使用できるという前提をもっている。しかし、言葉はコンスタティヴとパフォーマティヴの二つの側面を持つのであり、論理実証主義ではコンスタティヴの側面しかあつかえないのだという。
 脱構築は3つに区別されるという。1)論理的脱構築、2−A)存在論脱構築(後期ハイデガー)、2−B)郵便的脱構築フロイトをとりこんだデリダ)、である。1)は極端ないいかたをすれば、あらゆることはどうとでもいえること?であり、価値相対主義につながる。2−A)は本上氏の説明ではよくわからない。後期ハイデガーの言語の特権化と関係があるらしい。2−B)もよくわからない。テキストは思ったようには伝わらない、ということがいわれているのだが。それは意思や欲動を刺激して精神分析でいう転移をおこさせるのだという。
 ここで否定神学という言葉が用いられている。東氏の「存在論的、郵便的」を最近はじめて入手してちらちらと読んでいて、そこで「否定神学」という言葉を発見してこれは便利な言葉だなと思った。わたくしが昔から「カソリックの詐術」といったぎこちない言葉で考えていたものに近いのかな、とおもった。もしわれれれが神を理解できるなら、それは神ではない。なぜなら神はわれわれ人間の理解を絶した存在だから、という論法である。これは不敗の論法で、昔から汚いなあ、と思ってきた。これはたとえば内田樹が「先生はえらい」でいう《先生をえらいと無根拠で思うこと》につながるし、もっといえば「レヴィナスの愛の現象学」でいう《タルムード伝承における師の絶対性》にも繋がる。理性の限界を意識して、自分を超える何かに身をあずけると、今まで見えなかった何かが見えてくる、ということである。
 本書では、否定神学的思考とは「世界の無根拠さや穴を中心とした体系的思考」であるとされている。ハイデガーラカンデリダも「自分の存在には根拠がなく、世界にも根拠がない」という思考を共有しているという。形而上学というのは、そういう世界にあいた穴に《究極の何か》を持ち込んで、無理やり蓋をしてしまうやり方をいうのだという。とすればわたくしが考えるカソリック形而上学に分類されてしまうことになる。
 体系的=哲学的思考(本書でいえば倫理実証主義?)から零れ落ちてしまうものがある。その存在は《零れ落ちる》という「否定」の形でのみ示される。それを神格化しないための方法、それがデリダ脱構築であるということを、東氏は「存在論的、郵便的」でいいたいのであるように思うのだが、どうなのだろうか?
 社会学と心理学の話は省略する。ここでは、本上氏は「精神分析」に過剰な思いいれを抱いているように読めた。そして左派が元気がない現在において、ポストモダニストとしての期待を福田和也に求めているようなことが書いてある
 それで、本上氏の結論は、「人間は、言葉を受け入れる代わりに、存在を一部放棄してしまっているのだ。もう少し平たくいうと、われわれは法や言語の世界に入ることで、生の現実と直接触れ合うことができなくなってしまっているのである。これが「言葉を話す存在」としての人間のありよう、人間の条件なのだ」が、「われわれは普段そうしたことをすっかり忘れてしまって」いて、それを忘れさせる装置として文化が機能している。
 つまり、われわれはニヒリズムニーチェ)、存在忘却ハイデガー)を生きているのであり、そういう「動物」としての生きかたには、「超越」も「崇高」も「不可能なもの」も何もない。それを克服するための思考としては、ポストモダン思想は今なお有効である、そういったことのようである。
 動物肯定論は現状肯定論となる、という。1980年代にスキゾキッズの革命思想であったはずのポストモダン思想はいつの間にか、動物肯定の現状肯定となってしまった。もう一度、世界の原理や根源、自己の存立基盤への問い、不可能なものへの志向といった超越的なものを取り戻そう。理念がない人間はもはや人間ではない。人間であることの自明性に安住せず、「人間」とは何かを問い続けることが求められている、という。
 しかし、現在において、それは「母なるもの」といった安易なオカルト的なものへ収斂しつつあるように見える。ただ快適なだけに満足していていいのか? 現前するこの世界の自明性に疑問を持つという知的かつ野蛮な意思を取り戻そうではないか! ということである。
 
