仲正昌樹「思想の死相 知の巨人は死をどう見つめていたのか」

  双風舎 2007年8月
  
 駄洒落みたいなあまり趣味のよくないタイトルだと思うけれでも、著者の案ではなく版元の編集者の発案なのだそうである。仲正氏が前に出した「デリダの遺言」という本があり、その副題が「『生き生き』とした言葉を語る死者たちへ」となっているのだそうで、それを継続・深化させたものとしてこのタイトルができたということらしい。
 「デリダの遺言」を読んでいないのがいけないのかもしれないが、本書が『生き生き』批判であるということはわかるとしても、その『生き生き』というのがどういうことを指すのかがよくわからない。とすると本書をぜんぜん理解できていないということになるのかもしれないのだが。
 氏は、かねてから、「生き生きしたもの」を書物の中で「再現」するという無理なことを試みるバカな人たちが“現代思想”業界に多いことを指摘し、それは不毛であると言い切ってきた、のだそうである。かりにあるものが“生き生き”してたとしても、それを文字で再現してしまった時点で、もはや「生き生き」していないはずであり、文字にするということは、“生き生きしたもの”をいったん殺してしまうことであり、それをわからない者は本を書くべきではないし、読むべきではない、のだそうである。
 本当に“生き生き”したいのなら、本など書かずにお祭りをしろ、と。文字によって書き連らねられる哲学・思想というのは“死んだもの”であり、それが「死んでいる」という自覚がなければ、哲学・思想ははじまらない―、ということは仲正氏ではなく、デリダなどの「現代思想」の旗手たちがいってきたことなのだそうである。
 しかし、デリダがいったというのはデリダがいったというだけのことであり、ただの事実で、それで証明終わりにはならない。そもそもデリダというのは何をいっているのかわからないことで有名な人なのだそうである。デリダがそういっていると仲正氏は解釈するというのが実態に近いのかもしれない。別に虎の威を借りるのは悪いことではないけれども、デリダが威を借りるに値する虎であるのかどうかはよくわからない。
 著者は、自分が「死にかけている」ことに気づかないおろかな“生き生き”くんたちに、「おまえは死んでいる」と宣告しているのだそうである。さて、小室直樹氏の「痛快!憲法学」(集英社インターナショナル 2001年)にはところどころに漫画(劇画?)が挿入されている。挿画「北斗の拳」とあるから、出典はそこなのだろうが、その世界にうといわたくしはそれがどんな作品なのかは見当がつかない。いまネットで調べてみたら主人公はケンシロウといって殺人拳の使い手らしい。冒頭のページで、こわい顔をしたお兄さんが「おまえはすでに死んでいる!!」といっている。かれの殺法は内部を破壊するのだそうで、外部に傷がないのでやられたほうがやられたと気がつかないため、それで「おまえはすでに死んでいる」ということになるらしい。これはその世界では有名な台詞なのだろうと思う。「おまえは死んでいる」というので、それを思い出した。たぶん関係ないのだろうけれども。
 それでわたくしにわからないのが、ここで批判されているのが、“生き生き”をめざす思想なのか?“生き生き”を表現しようと試みることなのか?、なのである。当然上記の文の論旨からは後者であるように思えるのだが、読んでいくとそうとも思えなくなってくる。どうしても前者としか思えない記述がたくさんある。というか、いいたいことは“生き生き”をめざす思想の批判としか思えない。
