R・ドーキンス「神は妄想である 宗教との決別」

   早川書房 2007年5月
   
 普段は本についてくる帯は読みにくいので捨ててしまうのだが、この本のはそのコピーがあまりに面白いのでとってある。「あのドーキンスがなぜここまでむきになるのか?」というのである。このコピーが売り上げに貢献するのかどうか、どうなのだろう。なんだか出版社のほうでもこの本をもてあましていて、本の内容で正面から勝負するのではなく、あのドーキンスさんがこんなにおかしくなっていますよ、面白いでしょう!という方向で売りにかかっているようにも思える。
 そもそも、この本が日本で翻訳出版される必要があるとも思えない。ドーキンスドンキホーテのように猪突している相手が日本にはほとんど存在しないのだから。もしこの本が日本の読者になにか資する点があるとすれば、欧米で(とくにアメリカで)科学をするということが日本とはぜんぜん違ったものなのだということが身に沁みてわかるということであるのかもしれない。
 本書は文字通り「宗教は妄想」であり諸悪の根源であるのだから、そんなものは地上から消えてしまえ!ということを論じたものである。だが、本書を宗教の側の人間が読むとは思えないし、かりに読んでもただの一人の改宗者?がそこからでるとも思えない。とすれば、本書は実は宗教の側の人間を相手にしているのではなくて(そうだとすればあまりに稚拙な書き方である)、科学の側にいる人間がどこかにもっている宗教への劣等感を払拭することを最大の目的にしているのかもしれない。意地悪い見方をすれば、ドーキンス自身がもっている宗教への潜在的劣等感を拭いさるための自己説得の書であるのかもしれない(こうまでむきになるのは、それだけ宗教というものがドーキンスの中で否定し切れない重みをもっているからかもしれない)。
 「虹の解体」(早川書房 2001年)は、わたくしには、《自然科学者は人文科学に劣等感をもつ必要はない。自然科学もまた人文科学に勝るとも劣らない Sense of Wonder に満ちあふれた知的営為なのだ》ということを主張した本であるように思えた( id:jmiyaza:20040404 )。「悪魔に仕える牧師」(早川書房 2004年)に所収された「立ち上がるべきとき」は9・11事件を端緒として書かれた文で、こういう事件があった以上、もう宗教への攻撃を手控えるべきではない、今まで礼節を重んじて我慢してきたが、もう我慢する必要はなくなった、ということをあからさまに述べたものである。
 本書はその延長線上にある。だから宗教への反感が露骨に書かれていて、宗教を信じるものへの礼節というような配慮は微塵もない。宗教を信じる側が冷静に読みとおせる本であるとは思えない。宗教にいる側を説得するための書き方としては最悪である。普通は、あなたの立場もわかる、しかしあなたはこの点で間違っているとわたくしは思う、という書き方をするものである。あなたがなんでそんな馬鹿なことを信じられるのか、わたくしにはまったく理解できない、なんでそれが妄想だとわからないのか、という書き方はしないものである。
 面白いことに、本書のなかでドーキンス自身が同僚から「なぜあなたは、そんなに宗教に敵愾心を燃やすのか? そんなにむきになって相手をやりこめたりすれば、あなたが原理主義無神論者だと思われるだけじゃないですか?」といわれることをみとめている。この本のコピーもその部分からとられたのかもしれない。
 ドーキンスが宗教(この場合はほとんど一神教)を心底嫌っているというのなら、ああそうですかで終わるだけのことである。問題はドーキンスが十字軍を組織して一神教を征伐にいきかねないような本書の奇怪な雰囲気にある。もしもドーキンスが権力をえれば、宗教を弾圧にかかるだろうと思う。「信教の自由は、何人に対しても、これを保障する」などとは決していわないだろうと思う。「悪魔に仕える牧師」でも「幼児期の洗脳こそ、世界の災いごとのほとんどに対する究極的な責任がある」としているし、本書でも親が子供に宗教教育をすることへの憎悪を隠していないから、「親が子供に宗教教育をすることを禁じる法律」とでもいったものを作ることは間違いないように思う。そのことを縷々かたっている「悪魔に仕える牧師」の「娘のための祈り」はそれが大真面目であるだけ、ポール・ジョンソンの「神の探求」(共同通信社 1997年)におさめられている「多くの問題をかかえたプリンセス用の祈り」(これもまた大真面目に書かれた離婚前のダイアナ妃のための祈り)とともに、わたくしにはただただ滑稽なものとしか思えなかった。なにか同じ穴の狢という気がする。
 竹内靖雄氏は「<脱>宗教のすすめ」(PHP新書 2000年)で「キリスト教の正体とは、自分たちは正しいと信じていることで、これは悪魔より恐ろしい。なぜなら悪魔は自分が悪だと知って行動しているから、その点ではいたって正常だが、自分が正しいと思っている人間はどんなことでもできます。悪魔にも思いつかないような恐ろしいことができます。キリスト教に限らず、それが一神教の本質です」といっている。この観点からすれば、ドーキンスはどう考えてもある種のキリスト教徒であるとしか思えない。そして、このことは、そもそも科学がなぜ西欧の文明の中でうまれたのかという問題ともつながっていく(村上陽一郎氏などがいう「聖俗革命」)。ある時期までは、この世には規則性があるということを神が保障していたのであり、それを理神論というかどうかは措いておくにしても、そのような信念を保障したのは神だったのである。そして世界の規則性を発見していくことは神の栄光をたたえることにそのままつながった。
 「世界名作の経済倫理学」(PHP新書 1997年)で、竹内靖雄氏は以下のようにいっている。

