D・デネット「ダーウィンの危険な思想」 その2 第1部「中間からのスタート」


 最初にデネットが、子供の頃、キャンプなどでよく歌ったという歌が紹介されている。

Tell me why the stars do shine,
Tell me why the ivy twines,
Tell me why the sky's so blue,
Then I will tell you just why I love you.

Because God made the stars to shine,
Because God made the ivy twine,
Because God made the sky so blue,
Because God made you,that's why I love you.

 
 デネットはなんていい歌なんだろうという(ドーキンスなら、こんな歌をキャンプで歌わせるから、子供が神さまなどを信じてしまうのだと、抗議するだろうか?)。 それをダーウィンが台なしにしてしまった、そう思われている。しかし、本当に台なしにしたのだろうか? それが本書の主題なのだと。
 デネットによれば、科学者や哲学者がすべて無神論者であるわけではなく、神を信じるものの多くは自分の信仰がダーウインの思想的枠組を共存可能と考えている。また神を信じていないひとにも何か神聖なものはあって、それをかれらは生とか、愛とか、善とか、美とか、人間性などと呼ぶ。両者は《人生には意味があって、善が大切なのだという確信》を共有している。だが、とデネットは問う。それはダーウィニズムに直面しても維持できるのだろうか? ダーウィニズムニヒリズムに通じるのではないだろうか? ダーウィンが正しいのなら、端的に何事にも重要な意味など存在しないことにならないだろうか? この問いから逃げてはならない。逃げることを、われわれのもつ好奇心が許さない。あの歌にもあった「なぜ」である。われわれ人間は真理をもとめるのである。
 まず哲学の歴史の回顧。
 「なぜ」という問いは、無限退行をおこすが、それをとめるために、アリストテレスは「第一動者」としての神という考えを導入した。わたしたちがなぜこうであるのか、それは神の思し召しである、という図式である。神がなぜそう思し召すのかという問いはない。ダーウィンの思想への最大の貢献のひとつは「なぜ」という問いの意味するものを、わたしたちに新しく教えてくれたことにある。
 次にロック。すなわち、はじめに精神ありき、という行きかたである。
 議論は《無から有は生じない》からはじまる。物質から思考は生じない。とすれば、物質の前に思考がなければならない。とすれば、はじめに精神があったとしなければならない。証明終わり。
 次にヒューム。
 近代科学が勃興して以来、科学の側から「あなたの信仰の<科学的>基盤は何ですか」という問いが出されるようになった。これに対するもっとも人気があるのが「デザインからする議論」であった。世界を観察すれば偶然の産物と思えないものがたくさんあるだろう。それならば、それを作ったものが存在するはずだ、という議論である。
 ヒュームは「自然宗教についての対話」でそれについて熟考している。ここでの議論は次のようなものである。「輪郭も形もない何枚かの鉄の切れ端を一緒に放り投げてみよう。それらが、時計になるように自分を組み立てることはあるだろうか?」 ヒュームの議論は試行錯誤をする愚かしい神といった、ほとんどダーウィンを先取りしたともいえるようなところにまでゆく。しかしヒュームは自然に見られるデザインが偶然によって生じるうるということ、つまり空に投げられた鉄片が自然に時計になるということはどのようにしても説明できないと考え、挫折してしまった。(「自然宗教についての対話」は翻訳を以前入手していたが、導入がかったるくて読むのをやめてしまった。今、あわてて読んでいるところ。本当にダーウィン一歩手前である。そこまで思考だけで近づいたわけである。頭のいい人というのはいるものである。)
 さて、ダーウィン
 かれは<種>の起源を説明したかったのである。<種>という考えはすぐに分類という言葉と結びつくが、ダーウィンの時代には、生命形態の時間による変化という発想はなく、すべてものがずっと以前から無時間的にすべてそろっていたとされていたことを忘れてはならない。
 ロックは<実在的>本質と、<唯名的>本質を区別した。<唯名的>本質は恣意的なものであり、誰でもが勝手におこなえる命名である。雪とみぞれはどう違うか? それは<唯名的>な区別である。しかし事物の本質を反映した名前はあるとされたのであり、分類学はいうまでもなく、名前の背後にある本質をさぐる学問であった。すべてが無時間的にそろっていると考えると、分類とその背後にある本質をめぐり、議論はつきずに続いていく。