 仲正氏はマルクス主義やナチズムを生んだのは、“生き生き”思想であるとしているらしい。原始共産制の時代や古代ゲルマン的共同体では民衆は生き生きと暮らしていたという思い込みがマルクス主義やナチズムを生んだということらしい。しかし、これらはもとをたどれば、キリスト教的終末観によるエデンの園にいきつくのであろうから、「聖書」に書いてあることは神話であって事実ではないということで、それらは排除できそうにも思われる。だが、やっかいなのは、もうひとつの“生き生き”の源泉として古代ギリシャも想定されていることである。古代ギリシャキリスト教に汚染されていない世界なのだから、キリスト教的終末論を否定しても、古代ギリシャは残ってしまうということになる。太古=自然=母胎であるとかフュシスがどうとかは、少なくともそれが歴史的事実であるかどうかについての議論はある程度は可能である。そしてそのようなものは空想の中にしか存在しないということは、全員を納得させることはできないにしろ、かなりの人には了解させることができるのではないかと思う。しかし古代ギリシャ人のほうがわれわれより“生き生き”していたかというような論は、神話の話ではなく歴史上のひとたちの話なのだから、人間はどのように生きることが望ましいのかということを先に議論することなしには意味がない議論になってしまう。“生き生き”というのが人間として望ましい生き方ということとほとんど同義となってしまうからである。
 たとえば、本書でとりあげられているアーレントによれば、自由な議論をできる人間がまともな人間であり、それができないものは動物と同じである。アーレントによれれば、自由な議論をする能力は人間であれば誰にでもあたえられているのではない。仲正氏はアーレントのいう自由に議論できる能力をもった人間を、それゆえに“生き生き”していて、ファシズムに道をひらくなどとはいわないであろう。仲正氏はそうではなく、人間には誰にでも平等に自由に議論できる能力があたえられているとするような根拠のない主張が、ファシズムを導入してくるとする。だからアーレントの大衆民主主義への疑念への共感を仲正氏は隠そうとしない。一方、氏はナチズムやマルクス主義も否定する。そうするとどのような政治体制を氏が望ましいとしているのかがよくわからない。一部有能な知識人による貴族政治なのだろうか?
 本書での“生き生き”という言葉の使いかたはあまりにも曖昧で、自分が嫌いな思考法を“生き生き”思想といっているだけと思えなくもない。それならむかしの「アカ」と大差ない発想の思考停止である。
 本書の最後に「衰退しつつある現在思想を“再生”するために」−あとがきに代えて−、という文がある。すごいタイトルだけれども、仲正氏の主張の要約になっているので、まずそこを見てみる。
1)ニーチェは「神は死んだ!神は死んだままだ!それも、私たちが神を殺したのだ!」といった。近代思想は「宇宙の創造主であると共に管理者である「神」を放逐してしまったので、「人間」自身を、自分自身と世界の主人(=主体)の位置へと押し上げた。近代の「人間」たちは、ある意味、「死んだままの神」にとって替わることを試みてきた。
2)しかし、人間は死すべきものである。一方、「神」と「魂の不死」という観念がなければ、責任や倫理という観念は成立しなくなる(カント)。
3)したがって近代思想・哲学は、「神」の存在を、いま一度証明しようと試みた。
4)しかし「私」自身が死とともにこの宇宙から完全に消滅してしまうのであれば、何をやっても「無意味」である(ニーチェの最大のテーマである「ニヒリズム」)。
5)さらに「精神分析」が「私」は「私」自身の真の主人公ではなく、「内なる他者」である「無意識」に操られていることを示した。
6)構造主義は、「私」の思考のパターンは、不可視の「構造」によってあらかじめ規定されているとした。
7)そのようにして、「私」たちの「主体」性に対する自信と信頼は最終的に失われてしまった(フーコーの「人間の死」)。
8)「神を殺す」ことで自由になったはずの人間は、自由どころか、自分自身の「死」のという危機に直面することになった。
