上野千鶴子「おひとりさまの老後」

   法研 2007年7月

 なんだか最近の上野氏は介護や老後の専門家になりつつあるようである。この前とりあげた「老いる準備」( id:jmiyaza:20050306 )もそうであった。それでも本書はフェミニスト上野氏の著である。「あとがき」に「なに、男はどうすればいいか、ですって? そんなこと知ったこっちゃない。せいぜい女に愛されるよう、かわいげのある男になることね」なんて書いてある。
 しかし、そんなこと書いていいのだろうか? 女が男に媚を売って生きるのをフェミニズムは否定してきはずである。それなのに、男に媚を売れというのだろうか? フェミニズムは、男と女は同等と主張していたはずなのに、いつのまにか、女は男より優れているにいってしまうか、女だけに世界に閉じこもってしまう。
 本書は題名のごとく「おひとりさま」の老後をあつかっているので、平均寿命からいって、かりに結婚はしていても「おひとりさま」となるのは圧倒的に女性の側だからということで、もっぱら女性の老後につき論じている。だから「男のことなど知っちゃいませんよ」なのではあるのだが。
 老後は子や孫に囲まれて暮らすのが幸せという老後観は急速になくなりつつある、と氏はいう。たしかにそうであるが、中国などでは大家族主義で大勢の子や孫などと一緒に暮らすのが最大の幸せなのだそうである。それもまた変わりつつあるのだろうか? それともこれは日本だけのことなのだろうか? 日本では老人を敬う文化が急速に薄れつつある、あるいはもうほとんど消滅してしまったのかもしれない。そうであれば、子や孫に囲まれて暮らしても幸せであるはずはない、というだけのことなのではないだろうか?
 「おかあさん、ひとりになって心細いでしょうし、火の始末とかも心配だから、こちらに来ていっしょに住んだら?」というのは、上野氏によれば“悪魔のささやき”なのだそうである。本書はそういう誘惑をたちきって一人で暮らしなさいということを奨めている。
 憎しみあっていた夫婦でも、夫を亡くして悲嘆にくれている妻がいるのが夫婦の不思議なところなのだそうである。本当だろうか? 「空気のような存在」でも、空気だからなくなれば窒息するというのだが、「空気のような存在」というのはうまくいっている夫婦なのであって、憎しみあっている夫婦同士が「空気のような存在」になるとも思えないけれども。
 さて、「おひとりさまの老後」のための具体的な提言である。
 まず、自分の住まいをもつこと。「家で暮らしたい」と「家族と暮らしたい」は違うという。“家”が「ひとり暮らしの自分の家」であることが大事。建物としての“家”であって、人間関係としての“家=家族”ではない、と。高齢者施設の管理者や責任者にきいても、自分の老後をそこで過ごしたいというひとはほとんどいないのだそうである。やはり自分の家がいい。しかし他の家族との同居ではなく、自分だけの家である、と。
 具体的には自分の住まいをもつのには、夫が先立つのを待てばいい。子どもは少ないし独立する。それは非情だろうか。しかし夫を看とったのである。最近評判の悪い年金の第3号保険者は専業主婦優遇ではなく、「オヤジ(父親ではなく旦那)の看とり保障」ということなのだそうである。オヤジを看とることで正々堂々と夫名義の財産の半分も自分のものとできるのだ、と。それでは、非婚の場合は? 働いていれば自分名義の不動産くらいはありますよね、と。
 次が、安全。「配偶者とは、自分を殺す確率のもっとも高い他人のこと」というアメリカの諺?があるのだそうである。だとすれば、シングルは安全。でもパートナーは危なくないのかな? アメリカはすでにセキュリティを金で買う時代である。日本はまだずっといいが、それでもいずれそうなる。
 最大の問題は、ひとりでいることに耐性があるかどうか?である。それには家族以外の人間関係をつくれることが大事となる。だから仕事命の男はあぶないよ、と。男でも幸せな老後をおくっているひとは、40代から準備をはじめている、と。そのかわり、出世はしていないそうであるが。友人をつくるには努力もいるし、メンテナンスもいる。男が家庭で居場所がなくなるのは、メンテナンスがいらないのが家族と思っているからである、と。耳が痛い。
