海野弘「二十世紀」 その2

 
 50年代:イギリスの「怒れる若者たち」。オズボーンの「怒りをこめてふりかえれ」の中の台詞「俺たちの世代というものは、何か、優れた主義の為に死ぬなんて事は出来なくなっている。(中略)何かもう、すぐれた勇敢な主義なんて残っちゃいないんだ。」
 またしても「大きな物語」の消失である。これは「スエズ動乱」によるイギリスのエスタブリッシュメントの権威失墜を反映しているのだという。
 そして、それと同期するように、フランスには実存主義が、アメリカにはビート世代が出現した、と。
 ティーン・エイジャー文化のはじまり。「ライ麦畑でつかまえて」「理由なき反抗」「暴力教室」とそこでの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」。あるいは「ウエスト・サイド物語」。
 ソ連スプートニク打ち上げとキューバ革命
 ガルブレイズの「ゆたかな社会」が1958年。アメリカでは〈幸福な家族〉のイメージがあふれた。そこには白人しか登場していないのだが。
 
 50年代末がわたくしが小学校を卒業する頃である。なんだかそのころのイメージでは、ソ連のほうがアメリカに追いつき追い越しているようであった。ICBMとかいうのの開発もソ連が先だったし、もちろん人口衛星も先。第何次五ヵ年計画とかいうのでどんどん成長し、今にも西欧を追い越そうとしているように見えた。計画経済のほうが自由経済より効率がいいのかなと思った。小学校では時々放課後に映画を見ることがあり、日本の南極観測船(「宗谷丸」?)が氷に閉じ込められ、それをソ連砕氷船(「オビ号」?)が救出にくるのであった。日本は駄目なのだなあ、と思った。
 わたくしのうちにテレビが入ったのは50年代末であると思うけれども、そのころのテレビはアメリカ製のドラマが多かった。「パパは何でも知っている」というのがあって、まさに本書で書かれている通り「若くてハンサムなパパ、若くて美人のママ、そしてかわいい子どもたち、が郊外で芝生つきの一戸建の家で幸せに暮している」の世界である。中学に入り、その原題が「Father knows best」であることを知り、なんという上手い訳なのだろうと感心した。そこには少しも、反抗する若者はでてきていなかった。
 
 60年代:50年代は厳格な社会的階級があり、女性は男性に、子どもは親に服従していた。性への態度は抑圧的。人種差別は残り、家庭、教育、政府、法律、宗教の権威はまだ大きかった。60年代はそれへの反動である。
 また、マルクス主義的な幻想の過激化とその挫折である。
 1961年〈ベルリンの壁〉ができた。
 1962年、キューバ危機。またこの年、カーソンの「沈黙の春」。
 1960年ケネディ政権の誕生。1963年、暗殺。
 ベトナム戦争の拡大。
 1964年、ビートルズアメリカツアー。
 アンディー・ウォーホルとポップアート
 1966年、文化大革命。そこで見られる知識人への激しい敵意。
 キング牧師の黒人解放運動とその暗殺(1968年)。
 1968年の「プラハの春」とソ連チェコ侵入。
 同じ年のパリの5月革命。そこへのサルトルの知識人としての登場。
 1969年、ウッドスティック・フェスティヴァル。
 