 しかし、種は永遠不変のものではなく、時間の経過につれて変化してきたとすれば、分類という観念は一変してしまう。これがダーウィンのしたかったことなのである。
 ダーウィン本質主義を転覆させてしまったのだが、今なおそれは十分に理解されていない。もしもダーウィンの考えが正しければ、プラトンイデアは存立できなくなってしまう。
 これが現にあるようであるのはなぜであるのかへのダーウィンのした問いのやりかたを採用すると、それが実に多くの現象、多くの学問にも適用可能であることがすぐにわかってきた。ダーウィンは<アルゴリズム>の力を発見したのである。<アルゴリズム>とはある種の形式的なプロセスであり、それが実地に適応されれば、必ず(論理的には)、ある種の結果を生み出すと期待されるものをいう。たとえば函数。y=3x+1。 xが2なら y は7。3なら10。アルゴリズムの鍵は3つある。1)基質中立性 2)無精神性 3)結果の保証 である。これはコンピュータのアルゴリズムでもあり、進化理論のアルゴリズムでもある。そこには何ら超自然的なものが介入する余地はない。ダーウィニズムについてのさまざまな議論はほとんどが、このアルゴリズムにどの程度の力があるのかをめぐってのものである。
 ダーウィンは中間から出発した。つまり生命の始原と現在の人間のことは述べずに、あらゆる生命形態には親があるというところからスタートしたのである。親には親がいて、その親にもまた親がいて・・・。とするとどこかで共通の祖先にいきつくのではないか?
 ダーウィンは賢明にも、すでに生命が生じている中間段階から始めて、そこにあるプロセスが動き出すと仮定して、いかなる「精神」からの干渉もうけずにそれが進んでいく仕組みを示し、それ以上の主張をしなった。
 しかし、この見方の含意するものはすぐに明らかになり、マルクスはそれを大いに喜んだし、ニーチェは、「神の死」以上の宇宙論的なメッセージをそこに感じていた。ニーチェ実存主義の父なら、ダーウィンはその祖父ともいえる。
 万能酸という空想の産物がある。あらゆるものを溶かしてしまう酸。ダーウィンの思想はこの万能酸なのである。それは生物学への解答として生まれたのだが、宇宙論の問題にも、心理学の問題にも解答をあたえうることによって、外部に流出していく。
 デザインをあらためることが、心を欠いたアルゴリズムによった進化のプロセスによるとしたら、そのプロセスがそもそものはじめから働いていたとしてはいけないのだろうか? またそれが先へ先へと展開して、<自分が自分の原因である>というわれわれの信念をも溶かしていってしまうこともありえる。だからこそ、ダーウィンの思考を、宇宙論、心理学、人間文化、倫理学政治学、宗教などの外部にとどめておきたいという願望はきわめて根づよいものがある。あるものはそれを生物学の内部にとどめようとする。たとえばS・J・グールドのように。
 「その1」で述べたように、ダーウィン以前の(西欧の)世界観の特徴は上から下へという流れである。まず神がいて、そこからすべてが発する。人間は(天使をのぞけば)そのすぐ下にいる。一番下には無あるいはカオス、あるいはロックのいう自動力をもたない物質がいる。
 ロックのヒエラルキーは、神→精神→デザイン→秩序→カオス→無、である。秩序とデザインの違いは? 秩序とは規則性あるいはパターンである。デザインとはある目的のために生かされた秩序のことである。だから太陽系はすばらしい秩序を示すが、何かの目的をもっていない(いるようには見えない)ので、秩序ではあってもデザインではない。一方、眼はデザインである。それは<見るため>にある。
 ダーウィンの説をみとめたとしよう。それはわたしたちの身体にあてはまる。それならば精神にあてはまらないというようなことがあるだろうか? 精神が<第一原因>でないばかりでなく、単に原因でさえなく、結果に過ぎないなどということがあるのだろうか。自然淘汰のプロセスが目的をもっているということはないだろうか? そのプロセスを神がつくったということはないだろうか? 「その1」で述べたクレーンとスカイフックのたとえでいうならば、最初にだけスカイフックが働いたということがないだろうか?
 還元主義という悪口がある。一番流布したイメージでは、社会科学は生物学に、生物学は化学に、化学は物理学に還元されるとするようなものである。これは穏やかな形ではごく当然の主張である。われわれは物理法則に支配されているのであり、ビルの上から跳べば落ちる。「キーツシェリーの分子的観点からの比較」というようなことはばからしいという常識をなくさなければいいのである。
 