 上野氏は友人を精神安定剤であると思ってきたのだそうである。グチをこぼし、ぐずれる相手。とすれば、それは職場の外の人間であるしかない。そのためには自分自身がいっしょにいて楽しいひとにならなければいけない。そのための条件は、きちんと相手の話を聞いてコミュニケーションがとれることなのだそうである。説教癖のあるひとはダメなのだ、と。
 上野氏は自分のコミュニケーション能力に絶対の自信をもっているようで、もてない人間というのが信じられないらしい。もてない人間はコミュニケーション能力がないのだといって問題外である。上野氏は欧米風の社交がそれほど苦痛でなくできるひとなのではないかと思う。パーティであるとか。わたくしはそういうのが大の苦手で、そういう場所から一刻も早く立ち去って一人になりたいタイプである。だから友人はできない。でもそれは仕方がないことだと思う。あれもこれもというのは虫がよすぎる話である。上野氏はヴァージニア・ウルフの「私ひとりの部屋」に共感し、しーんとした、だれもいない空間で好きなことに集中できる時間ほど、至福の時間はないという人である。それが社交と両立するのだろうか? それと、上野氏は説教するひとではないのだろうか? うまく聞き役にまわれるひとなのだろうか?
 ITは高齢者にとって福音であるというのは、まったくそのとおりであると思う。わたくしもインターネットができる環境があれば、一人暮らしはこわくないな、と今は思っているのだが・・・。
 ごはんをいっしょに食べる相手は、ベッドをともにする相手と同じくらい、あるいはそれ以上に重要なのだそうである。食事も一人よりもだれかと一緒のほうが豊かな気持ちになれるというのもそのとおりだと思うけれども、わたくしの場合は食事のときに酒があったほうがいい人間なので、お酒は一人で呑むよりも二人で呑んだほうが旨いということが大きいかもしれない。小倉千加子さんが近著で、何がいちばん大切ですか?という谷川俊太郎の質問に「笑う晩ご飯」と答えているのを上野氏が紹介している。とてもよくわかる。
 上野氏は食事は女同士のほうがよく、男はお断りなのだそうである(もっとも、すきなひととさしむかいならいいのだそうであるが)。わたくしはおいしい食事とおいしいお酒を男だけでというのはぞっとしない。女性とのほうがいい。男同士の酒というのはまったく無目的の酒というのはなくて、なにか仕事がらみになることが多いからだろうか。
 シングルが苦手な時間にクリスマスやお正月がある。ということで、上野氏は大晦日はシングル男女4人で、年越し蕎麦とシャンパンのパーティを、新年会はシングル女性ばかりでやっているのだそうである。この新年会というのがとんでもないもので、「失楽園」(渡辺淳一のほう)にちなんで鴨とクレソンの鍋(「失楽園なべ」)とワイン(シャトウマルゴーは最初だけだったそうだが)でテーブルを囲むのだそうである。そういうときのために各種パートナーの在庫を用途別に確保しておくのがおひとりさまの心得である、などとしゃーしゃーと書いている。こういうところが上野氏のいやみなところで、わたしもてますわよ、という自慢である。
 さて、だんだん難しい方向の話になる。孤独を癒すのは「あなたが孤独であることを、同じように孤独であるわたしが、理解はできないが、知っている」というメッセージなのだそうである。孤独は避けるのではなくて、それとのつきあいかたを考えるべきである、と。さみしいときは、さみしいと言える相手をちゃんと調達しておけ、と。
 男は(女と同じに)弱い生きものなのに、弱さを認めることができないかわいそうな生きものである、と。そうだろうか? 男でも女でも、生きていろいろと経験をしてくると、弱さを認めることが当たり前にできるようになるのではないだろうか? なんかこのあたり上野氏の偏見、あるいは世の中の一般論によりそった女性読者への媚のような気がする。