 この時代はわたくしの中学・高校と大学の前半である。
 中学時代はわたくしは、日本はいずれ社会主義化すると思っていた。ちっとも読まなかったけれども、中学の図書館には何十巻にもなるレーニン全集とかスターリン全集とかがあったように記憶している。そして笑止なことに、わたくしにはマルクス主義トルストイ主義の区別さえよくついていなかった。なんとなく平等とかそういった方向に世の中が変わっていくという程度の感覚であったのだと思う。
 そして高校時代には、政治で人が幸せになるなどというのは嘘で、人の悩みに答えるのは文学なのだ、というようなほうへ変っていたと思う。別に何の悩みがあったわけなのではないし、なぜそのように変っていったのかも自分でもよくわからないのだが。
 そして大学に入ってからは、もろに1968年の渦に巻き込まれてしまった。
 実は、そのことを除いては、ここで松田氏があげているさまざなな事例が同時代の切実な問題として感じられたという記憶がほとんどない。恥ずかしながら、わたくしはビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」というのを聴いたことがない。ここでの事例に関係して、わずかに覚えているのは、本屋にサルトルの白い表紙の全集があふれていたことくらいである。
 ということで、1968年の渦に巻き込まれたときの自分の感性の根拠というのは、基本的には高校時代に読んでいた小林秀雄太宰治が基本という時代遅れな状態だったわけであるが、大学に入って読み出した吉行淳之介などの「第三の新人」たち、それへの評論としての「成熟と喪失」、江藤の敵手でもあり同調者であり、そのころの若者の教祖の一人であった吉本隆明を通じて福田恆存などを知って読み漁っていた。そして、今になって疑問なのは、こういった「第三の新人」たちは、あるいは江藤淳吉本隆明、あるいは福田恆存といった文学者、思想家は、世界のこういう動きとどのようにかかわっていたのだろうかとということである。
 「第三の新人」たちは凡そ非政治的な作家たちであった。しかし江藤淳はそこに敗戦とアメリカによる占領の影響をみたわけである。吉本隆明についてみると、氏が世界の思想の思潮の流れの中でどのような位置にあるのは見えない。たぶん、全然関係がないような気がする。偽者を嗅ぎ分ける異常な嗅覚といったものが氏にはそなわっていて、偽者にノーと言い続けることがその役割だったのかもしれない。
 今から思うと、わたくしは福田恆存から反近代という思想を学んだのだと思う。福田氏が敵とした進歩的文化人というのは近代の信奉者であったわけである。ところで福田氏はやはり政治の人であって文学が本当に好きという人ではなかったように思う。つまり詩を愛する人ではなかったように思う。わたくしが最後にたどりついた吉田健一は文学とは詩のことであるとする本当に文学が好きな人であった。そして吉田氏のほうがたとえば「怒れる若者たち」といったことにも実は敏感だったのであり、ウォーとかフォースターとか、あるいはエリオットといった作家の位置ということに鋭敏だったのではないかと思う。そして吉田氏が書いた小説もとても前衛的なものでもあった。吉田氏には激動の60年代といわれるような動きもみな泡のごときものと見えていたのではないかと思う。
 日本の戦後というものが世界の動きとどのようにかかわり、どのようには独自なものであったのか、ということである。
 
 70年代:変動相場制となった。フェミニズムが台頭した。ヴェトナム戦争終結した。オイル・ショックがおきた。カーターが大統領になった。ホメイニ革命がおきた。ソ連がアフガンに侵攻した。毛沢東が死んだ。
 
 わたくしが医者として働きはじめた10年くらいにあたるのであるが、世界のこういう動きがわがことと感じられることはほとんどなかった。この年代に結婚したわけであるが、今から思うと60年代はおろか50年代価値観のままであったように思う。どうも世界の動きは10年から20年くらいたって自分のもとに及んでくるのかもしれないとも思う。ということであまり感想が書けない。
 
 80年代:レーガンゴルバチョフサッチャーの時代。
 この時代にリベラリズムが終わり、テクノロジーの時代に入ったという人もいる(リベラリズムからコンサーヴァティズムへ。ケインズ的な経済から市場の自由化へ。中央集権化へ)。
 チェルノブイリ原発事故とエイズ
 そしてポストモダン思想の台頭。人間の幸福といった大きな物語がなくなる。そういった〈物語〉という支えを失った科学はどうなるのか? 80年代の情報革命はポストモダンそのものである。暴走するのをとめられないのではないか? 金儲けして何が悪いと平然とみながいうようになった。世界は相対化し平板になる。家族といった枠組みも怪しくなってくる。
 1989年。ベルリンの壁の崩壊。
 