 ヨーロッパの文学はキリスト教を無視しては理解できない面がある。(中略)無神論なら、無神論でもいいが、西洋ではキリスト教の神をあえて否定しようという戦闘的な態度が無神論になるのであって、日本人の「神なんかどうでもいい、神があってもなくても、また数多くあっても同じこと、神なんかにこだわらない」というような態度とは根本的に違うのである。

 まさにそのとおりで、明らかにドーキンス無神論の立場なのだが、そういうむきになった態度は日本人にはとても野暮にみえるのである。そんなどうでもいいことになぜそれほどこだわるのだ、と。
 さらに竹内氏はいう。

 西洋も近世に入ると、その一神教の神をないものと仮定しても差し支えないのではないか、つまり人間は人間だけでやっていけるのではないかという考え方が主流になった。神のかわりに「理性」というものをもち出して済ませる立場も有力になってくる。といっても、中世までさかのぼると、この「理性」ももともと神が人間に与えてくれたものだということになっていたのだから、それを人間がもっていると考えることは、人間が神であるつもりになって生きていくことを意味する。欧米の個人主義でいう個人とはこのような強力な個人であって、これも日本人にはなかなか理解できないものである。
 とにかく、自分が神であるつもりの個人というものが登場すると、小説の世界でも、この個人を主人公にしたり、作者自身が神の向こうを張って、「創造」の仕事に挑戦したりすることになる。一神教の神は、何もないところに世界万物を「創造」したことになっているが、人間がこの神の仕事を真似るとすれば、それは「芸術作品」という独立した世界を、言葉、音、絵の具その他を使ってつくりあげる仕事になる。これをめざす人間が「芸術家」である。小説を書く作家の中にも、芸術家として芸術作品を創造しようとする人間が当然でてくるのである。
 日本の小説家には、「自分を表現する」ことをめざす人はいても、自分が神になったつもりで芸術作品を創造しようとした人はきわめて少ない。