9)全体主義ユートピア運動は、不完全かつ不安定でありつねに死の恐怖にさらされている存在である人間が“理想”どおりに生きることを純粋主義的(こういう言葉があるのだろうか?)に要求すれば、相互に殺し合うしかなくなることを明らかにした。
10)ポストモダン思想は、a)神の殺害者である「人間」は「死」にひんしている、それにもかかわらず、b)それを認めようとせず悪あがきすることは悲劇をもたらす、という二つの認識から出発した。
 さてここからが意味不明なのであるが、おそらくその《悪あがきすることがもたらす悲劇》の説明である。
 「他者」によって与えられた言語・記号体系の中に産み落とされた“私”は自分を自律的に支配する完全な“主体”にはなれず、「内なる他者」におびやかされている。「私」が目の前に“生き生き”と思い浮かべる“理想の世界”は、死んだ文字の集積体であるエクリチュールの中に書き込まれたコードにしたがって「再現前化=表象」された幻影に過ぎない(なんのこっちゃ?)。
 「私」が他者の言語を語る「私」である限り、「私」はエクリチュールの「外」に出て、いかなる記号的な媒介も受けていない純粋な“生のもの”に触れることはできない(???)。
 “生のもの”に触れることができるとすれば、それは、エクリチュールによって生み出された「私」が、エクリチュールの拘束から解き放たれ。「無」に回帰する瞬間においてのことだろう(死なないとわからないということ? 超言語的な思考をせよということ?)。
 「人間」は言語の限界=境界線の向こう側にはいけない(これは人間は言葉を使って考えるということを言っているだけでは?)。わたしたちは、エクリチュールに限定された空間の中で、「死」の瞬間までほそぼそと、不安にさいなまれながら生きていくしかない(「いくしかない」といわずに「いくべきである」とか、「いかなければならない」とはいえないのだろうか? そうするとここの文意はまったくかわってしまうはずである。ついでにいえば「ほそぼそと」などというわずに、「自分にできることを」ではいけないのだろうか? 「不安にさいなまれながら」ではなく「自分のきめたことはほかの誰にも責任を負わせることなく」ではいけないのであろうか? 「わたしたちは、人間の限界の中で、「死」の瞬間まで、自分に可能なことを、だれに責任を負わせることなく、自分で決めて生きていかねればならない」ではいけないのだろうか?)。
 さらに氏はいう。“私”たちに、永遠の命を約束してくれているかのように見える「真実の世界」に至る道にこだわっていると、ますます“不自由”になる(永遠の命などというのは単に生物学的にだけ考察しても嘘なのだから、そういう「真実であるはずのない世界」を思って無駄に時間を費やすのではなく、「怪力乱神」を語る与太話は敬して遠ざけて、自由に生きるべきである、ではいけないのだろうか?)。
 しかし、そういうようなことをポストモダン思想が証明してしまったにもかかわらず、それを身も蓋もない話としてみとめたくない人たちは、エクリチュールの「外部」に“生き生き”したものに直に触れたがる。あるいは触れることができたぞというようなパフォーマンスをする(したいひとは勝手にさせておけばいいのでは? スピリチュアルにはまるような人を根絶することはできないのである)。
 しかし、「人間」の「有限性」を受け入れ、人間の力ではいかんともしがたい「限界」の中で思考しようとする思想・哲学は、そういう“生き生き幻想”から距離を取るべきである(といっても、それが無理なことは、哲学史そのものが証明しているのではないだろうか? 以前にはしょうがなかったが、ポストモダン以降は駄目ということなのだろうか?)。