 最初にデネットが引用している子供の歌をみて、トマス・ハーディの有名な詩「牛」を思い出した。

 クリスマス前夜、十二時だ。
  「いま、みんな膝まづいているのだよ」
 年寄がそういった。家中が集まって
  炉の火の燃えさしを囲んでいる時。
  
 私どもはおとなしい優しい動物を目に描いた。
  みんな小屋の中の藁の上にいるのだ。
 私どもはただ一人として
  動物が膝まづいているのを疑わなかった。
  
 こんな美しい想像はいま誰もしまい。
  この時世だ。だが私は思う
 誰かがクリスマス前夜に言ったとする
  「さあ、牛が膝まづいているのを見に行こう」
  
 「向うの山かげの淋しい農家の庭だよ
  子供のとき、よく遊んだところさ」
 そしたら私も彼と暗い道を行くかも知れぬ
  本当であってくれと思いながら。
     (「福原麟太郎著作集 5 研究社 1968年)

 
  Hoping it might be so.
 これは大人の詩である。本当ではないことを知っているのだから。この時世には、こんな美しい想像は誰もしないのである。なぜ? 本当のことがわかってしまったから。それなら本当のことなど知らないほうがいいのでは? でもそれはできないのだ。人間には好奇心があるから。人間は真実を知りたがるのだから。それがデネットの答えである。
 こういう議論をしているとすぐに「カラマゾフ」の大審問官がどこからかでてきそうな気がするし、科学的真理などというのはひとつの見方、西欧という一地方でしか通用しない地方文化なのであり普遍的なものではないといった、文化相対主義的・ポストモダン的な方向からの弾丸も飛んできそうである。
 人間には自由とか真理などといった贅沢なものはいらないので、パンだけあたえておけば幸せなのだ、という大審問官の論理は反論しがたいものがある。これはカトリックの陣営においてさえ、聖書に書かれたことなど信じてはいなくて、それにもかかわらず人々の幸せのためにそれが真実であるという演技を必死で続けているのだというとんでもない論さえも想起させるからである。
 デネットが唇をとがらせて神の導きなんか嘘だ!といっても、相手側は、そんなことは百も承知なのだ、だが、そんなことをみんなが知っても幸せにはならないのだがら、自分たちは信仰が真実であるという仮構をまもり続けるのだ、そういって、デネットらの立場を15世紀スペインにあらわたキリストと同じようにあつかうかもしれないのである。「お前のいっていることは嘘だ!」「そんなことは百も承知!」、というのでは議論にはならない。本当はここが一番やっかいな部分なのだと思う。
 しかし、デネットの本を論じてそういう方向の議論をしていたのでは、この本を読む意味はなくなってしまうのだろう。「悪魔に仕える牧師」で、ドーキンスポストモダン憎しを露わにして、ソーカルに拍手を送っているが(「仮面を剥がれたポストモダニズム」・・そこではポストモダニズム・ジェネレーターというのが紹介されている。アルゴリズムがあれば、論文は無限に生産できるということである)、デネットはこの本でみるかぎり、ポストモダン陣営をまともな相手とみなしているようには思えない。
 しかし、ポストモダン説にくらべても、創造神による世界の説明などというのは何十倍に荒唐無稽なのであるから、ポストモダンが無視できるならば、神による説明などは完全に無視してしまえばいいのではないかと、日本にいるわたくしなどは思う。
 一番理解できないのが、ダーウィンのやりかたでうまく説明できないと、それが自動的に神による説明を復活させてしまうとしか思えないような議論のもって行きかたである。「このことについてはダーウィンの見方ではうまく説明できない。これについてはまだ誰からも納得のいく説明は提示されていない」ということがあってもいいのではないかと思うのだが、ダーウィンによる説明/神による説明、というが二者択一であるような前提で議論が進む。
 たとえば、クレーン/スカイフック、である。クレーンで説明できないと、スカイフックが正しいことになる? そうなのだろうか? クレーンというのは何もダーウィン説に限られたものではなくて、要するに超越的な説明を一切ふくまない物理化学生物学的な説明である。端的にいえば科学である。スカイフックとは物理化学生物学だけでは説明きれない何か、+αがあるという行き方である。神秘はある。マジックはある、ということである。科学では説明できないことがある、ということである。