 70年代には資本主義にも国家が介入し、社会福祉などを充実していくことで社会主義的な政策も取り入れていくようになるといわれていた。それが80年代に入ってレーガンサッチャー路線である。わたくしは医療の場にいるので、福祉という問題に他人事であるわけにはいかない。しかしいまだに、高福祉路線が正しいのか小さな政府路線が正しいのかよくわからない。経済学というのはフリーランチなどというものはない、有限な資源をどう配分するのか、という学問なのだそうである。
 高福祉路線というのは、資源は無限であり、誰でもただ飯が食えるなどということはありえないという点から、自ずと限界があるはずである。そして最近開発されてくる医療機器あるいは薬剤はとんでもなく高価である。通常であれば、そのコストと自分が受ける利益からそれを購買すべきか否かが決められる。しかし、自分の命という利益をコスト計算することはできないし、そのコストで提示されている医療行為がもたらすものが素人には(そして本当は専門家にも)予測が困難であるので、放置すれば医療費は際限なく増大する。
 わたくしが医者になったときには、CTと超音波機器は開発されたばかりで、まだMRはなく、H2阻害剤も、β遮断剤も、Ca拮抗剤もなく、スタチン剤も分子標的薬もなかった。あったのはほどんど病態生理学だけであり、治療学はいたって不十分なものであって。それが、胃潰瘍は手術しなくても治るようになり、血圧もコレステロールも下げられるようになった。そもそも栄養がよくなり結核脳卒中も減った。その代わりに、飽食が問題になってきているわけである。メタボリックシンドロームなどというものが問題になるということは本来の医療のなすべきことは本当はもう終っているということなのかもしれない。これで癌が確実に治る病気になってしまったら医療というのはどうなるのだろうかと思う。本当にどうしたらいいのかわからない。
 ベルリンの壁が崩壊したのは本当に驚きだった。秘密警察による恐怖政治などによっては国民をコントロールできないことがあるのだということが驚きであった(しかし中国ではいまだにそれができているのかしれないが)。ドイツという国がカント以来の伝統をもっている国であること、情報を最早封鎖することが困難であることなどがそれをもたらしのであろうか?
 
 90年代:グローバル化原理主義
 湾岸戦争ソ連の崩壊。ロスアンジェルス暴動。ユーゴ紛争。多文化主義と世界の平坦化。
 
 ソ連の崩壊も本当に驚きだった。フランス革命などというのもこういう感じだったのだろうか? その直前まで誰も壊れると思っていないものがあっけなく壊れる。広い意味で西欧文化圏であったところでは共産党政権はなくなってしまった。アジアとキューバに(それ共産主義はどうかは問題だが)に残っているのは示唆的である。
 海野氏は、多文化主義というのは、一度すべての価値観を提示して、その中からみなが改めて選んでいくためのひとつの準備段階なのであるという。
 ソ連が崩壊したとき、これで歴史は終るという議論があった。価値の上での争いはこれで終わるというのである。しかしいまイスラム側からでてきているのは、西欧世界は価値なき世界、利便と欲得だけの世界であり、人間が人間として尊厳をもって生きるに値しない世界なのではないかという批判である。これは、〈反近代思想〉がずっと唱えてきたことであり、それが従来は西欧内からあるいは西欧の辺境から主張されていたものが、はじめて?西欧外から言われるようになったのかもしれない。
 ポストモダン思想は西欧内での反近代思想なのであったのだろうが、西欧的な価値というものを暗黙の前提にしていて、それにもかかわらずの西欧近代批判、西欧体制が根本的には崩壊しないことを前提とした批判だったのではないだろうか? 神ぬきのキリスト教? いくら個人の自明性を批判しても、署名のある個人の著作として思想が世に問われたわけである。今イスラム圏からでてきているのは署名のない、マスとしての西欧批判である。
 わたくしは時代遅れの文明信奉者であって、文化は成熟すれば文明に至るのではないかと思っている。命を育むのはいたって大変だが、それを絶つのには小さな銃弾一個で足りるように、文明は築くのは大変だが崩すのは至って簡単なものであろう。しかし文明の記録は残り、後の世代はまたいちからやり直すことはしなくてもよい。同時に、相互の文化は相手の文化を知ることもできる。おそらく共産圏を崩壊させたものの一つはそのような情報化の力なのではないかと思う。
 教育の普及が単なる軽佻浮薄の普及だけということになるのか、それとは異なる何かも生み出すことができるのか? それは誰にもわからないことなのかもしれないけれども。