 エクリチュールの外にでようとすることはわれわれをさらに不自由にするだけなのだ(ここの議論が一番わからない。仲正氏の議論によれば、人間は絶対にエクリチュールの外にはでられないのである。出ようという発想もまたエクリチュールの中のことであるといのがエクリチュールの定義なのだから。仏教での悟脱とか不立文字とかそういう方向の話ではないはずである。しかし、問題は仲正氏の定義にある。エクリチュールの定義を変えてしまえば、ここでの氏の議論は成立しないことになる。つまり、ここで氏がしているエクリチュールの定義を読者が受けいれることが、氏の議論の前提となっている。そしてその定義はデリダに由来し、デリダの用語法は通常のエクリチュールとはかなり異なっていることを仲正氏はみとめるのであるから、ここでの議論が一般的なものとして成立するとはとても思えない。上の引用でもわかるように議論はエクリチュールのオンパレードである。たとえば、このエクリチュールを文化と置き換えてみる。もちろん、置き換えられないのではあろうが、人間は固有の文化の中に生まれてくる、としたのでは当たり前すぎる。そしてこのエクリチュールにはチョムスキーの普遍文法を連想させるような要素もはいっているようで、さらには構造主義の構造もあるのかもしれないから、人間は生得的の脳構造と偶然生まれついた文化に規定されてがんじがらめになっている。それを素直にみとめろ、悪あがきするな、ということになる)。
 さんざん茶々をいれて申し訳ないけれども、こういう説明で結局何をいいたいのかがよくわからない。言語が流通するためには他人の言葉、すでに流通している言葉を用いるしかない、というのは当然の話である。人間が言葉をもつことによって、人間以外の動物とは異なり直に外界に触れることができなくなった不幸な動物である、というような方向の話であるような気もする(丸山圭三郎氏の「ホモ・デメンンス」というような)。人間以外の動物は言葉によって世界を認識しないのだから、“生のもの”に触れることができているということなのだろうか?(ユキュスクル「生物からみた世界」がそういっているということはないと思うのだが?) 結局、“生のもの”というのが何を指すかである。カントの物自体のようなものなのだろうか? 仲正氏はわかっているのであろうが、読者には通じないのではないかと思う。あるいはこういう暗号めいた文章がなんとなく通じる読者にだけ、仲正氏は書いているののだと思う。こういう「 」や“ ”が多用された文章では、「私」は普通の私でではなく、「死」は普通の死でないので、その「私」や「死」に独自の意味を読み込めるひとにしか、氏が書く文章は通じないことになる。それは詩であるのかもしれないが、散文ではない。氏が批判する“生き生き”派は、文章を散文としてではなく、詩として書くひとのことをいっているのではないかという気がしないでもない。そうだとすれば、仲正氏もまた“生き生き”派ということになってしまうようにも思うのだが。
 わたくしがここらをさっぱり理解できないのは、本書で《“生き生き”派の脊髄君や反射君》と揶揄されているひとたちの著作をまったく読んでいなためなのだと思う。脊髄君であり、反射君なのであるから、何も考えずに脳で理性をはたらかせず、感性だけで?書いているということなのであろう。そういう人たちに応答していると、こういう文章になってしまうのであろうか?
 “生き生き”思潮の方面にうとい、わたくしのような人間が、先入観なしに“生き生き”派というような言葉をきくと、まず思い浮かべるのがD・H・ロレンスである。ロレンスはいうまでもなく、ニーチェ直系である。仲正氏のいう「生き生き病」の典型なのだろうと思う。しかし氏がここで述べているニーチェ解釈は、福田恒存が展開したロレンス論でとっくに先取りされているのではないだろうか? ニーチェのような境地になればひとり山に篭ってひとり涅槃に入るしかないのに、なぜ人に法を説くのかという問題である。

 ロレンスはいふ―もしきみがだれかを愛するならば、手をひけ、と。孤独になり、山に入り、他人に向つて福音を説くな、自己にも掟を課するな、さうすればきみはきみの涅槃を得るであらう、と。