 クレーンで何かが説明できないとしても、まだ説明できない、というだけである。そこから、だからマジックはある、というところに飛躍してしまうのかがわからない。ところで、S・キングは「IT」巻頭の献辞で「子供たちよ、小説とは虚構のなかにある真実のことで、この小説の真実とは、いたって単純だ― 魔法は存在する」といっている(文藝春秋 1991年)。「IT」を読んで面白いとするものは、スカイフックの側なのだろうか? クレーンの側にいても、「IT」を楽しむことができるのだろうか? つまり、ダーウィンの説を受けいれても、神を信じることが可能であるのだろうか?
 クレーンは持ち上げ、スカイフックは引っぱりあげる。どこから引っ張る? 天上から。「永遠に女性的なるものが、わたしを引き上げてくれる」ということである。クレーン説は、天上にだって時間をかければクレーンだけで届くという話である。
 神→精神→デザイン→秩序→カオス→無、という西欧での図式で、ダーウイン以前には、神から発するという上からの説明をしていた。ダーウィンはそれを破壊し、下から説明できるとした。確かにそうであると思うのだが、ダーゥイン以後も、神→精神→デザイン→秩序→カオス→無、という序列は変わっていないのである。これは必ずしもキリスト教に発するものではなく、ギリシャ起源のものもあると思われるが、いずれにしても西欧を規定する見方である。だが、世界のどこでも通用する普遍的なものではない。ダーウィンキリスト教による説明は破壊したのだが、それにもかかわらず、精神を物質の上に置くという序列の感覚、キリスト教的な世界観、価値観は、壊されることなく西欧に残ったのである。
 だから、ダーウィンの説が正しいかどうか。というようなことは本当はどうでもいいのである。本能寺にいるのは、西欧的な価値の序列感覚なのである。もしも、ダーウィン説が正しいとしても、西欧の価値の感覚が無傷で残るならば、ダーウィン説は単なる生物学の問題になってしまう。おそらく日本でおきていることはそういうことなのだと思う。日本人のもつ価値観をダーウィン説がこわすと思うひとはほとどん誰もいないのである。ダーウィン説は万世一系天皇制と両立しないと思うひとはいないのである。
 ところが西欧ではそうはいかない。人間はその他の動物とはまったく違った存在である、なぜならそれは魂を、精神を持っているからという信念が西欧のバックボーンなのである。神を否定して、人間の優位性を保てるか? 保てないと思う人は、ダーウイン説に留保をつける。そしてダーウイン派は、そんなことはありません、ダーウインの説を受けいれても、人間の優位はびくともするものではありません、という。他の動物は地上に拘束されているが(たとえ鳥が空をとべても)、人間は精神をもつことによって天上へのはしごを何段かは上っているのだという見解においては、両者は共通しているのである。
 本書の中で、デネットが一番楽しそうなのは、ヒュームの「自然宗教に関する対話」を論じている部分ではないかと思う。いずれ精読してみるつもりであるが、いまとりあえず読んでみたところでは(法政大学出版局 1975年)、ヒュームがフィロに託していっていることは、<考え続ける>ということなのではないかと思う。神による説明はどこかで考えを止めることを意味する。ヒュームにとって神を持ち出すことは思考の停止なのである(「われわれはどこかで止まらなければならない」というのが理神論者クレアンテスの主張である)。懐疑論者フィロによれば、超越的な説明というのは思考継続の拒否である。すべてを疑いの対象をするならば、神→精神→デザイン→秩序→カオス→無、という序列も当然疑われる。制約から解放されるならば、思考は自由になる。フィロの自由な論を紹介するデネットは、とても楽しそうである。
 自由な思考によって、ヒュームはほとんどダーウィンの論の一歩手前までいった<世界を説明する仮説>を提示している。それは純粋な思考の産物であって、化石の存在といった事物の裏づけは一切ともなわない。しかし思考を停止させないならば、そこまではいきつくことができるわけである。
 科学というのはそういうことなのだと思う。ただ思考を停止させずに考え続けること。つねに疑い続けること。だからここでヒュームのしていることは科学なのである。懐疑論者フィロは、科学者なのである。根っからの科学の人であるデネットはこういう議論がうれしくてしかたがない。そして一方では、考え続けても碌なことはないぞという論もまた根強く存在するわけである。たとえば大審問官である。アリューシャはそれを「そんなのはローマですよ、カトリックの中の一番悪い部分です」というのであるが。
 さらにもう一方では、科学もまた西欧の一地方文化であるというポストモダン派も存在する。最近買ったJ・ホーガンの本(「科学を捨て、神秘へと向かう理性」)でみつけたポストモダン主義の定義は「詩や小説や、聖書のような宗教書さえも、時を超えた真実の表現ではなく、あくまでも文化の産物だ、とする考え。あらゆる文章は、科学論文も含めて、この世について語っているのではなく、他の文書について書いているだけだという」ものである。