 こういう本上氏の論を読んでくると、思想好きというのがあるのだな、ということを感じる。「郵便的不安たち」に収載された宮台真司との対談で、東氏は、「「濃い」人生を生きないと死んでしまいそう」といい、「俺はこんなことをやって何をやりたいじゃなくて、「こんなこと」をやりたいんだ、つまりこれが自己目的というか、考えるというのは、考えること自体の快楽なわけですよ」といっている。
 考えていないと死にそうになるひとというのがいるのだろうと思う。もちろん、ただ快適なだけに満足していている人がいてもいいわけである。そしてまれに「ただ快適なだけ」では薄くて薄くて死にそうなる人がいて、誰に頼まれたわけはないのに考える、ということなのだと思う。ニーチェだってハイデガーだってデリダだってみなそういう人たちなのである。それがたまたま誤配されてわたくしたちの手許にとどくこともなるのかしれないが、それは偶然なのであって、著者には自分の言葉が誰にとどくかは事前にはまったくわからないわけである(自分という最初の読者を除けば)。
 最近、ポストモダン思想が過去のもの扱いされているのは(本書のタイトルもすでに過去形である)、「ただ快適なだけ」の生というような夢のようなことを言えた時代は過去のものとなり、とにかく日々生きていくことが最大の問題になろうとしているので、「超越」とか「崇高」とかいったメシの種にはならないことに関心をもつ人が減ったということなのだと思う。そしていつの時代もものを考えるのが即生きることという人も少数はいるわけである。
 1983年の時点において浅田氏は、本当に「明日もまた退屈な昨日の繰り返しだ」という時代が来たと思ったのだと思う。生活の不安もないが喜びもない、ただ退屈な繰り返し! そこにもう少し別の行き方もあるのだよ、ということを提示すること、そして、そういうことを考えること自体も、ひょっとすると楽しいかもしれないよ、ということを提示しようとしたのだと思う。
 今回、「構造と力」「逃走論」などもぱらぱらと読み直してみたが、実は浅田氏の本で一番印象に残っているのは「ヘルメスの音楽」という美しい薄い本である(筑摩書房 1985年)。音楽論、美術論を集めたもので、これを読んだとき、ああ浅田氏はシューマンピアノ曲を初見で弾ける人なのだと思った。「シューマンを弾くバルト」という文に何気なくそう匂わせてある。庄司薫もまたピアノが弾ける人のようで、わたくしはピアノが弾けないという劣等感のせいで、そういう部分には敏感に反応してしまい、そこを強烈に覚えている。「ヘルメスの音楽」を読めば、浅田氏が芸術を堪能する美的生活者であることがよくわかる(たとえばフェルメール論)。氏にとってはフランス現代思想もそのような美的鑑賞の対象の一つなのではないかと思う。浅田氏にとってもまた、それは「濃い」人生を生きるための材料でもある。ただし、「美的」というのは「静的」でもあって、氏はいつも全部を理解してしまい、そこから「過剰」は発生しないのだが。
 本上氏のこの本を読んで感じる一番の違和感は、物を考えない、知的でないものへの軽蔑である。考えるのが好きというほうが異常である可能性が高いという方向への疑問はあまりもたないようである。「超越」とか「崇高」とか「不可能」といった言葉が滑稽に響くということへの疑念もあまりもたないようである。そして、何か新しい思想の提示によって世界が一気に変るということへの期待を隠さないのもわたくしには不思議にみえる。そういう、個人の頭脳(理性)がすべてを理解して、根源的な解決を示すというような行き方はありえない、一つの思想的な枠組みですべてを解決するというようは方策はありえない、というのがポストモダンという時代の思想の根底なのではないかと思うのだが。


“ポストモダン”とは何だったのか―1983‐2007 (PHP新書)

“ポストモダン”とは何だったのか―1983‐2007 (PHP新書)