 が、さういふロレンスは最後まで福音を説きつゞけ、自分に掟を課さずにゐられなかつた男だ。愛も救ひもけつきよくは自他を傷つけるに終るだけだといひながら、なお愛し救はうとした。かれは堪へてゐたのだ―死と、のちの世のことを考へたときのみ、わづかに愛さうとして愛しえぬ焦燥感から救はれるといつてゐる。悲しい男じやないか。人間はこんなにも不幸になりうるのだらうか。ぼくはまつぴらだ。人間が不幸であるといふのは罪悪だと思つてゐる。文明のせゐだとかなんだとかいふのぢやない。そんな原因など探してゐるうちは、けつして幸福にはなれないだらう。われわれにとつて必要なのは不幸にたいする羞恥心である。原因を探すやうでは、それが見つかつたら、大手をふつて不幸を自慢にするつもりなんだらう。あゝ、どこまでおめでたい国民か。(「福田恒存評論集2」 新潮社 1966年)

 あるいは、

 花々や野蛮人の生活に同感し得たこと、頭脳で理解するいのはなくいわば肉体の血汐によって共鳴し得たこと、しかもそのような生活には後戻りできないことを承知していたこと、―これがロレンスの二重性であり、ロレンスの悲劇であった。現代文明にたいする彼の挑戦は、その主張が正しいにせよ誤っているにせよ、はじめから結果が分かっているものだった。戦いはロレンスの敗北にきまっているのである。(ロレンス「無意識の幻想」南雲堂 1966年 小川和夫「あとがき」)

 ロレンスは、《かりにあるものが“生き生き”していたとしても、それを文字で再現してしまった時点で、もはや「生き生き」していないはずであり、文字にするということは、“生き生きしたもの”をいったん殺してしまうことであり、それをわからない者は本を書くべきではないし、読むべきではない》などというのは、たわごととして一蹴したであろう、と思う。それならなぜ書くのだ、と。書かずにいられないもの以外は書くな!、と。
 仲正氏の論を読んでいると“生き生き”派は能天気にただもう生き生きしているのだとでもいいたげに思えてしまうのだが、氏はニーチェ自身はひ弱な知識人だったということをみとめる。ロレンスもまた然りであることはいうまでもない。
 小川和夫氏が書いているように、ロレンスはけっして退屈することなく、つねに自分がしていることにどのようなことにでも没頭できた人間だった。われわれとは違う特異な能力をもった人間だったのであり、それゆえにほかのひとにその能力がないことが不思議だったのである。要するに、ロレンスは一流の人間だった。“生き生き”派にもぴんからきりまであるのだと思う。仲正氏は三流の“生き生き”派を相手にしているのではないだろうか?
 そもそも仲正氏のいう“生き生き”派とは唯名論に対する意味での実在論者なのではないだろうか? 文字にするということは、“生き生きしたもの”をいったん殺してしまうことというのはなんだかもってまわった言い方だけれども、結局は唯名論のことなのではないだろうか? 名辞というのはたんなる名辞であって、背後になんらかの実在をもつわけではないということなのではないだろうか? とすれば、ポストモダンデリダだという話ではなく、西洋哲学の非常に古典的な問題に帰着してしまう話なのではないだろうか?
 ところで、「あとがきに代えて」の1)から10)までの論の展開の中で、9)で急にユートピア運動批判が唐突にでてくるのがよくわからない。論旨がつながらないと思う。ユートピア運動の批判はこのような文脈によってではなく、ハイエクがしているような「構成的主知主義」(人知に全幅の信頼をおき、人間の理性によって思うままに社会を構築できるという考え)への批判の方向からなされるべきものなのではないかと思う。人間が死すべきものであるということは、ここでは関係のない話ではないだろうか。「構成的主知主義」というのは「デイヴィッド・ヒューム法哲学と政治哲学」という講演でハイエクが使った言葉なのだそうである。ヒュームの「人知の限界」「理性の限界」という見方を称揚した講演らしい(渡辺昇一「新常識主義のすすめ」文藝春秋 1979年のなかの「不確実性の哲学」による id:jmiyaza:20060502)。人知の限界というのはニーチェフロイト構造主義の前からあるひとつの大きな思想の潮流なのであり(むしろ19世紀の科学への信奉や信仰ができる以前には、主流の、ほとんど月並みな思想だったのかもしれない)、エクリチュールがどうこうというのとは関係なく成立する話なのではないかと思う。
