D・デネット「ダーウィンの危険な思想」 その4「第3部」心、意味、数学、そして徳性


 最初がドーキンスの有名な「ミーム」である。わたくしは「ミーム」という概念は文化の伝播ということを生命体の進化との比喩でうまく説明したものだと単純に理解していたのだが、ここのでデネットの説明によれば、その含意はもっとつよく、ドーキンスが進化の主役は生命体ではなく遺伝子であるとしたように、文化の進化の主体も人間ではなく「ミーム」自体にあるということのようである。人間が文化を広めるのではなく、文化自体が自分がひろめるために人間を利用する(学者とは、蔵書がいま一つの蔵書を作り出していくときの一つの道筋にすぎない、という比喩が紹介されている)。そうだとすれば、「ミーム」という概念は、非常に理解しにくい「利己的な遺伝子」という考え方を、人間と文化の例を用いてわかりやすく説明しているものでもあるかもしれない。
 人間は自分の意思で人間となったのではなく、ある動物に「ミーム」が感染したことによって人間となったのである。これはデカルト的な「考える力のないけだもの」と「精神や文化」をもつ人間という峻別を鋭く対立する。デカルト的な見方は無時間的なものであり、人間と人間以外の動物は永遠に区別されている。一方、「ミーム」という見方は、種の区分というのが分化がおききつつある点にまでさかのぼってみるとつねに曖昧であるように、「ミーム」が発生した時点というのもまた曖昧であり、人間と人間以外の動物の区分も、現在ではどのようにそれが違ってみえようとも、分離が生じつつあって時点においては連続的で曖昧なものであったということを意味する。デカルトの「精神」はスカイフックである。「ミーム」はクレーンである。
 進化がおきるための条件は、1)変異〔多様性〕、2)遺伝〔自己複製〕、 3)「適応度」の差、の3つが存在することである。
 植物が酸素を用意するまで動物の出番がなかったように、地上にホモ・サピエンスが出現するまで、「ミーム」には出番がなかった。「ミーム」の概念がきらわれるのは、人間が自分は自分の主人公であると信じていたいからである。自分が単なる遺伝子の乗り物であるとは信じたくないように。
 「ミーム」は「利己的遺伝子」と対立しうる側面をもつ。たとえば、子供をつくらないという選択をする「ミーム」。
 心が脳であるはずはなく、心は<どこか>に脳とは別のところにあるのであり、科学の理解をこえた方法で文化を変容させるというデカルト的二元論も、まだ強力なものとして存在している。
 心は脳なのであり、脳は物理化学的法則が支配する場であるが、それにもかかわらず、心は科学的分析をよせつけない方法で働いているとするものもある。たとえばチョムスキーである。つまりこれは、脳自体がスカイフックなのだ、という主張である。
 議論は言語が人間と人間以外の動物を根源的にわける、絶対的な基準になりうるかというところに帰着する。わたしたちの理解力は他の動物を絶してすぐれているようにみえるけれども、もしわれわれが文化の産物をなんら伝達できず、生まれたときから一からまた学ばなければいけないとすれば、われわれの能力とチンパンジーの能力にはとりたてて差はないはずである。
 チョムスキーは言語が生得的なものであることを主張する。しかし、それにもかかわずそれは自然淘汰の産物ではないとする。言語器官は神秘なものであるか、そうでなければ自然淘汰を超越した前途有望な怪物として出現したのである。言語は進化したのではなく、突然あらわれた説明不能ななにか、あるいは人間の脳の拡大の副産物なのである。この見解をグールドもまた支持している。チョムスキーによれば言語器官を説明するのは物理学なのである。
 大分以前に、はじめてチョムスキー生成文法理論を知ったときに、とてもびっくりするとともに、そういうことを可能にする脳の構造の進化をどのように説明するのだろうかと思ったのを覚えている。なにしろ人間の脳には生得的に言語を可能にするような構造がくみこまれていて、そこにフランス語が現れればフランス語を、日本語が現れれば日本語を話せるようになるというのである。それはきわめて抽象的な構造でありしかも実際の環境に柔軟に反応するのである。さまざまな言語で入力されてもそれにつねに対応できるコンピュータプログラムというようなものを、作れというような話である。
 そういうきわめて複雑な神経配線がどうやって進化できたのだろうか? 本書ではじめて知ったのであるが、それをチョムスキーは進化の産物、少なくともダーウィン的進化の産物であるとはしていないようなのである。拍子抜けであるが、同時に、これをダーウィン的進化の産物として説明することは、きわめて困難な課題として現在でも残っていることを感じる。