 吉田健一は友人の苦境というはただ見て見ぬふりをしてあげるしかないという。本当の苦境というのは自分で乗り切るしかなくて、友人でも何もしてあげられることはないという。このほうがずっと男らしいなどといえば、社会のステレオタイプの男性観に毒されていると上野氏はいうであろうが。
 本書で紹介されている東京都監察医務院に勤める小島原さんという方の講演がなかなか面白かった。この方も相当変わったひとのようで、「孤独を恐れるな。経験を重ねてきた老人は誰でも何がしかは個性的なのだから、自分のために生きると決めた以上は世の目は気にするな」といい、ニーチェの「ツアラツストラ」を聴衆に薦めたりする。上野氏もいうように「わかるひとにはわかる、わからないひとにはなにを言ってもわからない」というニーチェ流の孤高のニヒリズムをもつひとなのであろう。このあたりを読んでいて、柴田博氏の「中高年健康常識を疑う」の「孤独死する老人は英雄だ」を思い出した( id:jmiyaza:20040106 )。ここでも子どもとの同居がかならずしもハッピィではないことがいわれている。柴田氏は情緒的自立という。身体機能が一人ぐらしできるというだけではなく、精神的に子どもに依存しないでいられるという側面である。わたしが外来をしていても、「一人暮らしの不安」を訴える高齢のかたは多い。一緒に娘さんがついて来ているのだが、普段は一人暮らしのようで、外来に来るときだけ娘さんが同伴。その娘さんのほうをちらちら見て、「調子が悪くなると一人でいるのが不安で不安で!」という。身体的には自立しているのだが、精神的には依存しているのである。
 ちょっと意外だったのは、上野氏がバッハのファンだから、マタイかヨハネの受難曲で音楽葬をしてほしいなどと書いていることである。バッハというのも意外だが(古典派志向のひととは思えなかったので)、葬儀なんかするな、といいそうなタイプに思えていたのだが。案外と即物的でない情緒的なところもあるひとなのだろうか? 上野氏らが鶴見俊輔に聞く「戦争が残したもの 鶴見俊輔に戦後世代が聞く」( id:jmiyaza:20040516 )で上野氏が意外と?気配りのひとであるところがでていて、意外に思った記憶がある。 「受難曲はキリスト教由来だが、このくらいのアバウトさは日本人の特権でゆるしてもらえるだろう」というのはいいとしても、受難曲は歌詞が入るわけである。「いつかわたしが世を去るとき、主よ! 自分のそばから離れないでください。わたしが死とむかいあうとき、あなたはわたしを守ってください」などというのが流れてもいいのだろうか? そんな気弱な人ではないと思うのだが。せめてモツアルトの「フリーメイソンのための葬送音楽」くらいのほうがいいのではないだろうか? これも異常な音楽であり耶蘇でもあるけれども、歌詞はない。などというのは余計なお世話であるが、こういうところに西欧派知識人としての上野氏の素顔がちらちらとのぞいているように思う。だから理学療法士三好春樹氏(このひとの「介護覚え書き」は看護師さん必読の書。もちろんナイチンゲールの「看護覚え書」のもじり)が、個室主体のケアを批判し、「だから近代人はどうしようもない、ヨーロッパのまねばっかりして」といっているのに、かなりマジで、「ンなこといったって、いまさらしかたがない。日本が近代化してからもう100年以上たつのだし」と唇をとんがらかして怒っている。
 上野氏は、介護はする側だけでなく、される側にもさまざまなノウハウがいるとして「心得10カ条」というのを示しているのだが、最後に、これは結局コミュニケーションの基本をしめしただけではないかともいっている。上野氏は欧米流の強い個人なのだと思う。自分の世界があり、他人の世界を尊重でき、相互に干渉せず、相手に踏みこまない範囲での社交とコミュニケーションをおこなう、そういうことができるひとなのであろう。本の最後にでてくる氏の経歴をみれば、女性でフェミニズムという男社会にたてつく学問をやって現在にたどりつくまでに、どれほどの苦労をしたかというのは想像を絶するものがあることがうかがわれる。それを乗り越えてこられるだけの強さをもったひとなのである。
