P・G・ウッドハウス「マリナー氏の冒険譚 P・G・ウッドハウウス選集 3」

    文藝春秋 2007年7月
    
 ここでウッドハウスをとりあげるのは4回目だと思う。国書刊行会からでているのはもっぱら、ジーヴスものばかりだが、文藝春秋社からの選集はジーヴス1巻、エムズワース卿1巻、それとこのマリナー氏1巻である。ジーヴスは有名なキャラクターであるし、エムズワース卿もまた別のキャラクターであるが、マリナー氏ものでは、マリナー氏は単なる語り手である。描かれる世界はジーヴスものと似たりよったりである。
 ウッドハウスの作品は読んでいてなんでこんなに気持ちがいいのだろうか。そこではいろいろなことがおきるのだけれども、それでもなにもおきないのである。すべて世はこともなし、なのである。「片岡に露みちて/揚雲雀なのりいで/蝸牛枝に這ひ/神 そらに知ろしめす/すべて世はこともなし」(ブラウニング 上田敏訳)。秩序の世界。ごちごちのカトリックイーヴリン・ウォーがこよなく愛したのもむべなるかな、という気がする。
 「アーチボルドと無産階級」なんて短編においてさえ事情は変わらない。なにしろ「ところで、社会主義というやつだが、さいきん、ずいぶん話題ですな。流行の先端らしい」というのが書き出しである。このマリナー氏ものはすべて居酒屋での会話が導入になっているのだが、別の客がこたえていわく、「ひょっとすると、社会主義にだってうなずける点はあるのかも。なにし、われわれは聖書のいわゆる『国の脂を食らって』何不自由なく暮らしているのに、一方では半パイントのビールをどう工面しようかと苦しんでいる貧乏人がいるんですから、何かがおかしいんじゃありませんかね」
 前に「ジーヴズの事件簿」のところで述べたように id:jmiyaza:20050709 ウォーはウッドハウスの世界を騎士道的恋愛の理想の世界だといっている。もともと騎士道的恋愛というのが空想の産物なのだから、ウッドハウスが描く世界もいかなる時代の実生活ともかかわりをもたない空想の世界である。だからウッドハウスの世界での社会主義も無産階級も現実とは何のかかわりももたないわけである。ちょうど、ウッドハウスの描く恋愛には一切、性がかかわってこないように。これさえ出てこなければ、ウォーのいうように登場人物がどのような悪徳をおこなおうとも、すべて汚れを知らぬ天国の住人ということになる。
 武士道というのがほとんど空想の産物であるにもかかわらず、われわれ日本人をどこかでとらえているように、騎士道精神といったものもどこかで西洋の人間を深くとらえていているのかもしれない。それでウッドハウスの作品はいつまでも読まれるのかもしれない。そういう観点からみれば日本の小説でいえば藤沢周平氏のものに近いのかもしれない。日本人にとって江戸時代というのは妙に理想化された世界になるようである。
 といってもわたくしは藤沢氏の小説をほとんど何も読んでいない。それは藤沢氏の小説が微妙に湿っているのではないかという予感がするためで、どうも湿った小説というのは好きではない。ウッドハウスの世界は完全に乾いていて、感傷というものが一切ない。それが最大の魅力なのだと思う。無邪気、あるいは清明なんとでもいえるが、原罪の存在しない世界なのである。西洋人にとって罪の意識というのは性欲のことで、お前は罪びとであるといわれてうな垂れるのは、自分の性欲の強さを自覚しているためで、日本人にキリスト教がいっこうにピンとこないのは、性欲が弱いためなのだというようなことをいっていたのは三島由紀夫だったような気がする。それで世界から性の問題を抜いてしまえば、見事に清澄な世界が出現してくるわけである。