 ラッセルは「西洋哲学史」でこんなことを書いている。「ヒュームとルソーとの間の紛争は象徴的である。ルソーは狂乱していたが影響力をもち、ヒュームは正気であったが信奉者をもたなかった。(中略)ルソーとその信奉者たちは、いかなる信念も理性に基づいていない、というヒュームと意見を同じゅうしたが、心情は理性より優れていると考え、その見解に導かれて、ヒュームがその実践において保持した確信とはきわめて異なる確信をもつにいたった。」
 わたくしは“生き生き”思想というのは、ルソー直系であり、心情は理性より優れているという考えに傾いていると思うのだけれども、「人間」の「有限性」という見方は、心情優先の考えの前では吹き飛ばされてしまうのではないかと思う。だから仲正氏がポストモダン思想の成果をふまえて縷々人間の有限性を説いても、そういう“生き生き”派には通じないのではないのではないかと思う。
 仲正氏はこれだけポストモダン思想も紹介されているというのに、いまだにマルクス主義のぬるま湯版のようなはんちくのユートピア主義みたいなことを唱えている人がいるのに腹をたてて(あるいは、そういう人たちがポストモダン思想までも我田引水で利用しているのに頭にきて)、お前らもっと勉強しろよといいたいのであろう。しかし、ルソーは狂乱していたが影響力をもち、ヒュームは正気であったが信奉者をもたなかった、というのは意味深である。正気が勝つとは限らないのでる。
 問題は理性というものの位置づけなのであろう。“生き生き”派は、“頭脳より心情”派である。だからアンチ理性派となる。とすればアンチ“生き生き”派の仲正氏は、アンチ=アンチ理性派ということだから理性派ということになる。しかし、人間の有限性というのは即、理性の有限性なのであるから、その点から見ると仲正氏はアンチ理性派ということになる。つまり仲正氏は理性に対してダブル・スタンダードをとらざるを得ないわけである。氏の論がえらく錯綜してわかりにくい理由もそこにあるのではないだろうか?
 人知の限界派←→理性派←→心情派
 という三分構図があり、心情派は理性派と対立しているのに、理性派ではない人知の限界派が心情派を攻撃するというのは、なんだか相手が違うということにもなりかねない。
 人知の限界派←→(理性派&心情派)
 (人知の限界派&理性派)←→心情派
 と、対立関係が、場合場合で組み合わせが変わってしまうため、読者は混乱してしまうのである。
 そして、もっとややこしいことに、人知の限界派のさらに左に「カトリック派」というのか「否定神学」というのか、人間の賢しらを批判し、人の驕りを指摘して、偉大なる存在の前での謙虚を説くような思想まで存在している。人知の限界派から「カトリック」側へ転向?し、入信受洗するようなひとは少なからず存在する。
 仲正氏は、「神」と「魂の不死」という観念がなければ、責任や倫理という観念は成立しなくなるというのだが、本当だろうか? 実は仲正氏は一神教の人なのだろうか? もしそうでないとすれば、こういう議論はおかしいでのはないだろうか?
 こういうあたりの氏の議論は、論理だけ頭だけという感じがする。わたくしには腑に落ちない。腑に落ちるということは、頭ではなく体で理解するということである。第一、西洋風の論理以外に論理はないのだろうか?、と思う。また、善というのは追求されなくてはいけないのだろうか? 美しい行為と醜い行為というのではいけないのだろうか?