 そして、フェミニズムというのも根本のところでは、女性に強い個人になれと呼びかけるものであったのだろうと思う。結局のところフェミニズムが衰退したのは、強い個人になるというのが、多くの女性にとって、とんでもなく疲れるわりに収穫の乏しい割りにあわないものであったからなのだと思う。
 上野氏が自分はこう生きる!とするのはよい。しかし、すべての女性はこう生きるべし、としたのは余計なお世話であるだけでなく、相当多くの女性に現実的な不幸をあたえたかもしれない。もちろん、いいことがあれば悪いことも当然ともなう。しかし自尊の念をえるかわりに現実生活での損失をともなうことに満足できる、あるいは満足すべきと思えるのは、知識社会に生きるひとだけかもしれない。強い個人になれるひとはそうは多くはないのである。それはかつて丸山真男氏がいっていた「市民」というのも同じであったのかもしれない。
 そして、本書で上野氏がいっている女性の老後はかくあるべしというのも誰にでもできることではなく、強い個人になれるひと、すなわち孤独も自分の才覚でやりすごすことのできるひとにしかできないことであるように思う。上野氏の病は、いつでも誰かを指導したい、導きたいというものであるかもしれない。知識人というのはみなそういう病をもつものなのであろうか?
 ゲイやレズビアンは老後の暮らしを真剣に考えているのだそうである。将来、「子どもに頼れない老後」がくるわけであるから、切実なのであろう。しかも、かれらは日本ではマイノリティである。そして上野氏のような自立した強い個人というのも日本ではマイノリティなのである。
 マイノリティがマジョリティに自分の規範を押しつけようというのは、上野氏も嫌うであろうパターナリズムなのではないだろうか? 本書で氏は、筋萎縮性側索硬化症患者が人工呼吸器をつけて延命するかどうかを自己決定するというはおかしいということを書いている。近視になったときに眼鏡をかけるかどうかの自己決定などということはないのに、と。しかし、これはとてもそんな単純な議論ではつくせない問題であり、たとえば進行がんでの治療法の選択と同じ根を持つ問題なのだと思う。以前は、医者は最善と思う治療法を何も患者さんの側とは相談せずに独断で決定していた。現在では患者さんの側が選択をするようになっている。何が正しいかを知っているひとがいて、それに皆がしたがうべきということは少なくとも自明ではなくなってきているわけである。社会構築主義というのは科学の自明性をうたがう思想の最先端であるのだし、上野氏もまたその立場にいるひとであると思うのだが。ここらを読んでいると、上野氏は「楢山節考」の世界とは絶対に対立する側のひとなのであり、近代の側の人なのだということを痛感する。
 上野氏が老後の問題を真剣に考えるのは、自分がマイノリティの側にいるという自覚があるからなのであろう。社会はマジョリティのために制度をつくるのだから。わたくしもまた自分が日本のマイノリティであることを痛感しているので、老後の問題を真剣に考えなくてはいけないのだけれども、老後といったことに準備できるという発想自体にどこか疑問を感じているところがあって、今ひとつ真剣になれない。一寸先は闇なのだから、なるようにしかならない、準備なんかしても仕方がないとも思う。あとはそうなったときの覚悟の問題だけであると思うのだが、その覚悟がなかなか・・・。監察医務院の小島原さんではないが、「自分のために生きると決めた以上は世の目は気にするな」であって、こんなにしたいことを勝手放題にしているのだから、安楽な老後などというのを期待するのは虫が良すぎるのはないかと思う。上野氏だってしたいことをしていいたいことをいってきたのだからも、それにもかかわらず思い通りに老後をというのは、いささか世の中を甘く見すぎている気がしないでもない。

おひとりさまの老後

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