 養老孟司氏の最初の本ではないかと思う「ヒトの見方」(筑摩書房 1985年)に「剰余とアナロジー」という文がある。そこに「ヒトに生じた特有の剰余は中枢神経系であり、それもいわゆる新皮質のみである」とある。最初読んだときは、なるほどと思ったのであるが、今からおもえばトンデモな話である。中枢神経系というとてつもなくエネルギーを消費する構造が意味もなく存在していたのでは、生き残れるはずはない。最初から機能をもっていたはずなのであるから、剰余であるはずはない。養老さんはこうもいっている。「生物の構造が示す剰余の問題は、生物学では従来ほとんど全く無視されてきた。したがって脳に剰余が生じた理由は明らかにされていない。もし適応という観念を重視すれば、剰余はただの余りであり、節約の対象にしかならない。所詮本質的には不要なものとされてきた。ところが、その剰余が、進化における根本的ないくつかの段階を生み出してきたのである。」 適応ということですべてを説明しようというのがダーウィン進化論の肝である。とすると、ここではダーウィン説は否定されているのであろうか? しかし進化ということ自体が肯定されていることは文からも明らかである。とするとダーウィン的な説明でない進化がここでは想定されているのであろうか? ここでの剰余というのはいかにも飛躍を連想させる。連続性を否定しているようである。前途有望な怪物がいきなり出現したとでもいうようである。
 適応では説明できないものがあるのだから、適応だけで生物をすべて説明しようというのは無理なのだぞ、ということは生物は生物学だけでは説明できないのだぞ、ということになる。なんだかスカイフックである。神秘はある、マジックは残る、ということなのであろうか。チョムスキーのいっていることもそういう方向なのであろうと思う。
 前回とりあげたモノーの議論によれば、こういう議論は科学の議論ではないということになる。ただそれだけである。モノーは「生気論が生きのびるためには、生物学の内面に本格的な逆説とは言わぬまでも、すくなくと何らかの《神秘さ》が残っている必要がある。分子生物学の最近二十年間の発達によって、神秘の領域は著しくせばまってしまい、生気論者が何か推測できる広く開かれた領域としては、もはや主観性―すなわち意識自体ーの分野以外にはほとんど残されていない。この領域はさしあたり依然として《保留中》であるが、今日までやられてきたすべての領域におけると同様、この領域においても生気論的推測はやはり不毛のものであることが判明するであろう。そういっても、たいしたまちがいにはならないと思う」ともいっている。
 言語とか意識とかはモノーの本からすでに20年以上たっても、まだ保留中のままなのであろう。しかし、かつて保留中であった領域が次々に科学としての生物学で説明可能になってきたのだから、いづれ説明可能となる可能性は残されいるわけである。説明不能であることが証明されたわけではない。しかし、神秘を残したいひとはいるわけである。そして、神秘などどこにもないと信じたいひともまたいるわけである。
 次にゲーデル不完全性定理ゲーデル自身が、不完全定理の意味するものは「人間は機械にできないようなことができるので、人間はただの機械ではないという」ということなのだと思っていたのだという。わたくしは数学がまったくわからない人間であるのでゲーデル不完全性定理についても理解できないが、それがいっているのは論理学は完全なもの足りえないということだと思っているのだが、違うのだろうか? 柄谷行人氏などがゲーデルがわからないと現代思想は理解できないみたいなことをいっているのは、変なことをいっているなと思っていた。論理的に考えるということは人間の思考の一部にすぎないと思っていたので、論理学には綻びがある、ということはそんなに重要なこととも思えなかった。昔からある「すべてのクレタ人は嘘つきであると、あるクレタ人がいった」という変な文。もしそのクレタ人が言っていることが本当なら、すべてのクレタ人が嘘つきではなくなるし、言っていることが嘘であるなら、すべてのクレタ人が嘘つきではないことになるから、そのクレタ人も嘘つきではない、とかいう話。どう考えてもおかしいのは、嘘つきというのはいつでも嘘をいうわけではないわけで、いつも嘘をいっているのであれば、それは嘘にならない。だからすべての人間は嘘つきであるが、その人のいっていることは嘘であることも本当であることもあるというだけだと思う。論理学というのはその程度のものではないかと思うのだが。どうもこういうことからもスカイフックを導入したがる人がいるらしいのである。
 次がペンローズの量子が心をもたらすという話。もともと量子力学についてまったく理解できないので、わたくし自身はなんとも判断できない話であるが、デネットによれば、これまたスカイフックの希求ということになる。
 次が社会生物学。第一号の大物の社会生物学者はホッブス。第2号がニーチェ。第3号がE・O・ウイルソン
 ここで指摘されていることによれば、哺乳類のどんな種でも、そのメンバーが同種の個体殺しをする頻度はアメリカのどんな都市でみられる殺人率よりも数千倍大きいのだという(ローレンツの「攻撃」でいわれていたことは嘘だったのだろうか?)。ホッブスの描く自然状態というのは正しい認識だったのだという。