 「人間、死ねばおわりだ」と思っていると、倫理は消滅するのだろうか? 「私」自身がこの宇宙から完全に消滅するのであれば何をやっても「無意味」なのだろうか? たいていの人間は自分が死んだら自分はこの宇宙から完全に消滅すると思っているのではないかと思うが、そういう人は何をやっても無意味と思っているのだろうか? なんだか、ここらに書かれていることが、いちいちわたくしの実感と違い、腑に落ちないのである。
 吉田健一は「文学の楽み」に「確かにヨオロツパでの生きてゐることに対するそういふ考え方(生きるのは無意味であるいった考え・・引用者)、或はそれに傾いてゐると見られる態度の例は幾つか挙げられるが、それが直ぐに頭に浮ぶのがそれがヨオロツパでは逆説的な印象を与へて目立つ為であることを忘れてはならない。サルトルが余り不景気なことばかり言ふので、それならば何故生きているのだと新聞記者に聞かれた時、自分でも解らないと答へたのは今日の日本でと違つて余りに奇抜なことに思はれたので新聞種になつた」と書いている。
 仲正氏はヨーロッパの中でも日本でも例外的な話ばかりをひろってきているのではないだろうか? というか知識人というのがそもそもヨーロッパでも日本でも例外的な人間ではあるのだが、その中でもことさら変わったひとばかりをとりあげているような気がする。
 この本はなんだかとても閉じている本であるように思う。仲間うちのお互いに顔が見える現代思想業界のひとだけにむけて書かれているような気がする。もっと普通の読者にむかって書くようにしないと、ほんとうに思想は死んでしまうのではないだろうか?
 それから失礼な言い方になるが、もっと自然科学系の本、脳科学系の本を参観すべきではないかと思った。少しでもその方面の知識があれば、こういうことは書かないであろうと思われる部分が散見した。
 というのは穏やかな言い方なので、わたくしにはこういう神が死んだということを議論の前提にする本がダーウィンについて一言も触れていないのが理解できない。神を殺したのはニーチェであるよりはダーウィンであると思うし、もっといえば科学技術の進歩による世俗化なのだと思う。その世俗化の動きのなかで、フロイトは神のいない時代に人間を規定するものを探そうとしたのであろう(ゲイ「神なきユダヤ人」みすず書房 1992年)。
 神を殺したのは思想ではなく科学なのである。ニーチェなしに神は死んだのである。ニーチェは生前それほどの高名であったわけではないから、神が世俗化の過程で死んでいったことが確認されたあとで、その予言が発見されたというだけであろう。マルクスにしても、キリスト教的な終末観を背景にもつにしろ、「科学的」を僭称したことが大きいのだと思う。物質の力だけで世界が変わるとしたわけであるから。ユートピア思想として、人の“生き生き”願望を刺激したから力を得たというのではないと思う。
 問題は世俗化なのであって、世俗化した生はちっとも“生き生き”していないではないかと感じる人間が少なからずいるということである(だから、たとえば愛国心がでてくるし、スピリチュアルなのである)。それがニーチェハイデガー路線ともつながる。フーコーにしても世俗化された社会での人間の不幸を問題にしたのであろう。
 しかし。そんなことをいっているのは思想家だけであって、世俗化が進行すると大衆には思想はいらなくなるのである。大衆民主主義社会では思想の出番は少なくなる一方なのである。そもそも思想のエクリチュールなど誰も読まなくなるのである。いくら大衆にむかって「お前はすでに死んでいる!!」などと言っても、「?」というだけである。仲正氏が本当に問題にすべきなのはそのことであって、仲間内で暗号文書をとばしあって、その解読をしあっている場合ではないかと思うのだが。
 思想書はいっこうに売れないが、江原某氏の本や小林よりのり氏の本は売れている。藤原なんとかさんの品格の本も売れるのである。その読者は反射君や脊髄君であるのかもしれないが、大衆民主主義社会は売れるものなら何でも売るのである。それなのに、ほとんどの人には通じないであろう“生き生き”批判などをしていてもなあ、と思う。
 たとえば村上春樹村上龍の本がある程度は売れていることと“生き生き”というのはどういう風にかかわっているのであろうか? その読者もはやり反射君や脊髄君なのであろうか? その本は理性には訴えず、ただ感性に訴えているだけなのであろうか?

思想の死相―知の巨人は死をどう見つめていたのか

思想の死相―知の巨人は死をどう見つめていたのか