 竹内氏がいう神と張り合う小説家とは、フロベールであり、ワイルドであり、プルーストであり、ナボコフである。
 これの類推でいうならば、西欧の科学者は世界創造の秘密を探る「神」につうじるものとして自分をみているものがいるのかもしれない。そういう科学者は日本人にはほとんどいないのではないかと思う。社会生物学論争が日本ではまったく問題にもならなかったのはそういう点が関係しているのかもしれない。ドーキンスに、そしてE・O・ウイルソンなどにも強く感じるひとつの原理ですべてを説明したいという欲求もまたキリスト教の伝統のないところでは理解しづらいものなのかもしれない。キリスト教の神は科学の分野にも口をだしてくる。一方、また科学の側も「神」の問題は科学が解決できるなどと言いだす。共存共栄とはいかないのである。
 だから本書でも、なぜひとは「神」を信じるのかということについての科学的解明が試みられている。ドーキンスが提示する仮説は「人間はほかのどんな動物よりも、先行する世代の蓄積された経験によって生きのびる強い傾向をもっているのであり、それを有効に子供に伝達していかなければならない。そうであるなら《大人が言うことは、疑問をもつことなく信じよ。親に従え、部族の長老に従え、とくに厳粛で威圧的な口調で言うときには》という経験則をもっている子供の脳に淘汰上の利益があるはずだ」というものである。ドーキンスが親の子供への宗教教育を嫌悪する理由のいったんもここにあるのであろうと思うが(むしろ、親の宗教教育を嫌悪するが故にこういう仮説を思いついたのではないかと思うくらいである)、あまり説得的であるとは思えない。わたくしとしては、《人間は個としてはきわめて弱い動物であるので、集団で生きるしかかつては生きのびる手段がなかった。ヒトを集団としてまとめておくための手段として宗教的感情をもつということが有効に作用した》というほうがまだ有効な仮説のように思える。だから、ヒトが個として生きられるようになった時に、宗教は必要でないものとなっていくのである。合理主義とは自分の頭で考えるということであり、誰か他人に考えてもらうのではなく、自分で考えることが普通になったときに宗教の出番はなくなる。
 橋本治は「宗教なんかこわくない!」(マドラ出版 1995年)で「自分の頭でものが考えられない人間の前段階とは、神様や教祖様という絶対者からの指示待ち状態―すなわち“宗教”である」といっている。

 必要なのは、宗教でも指示でも教祖でもリーダーでもなくて、“自分の頭でものが考えられるようになること”―日本に近代化の必要が叫ばれるようになってから、日本人に終始一貫求められているものはこれである。これだけが求められていて、これだけが達成されていなくて、これだけが理解されていない。だから、まだロクに自分の頭でものが考えられないまんまのくせに、平気で「近代は行き詰った」なんてことを言う。残念ながら、“自分の頭でものを考える”ことの必要性が理解されて、これがクリアーされるまで、日本人に“近代”なんかは訪れないのだ。“日本的近代”は“近代の模造品”である。ここ十年二十年の懐疑は、それだけを明らかにしたのだ。