 あらゆる西欧哲学はプラトンの書物への脚注なのだそうだから、哲学の歴史は確かに他の文章について書いているだけなのかもしれない。だが、「いくつかの鉄片を姿も形もないままで、一緒に放りなげて、それが時計を構成することがあるか?」というのは事実において検証しうる可能性のある言説である。現在ならば熱力学の第二法則の話であり、エントロピーは減少しうるかという物理学の話であるのかもしれない。何千回、何万回、鉄片を放り投げてもそれは時計にはならないだろう。熱力学の第二法則に反するから。
 しかし、生命というのはエントロピー減少過程であるというのがシュレディンガーの生命についての古典的な定義だったはずである。ヒュームの時代に知られていた物理法則はたかだかニュートンの説だったのだから、重力の働きによって鉄片を時計に変えることは不可能であることになった。
 しかしニュートンの法則も、熱力学の第二法則もともに時をこえた真実の表現であって、他の文書についての説ではないのだというということは、わたくしには論じるまでもないことであるように思われるので、ホーガンのいうように、ポストモダンの思想は、「言語と知識の限界について深い疑問を呈している」点においてわれわれに示唆するところが大きいものであるとしても、ポストモダン主義者は「コメディアンのようなもので、気の利いたジョークをいって笑いをさそい、次に、そのジョークのくだらなさをあげつらって新たな笑いをさそい、終わりのない言葉の組み合わせゲームによって延々を笑わせ続けるのだ」というような側面もあることも間違いないように思われる。
 外界というものがあり、そこには物質が存在し、その物質はある規則にしたがって動くということは、疑えばどのようにでも疑うことができ、それに対する反論は言葉の組み合わせとしてはどのようにでも可能であるとは思うけれども、それは単なるゲームであって(われわれに自己省察をせまり、認識可能性についての傲慢を警告する意味においてはきわめて有用なゲームであるとしても)、その真偽についてまじめに論じることは、遊びにはなっても、結局は時間の空費にしかならないのだと思う。ソーカルらの「知の欺瞞」が問題にしたのは結局はその辺りのことなのだと思う。科学がその背景に西欧の長い偏見を背負っており、また現在も、あまたある西欧の偏見を正当化することにも寄与していることは間違いはないけれども、それにもかかわらず、そこで見出された法則は普遍性をもつとする議論をしりぞける根拠にはならないのだと思う。
 ラッセルが「西洋哲学史」いうように、ヒュームの懐疑論が正しいとすれば、<個別的な観察から科学的な一般法則に到達しようとするあらゆる試みは誤謬である>ことになる。わたくしの理解によれば、この点に答えようとしたのがポパーの論であり、<個別的な観察から科学的な一般法則に到達しようとするあらゆる試みは、永遠に証明されることなく仮説にとどまるのであるが、ある試みについては、それが正しくないことが事実によって示される>という主張ではないかと考えている。
 ヒュームによれば、懐疑論に発する理性と諸感覚に対する疑惑はわれわれに課されている不治の病なのであり、それに対する治療薬は、不注意と油断の二つだけである。だから読者がヒュームの議論に説得されたと感じたとしても、一時間後には読者は外部世界と内部世界の双方が存在することを納得しているであろうことを信じているという。わたくしが外界が存在し、物質が存在し、そこには法則があるなどということは、まさに不注意と油断の産物なのであろう。しかし、ダーウィンの後にあっては、次のようにいうことも可能であるはずである。あらゆる生物は外界が存在し、そこに何らかの規則性が存在することを<信じる>ことなしには生き残ってくることはできなかった、と。
 外界がもつ規則性にかんする仮説は次々を積み上げられてきている。とすれば、次に問題は、科学があつかいうるのは物質だけなるのかということになる。こころや精神といったものは科学の対象ではありえないという議論にどう答えるかである。そして、そのことが大問題となるのは、こころや精神が、物質などとは比較を絶する高級なものなのだという信念が、あまねく西欧にはいきわたっているからである。
 それは第2部以下で論じられるので、稿をあらためる。
 (本稿におけるドストエフスキーカラマーゾフの兄弟」についての議論は、竹内靖雄氏の「世界名作の経済倫理学」(PHP新書 1997年)に依拠している。引用もそこからのものである。)

自然宗教に関する対話―ヒューム宗教論集 2 (叢書・ウニベルシタス)

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