中井久夫「こんなとき私はどうしてきたか」

   医学書院 2007年5月
   
 「ケアをひらく」という主として看護師さんを対象としたシリーズの一冊であるので、一般の書店にはあまりおいていない本であるかもしれない。精神科医である中井氏が主として看護師さんを相手に話した講演の記録である。精神疾患なかでも中井氏の専門である統合失調症についての話題が多いが、わたくしのような内科医にとってもいろいろと教えられるところの多い本である。
 この本を読んで感じるのは、統合失調症というのが基本的に命にかかわらない病気なのであるということである。だから医者が患者に処方するべき第一は「希望」なのであると中井氏はいう。予後については「「医療と家族とあなたの三者の呼吸が合うかどうかによってこれからどうなるかは大いに変わる」というのだと。つまり「幅がある」「可塑性がある」「変わりうる」ということを告げるのだと。
 われわれ内科医が外来で患者さんをみて、肝臓に癌の転移と思われる病巣がるいるいとあるのを見つけた場合など、どのように「希望」を処方すべきなのだろうか? 「うーん、何かありそうだから、入院してよく検査してみましょう」などと言っても、実は診断はとっくについているわけで(原発はどこかといった意味での診断はついていないが、癌であるということについてはほぼ確定している)、入院の意味は病気の広がりを知ることにほぼつきるかもしれない。最近は、抗がん剤による治療の効果が格段に進歩してきているから、しばしば治療は長期戦になるけれども、むしろ最近のインフォームド・コンセントは最悪の場合について告げることのほうが多いかもしれない。「最善をつくして治療しますが、最悪の場合には半年以内ということもないとはいえないから、今のうちにしたいことをしておいてください」といったように。このように告知したほうが、余生を有意義に過ごせるというのだが。これはとても希望を処方することにはならないだろう。
 中井氏は「治る」とはいわない、「治るものも治らない」というのだそうである。「あなたは今、人生で何回もは経験しないような大事なときにいる。今ちゃんとしておかないと治るものは治らない」という言い方をするのだと。たしかにこういう言い方はがんの場合でも使えると思う。「統合失調症ではないですか?」ときかれたたら、「それも視野に入れて検査していきましょう」と答えると。これも使えそうである。
 氏は証拠にもとづいた医学(EBM)以外にも「ダメでもともと医学」「ダメもと医学」というのがあってもいいと思う、という。お金がかからずに無害なことならいい、と。
 外来でしばしば「先生、大丈夫ですよね! 大丈夫って言ってください!」というような患者さんがいる。「そして大丈夫ですよね、ああ、安心した」とか一人で納得して帰っていく。大丈夫も大丈夫でないも何もわからないわけであるが、これなど「ダメもと医学」の典型で、「大丈夫!」というのはただである。そもそもわたくしは「大丈夫ですよ」ともなんともいっていないわけで、わたくしが何もいわないでいると、患者さんの側が勝手に安心をして帰っていったいくわけである。こういうのも「希望」を処方していることになるのだろうか?
 氏はまた患者さんがさんざん聞き飽きたことは言わないという。アルコール依存の人に「お酒をやめなさい」などといっても無駄と。確かにそうで、健康診断の問題点はそこにある。肥満の人に「あなた痩せましょう!」などといっても、まず何の効果もない。本人が一番よく知っていることだから、と。「精神療法」というのも、特別なことではなくて、本人が今まできいたことのない言葉をあたえて、考えてもらうことなのだと、氏はいう。患者さんの考えを広げ、患者さんを自由にすることだと。幼少時のトラウマ探しなどが精神療法ではないのだぞ、ということであろう。カウンセラーのもとにかよっていて、自分の症状の原因はxxと思い込んでいるひとにときに遭遇する。完全にそれにとらわれていて少しも自由ではない。河合隼雄さんのような大名人、大臨床家がすれば別なのであろうが、多くのカウンセリングは必ずしも本人のためになってはいない場合が少なくない印象を、わたくしはもっている。