 竹内氏がいうところの“強い個人”とは“自分の頭でものを考えることのできる人”なのである。竹内氏の「経済思想の巨人たち」(新潮選書 1997年)の背表紙に公文俊平氏が推薦文を書いていて、竹内氏のことを「日本には稀な筋金入りの強い個人であり、本物の自由主義者である」といっている。ドーキンスはどうも科学の支えがないと自分だけでは立てない人であるような気もする。宗教の側の人間が聖典なしには自立できないのと五十歩百歩のようにも思える。
 ドーキンスが一番気にしている宗教の側からの攻撃は、宗教がなければ道徳はないというものであるようで、われわれのもつ善良さ、道徳心、礼節、共感、憐れみといった感情が進化論的に説明できるということを細かく論じている。しかし、竹内氏が「経済思想の巨人たち」でいっているように、たとえばヒュームは「議会の独立について」で、「およそ人間は無節操で利に走りやすい悪人であり、人間の行動は私利私欲以外の目的はないと想定しなければならない。いかなる政治システムもこの考えにもどづいてつくられるべきである。この私益を通じて人間を動かし、その貪欲さや野心がどうであれ、結果として公益に寄与するようにさせるべきである」としたわけである。人間は善良ではなく性悪であるのだが、それを利用して、一見“道徳的”とも見えるような行動をとらせるシステムを作るしかないのだ、という見方もあるわけである。宗教の側は自分たちが宗教のゆえに善良であり、道徳的であり、礼節であり、共感と憐れみの感情をもつとしている。ドーキンスが反論しているように、別に宗教を持つ人間が持たない人間より道徳的であるわけではない。しかし世の中では、宗教心があるがゆえに人は道徳的でいられると思い込んでいる人は多いので、宗教はなくても人は道徳的であるというほうに無理にでも議論の舵をきらなければいけなくなる。つまり西欧でキリスト教がつくりあげてきたステレオタイプな人間像の枠内で議論をすることになる。そうであれば、どうしても議論は微温的になってしまう。
 臨床の場にはいってすぐに感じたのは医療が宗教に対してもっている途方もない劣等感であった。いわゆるターミナルの状態、医療行為としてはもうほとんどできることがなく、あとは死をまつだけというような局面になると、もう医療のなすべきことはない。あとは宗教だというような雰囲気が濃厚になるのである。こういう状態に対して医療は無力だが宗教は何かしてあげられると思っているのである。つまり医療者の側も特別な死生観をもっているわけではなく、この点に関しては宗教(あるいはもう少し広くいえば哲学)が専門であるから、専門家にまかせましょうということになってしまう。もっとひどい場合には、精神科にまかせましょうということになる。死を前にした不安といったことに何か出来合いの解答がどこかにあるに違いないと思っているので、自分にはそれがないことが劣等感になる。それに対する答えはどこにもないのだという可能性にはあまり思い至らない。もちろん、それに対する解答がないとすることは、いま死にゆくひとにはなんの慰めにもならないのだけれども、こういう局面に自然科学の人文科学への劣等感が色濃くでてきてしまう。
 ほとんどどの宗教に関する本を読んでも、宗教の起源の大きな要素として人間の死に対する恐れということをあげている。不思議なことにドーキンスのこの本はその問題にほとんど触れない。ドーキンスが論じるのはたとえば、死をもっとも恐れるのは信仰をもったひとである、とするある老人ホームの看護師の証言である。信仰をもっていても死の恐怖は減じないのだぞ、というようなことである。そして、もしも、信仰が死の恐怖を減じるにしても、それだからといって宗教が正しいとはいえないという。
 人間もまた一種の動物である。とすれば、人間もまた他の動物と同じように死ぬ、というごく当たり前のことがすべてであるように思う。そうであるならば霊魂の不滅などでてくる余地はどこにもない。キリスト教の最大の問題は人間と人間以外の動物の間にはっきりとした線を引いてしまうことである。人間のもつ“魂”をそれ以外の動物から人間を区別する絶対の指標としてしまうことである。ドーキンス生物学者であるのだから、人間もまた動物なのであるということですべての議論を断ち切ることができるはずなのである。しかし、ドーキンスは人間は人間以外の動物とは違っているのだという土俵にとりこまれてしまっているように思う。それはキリスト教の土俵なのである。人間は自己意識をもつ唯一の動物であるのかもしれない。それは事実である。しかし、それが人間と人間以外の動物をわける指標であるというのは事実ではない。価値判断に属する。しかもきわめてキリスト教的な色彩の強い価値判断である。だからその区別を受け入れてしまったら、その先の議論は科学ではあつかえない部分がでてくるのは当然である。それを無理にでも科学の議論の場に持ち込もうとするから、どこかドーキンスの議論は滑稽でもあり野暮なものともなってくる。あのドーキンスがなぜここまでむきになるのか?といわれてしまうのである。

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