 医者は(精神科だけではないだろう)20〜30くらいのあいづちの打ち方のレパートリーをもっていなければいけないのだそうである。「なるほど」とか「まあ、まあ」とか「ふむ、ふむ」とか「へぇ」とか。自分はいくつもっているだろうかと思う。2・3種類しかないかもしれない。「そうですか」(もっと患者さんに話させたい場合。「それでいつくらいから?」とか続ける)。「うーん」(「あまり心配いらないと思いますよ」と続けたい場合)。「なるほど」(中立的で、こちらの方向が決まらない場合)くらいかな。むしろあいづちよりも、こちらの表情のほうでそれを表現しているかもしれない。さきほどの例でいえば、こちらの表情では「大丈夫」といっているのかもしれない。
 患者さんが文句をいってきたら、氏は「きみは見込みがある」というのだそうである。見込みがあるかどうかはわからないが、これも「ダメもと医学」なのだそうである。
 中ほどでは、患者さんの暴力への対応法がきわめて具体的にリアルに紹介されている。正直、内科の医者をしていて患者さんの暴力への対応ということはほとんど考えたことがなかった。そういう場面にまったく遭遇していないわけではないが、システマティックな対応などということは考えてもいなかった。この項は大変参考になった。もっとも、実地の訓練をしておかなければ役には立たないであろうが。
 ここでリベットの「マインド・タイム」での仕事が紹介されているのだが、ここでの中井氏の説明がよく理解できなかった。氏によれば、脳は千万ビットの情報を処理してある結論を出すのだがその過程は無意識であり、その結論が20ビット程度のものとして意識で処理されるとしているように読める。前者の無意識の過程をセルフ(自己)、後者の意識の過程をエゴ(自我)だというのであるが、そうだとするとエゴは脳の活動によるのではないのだろうか? わたくしの理解は、脳があることの決定をはじめてから、それが意識にのぼるまで約 0.5 秒かかる。つまりわれわれはあることをしようとしてあることをしているのではなく、あることをすることは無意識のうちに脳がすでに決めていて、それが後追い的に自分の意思による決定であると思い込むように脳は作られているというものなのだが、違うだろうか? 中井氏は無意識の決定を理性が抑制する(人を殺したいと思っても思いとどまる)としているようだが、リベットの説はそういうものではないと思うのだが、違うだろうか?
 その他、病棟の運営とか実に具体的な提言がいくつもある。
 本書を読んで感じるのはプロの医者とはこういうものなのだな、ということである。そして、もう一方には心臓手術の世界的権威という医者もやっぱりプロとしているわけである。しかし心臓手術のプロはきわめて特殊な世界であるが、ここにかかれているようなことは日々患者さんに注意深く接していればどんな医者でも自分のものとしうる世界なのである。以前中井氏の何かの本を読んでいて、舌のさまざまな変化を微細に記載しているのを見て驚嘆したことがある。舌はいわゆる「体調」が悪いときにさまざまな変化をみせることはまぎれもない事実であるが、東洋医学と違い臓器中心の医学である西洋医学では、舌そのものの病気でない限り、舌の変化にはあまり関心をよせない。肺炎の結果として舌に変化がおきていても、胸のレントゲンがよくなるかどうかが問題であって、舌がどうであろうとも肺がよくなればいいことになる。本書を読んでいても中井氏は内科の医者以上に聴診器をあて、脈をみているのではないかと思う。そして聴診器をあて脈をみることは、お金がかからずに無害なことの第一の医療行為なのである。どうもわたくしは必要もない人にも血圧をはかっているように思う。聴診器を当てることは胸を開けるという時間が必要で、一日50人から60人診ている外来では、それをするのはつらい。血圧測定のほうがもっと簡便で脈をみるよりは医療行為的である、ということかもしれない。
 精神科医のほうが内科よりもよほど身体をよくみているかもしれないというのはとても皮肉な話でもあり、また猛省をせまる話でもある。あるいは逆で、精神科の医師は身体をみなくてはならず、身体医学の医者は、精神のほうに目をむけなければいけないということなのだろうか? この本に、200人の入院患者を一人でみている!精神病院の医師からどうしたらいいかといわれ、まず廊下を歩いて行き会う患者に挨拶するところからはじめろ、とアドヴァイスしたいうことが書かれている。わたくしの日々の外来もほとんど挨拶しているだけという気もする。それもまた医療行為であると中井氏はいうのであるが。

こんなとき私はどうしてきたか (シリーズ ケアをひらく)

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