 ここでデネットは奇妙なことを言い出す。もしも、男女の脳に大きな違いが本当にあったとするならば、そうしたことがらについては、わたしたちはかえって何もしらされないでいた方が、あるいはいい場合もあるだろう、というのである。それらを発見するおそれのある探求はあらかじめこれを禁止しておくのだという言葉を、まじめに考えておく覚悟が必要なのだと。
 しかし、これを、もしも「人間が猿の子孫であるのが本当であるのだとしたならば、そうしたことがらについては、わたしたちはかえって何もしらされないでいた方が、あるいはいい場合もあるだろう。それらを発見するおそれのある探求はあらかじめこれを禁止しておくのだという言葉を、まじめに考えておく覚悟が必要なのだ」と置き換えたらどうなるだろう。デネットは絶対に賛成しないであろう。
 ここにいたってデネットの論理は完全に破綻しているように思う。男女の脳に大きな違いがあることなど当然なのであり、そのことは多数の論文で公然のこととなっている。問題は男女の脳に大きな違いがあることを認めた上で、それからどうするかということなのである。それがないようなふりをすることではない。同様に人間には基本的人権がある、というのはフィクションであることも明白である。God who gave us life gave us liberty at the same time. ということがあってはじめて天賦の人権というような考えは成立する。神の存在を信じることがなくなれば、われわれに無条件で人権などというものを賦与してくれるものはいない。それはわれわれがわれわれ同士の間であると仮定しようという申し合わせをしたことにより生じるものである。
 こういう部分をみると、デネット自身がダーウィンの危険な思想が破壊するものを怖がっているとしか思えない。デネットはまだ生まれたばかりの赤ん坊である進化心理学がすでに大きな説明力を示していることを認めている。デネットがいうのは、そのような進化に負う部分と文化によって規定される部分を現在まだうまく区別することができていない以上、社会生物学的な説明を安易にふりまわすことは危険だということである。でもそのようにいうことは、ほとんどあらゆるスカイフック論者に白旗をかかげることにはならないのだろうか?
 最近の世界陸上というのを見ていたら、走ることにおいて勝つのはほとんどが黒い人であった(跳ぶほうはそうでもないようであったが)。これをみてわかるのは、ある種の肉体的な能力において人種による差があることは明白であるということである。それと、もう一つは国別に争うということの無意味ということである。人種による差を白日のもとにさらすことになるこのような競技会は即時中止すべきだろうか? もちろん、現在ここにみられる差というのは生物学的なものではなく、文化的なものなのかもしれない。しかし、とにかく差はある。それを示すこと自体が問題であろうか?
 
 ドーキンスの「利己的な遺伝子」を読んだのはもうずいぶんと以前のことだが、「ミーム」というのは、人間は死すべきものだが、人間の作ったものは不死でありうる、人間はそのことに慰めを得よ、という話だと思って読んだ。
 ダーウィンの説を受けいれるということは、人間もまた動物であり、人間以外の動物と連続していて、特別なものではない、ということを受けいれるということである。人間もまた死すべきものであり、永遠の魂などといったものはない、というのはそこからの論理的な帰結である。
 もちろん、人間は論理によって説得されることで納得する動物ではない。腑に落ちなければ納得できない。腑に落ちるということは体全体で納得するということで、そこから「頭」と「心」の対立がでてくる。論理で考えるというのは「頭」の作業であり、納得するというのは「心」の作業なのである。つまり「心」とは脳だけの作業ではない。体全体の作業である。あるいは、頭とは中枢神経のみの作業であり、心とは中枢と末梢込みの総合作用である。
 中枢と末梢が込みの環境への反応というのはあらゆる中枢神経をもつ動物がしていることであるはずなのだが、かれらは心を自覚していない。なぜならば中枢神経が発達していないから。しかし人間だけは中枢神経が発達したため、情報がその中でぐるぐる回りをはじめるようになり、それが体から独立した存在であると感じられるようにる。それが心というものを自覚させるようになる。
 そこから心身二元論が生じてくる。なにしろ中枢神経系が自分自身を監視しているのであるから、監視している自分と監視されている自分がわかれる。それなら犬や猫はたんなる自動機械なのであるか? そうでないことは誰でも知っているが(魂などいうものをもっているかどうかは別にしても、刺激に自動的に反応しているのではないことも確かである)、自分は死すべき生きものだとも思っていないようである。もちろん、言葉(抽象的思考)がなければ死というものも存在しないのだが。
 ともかく、ダーウィン説を受けいれるということは、人間が特別のものでなく、心とか言語といったわれわれにとって摩訶不思議に思えるものも他の動物との連続の上に生じてきたということを受けいれることである。どのようなやりかたで心が生じ、言語が生じたのか、その説明はいまのところまだうまくできていない。あるいはこれからずっとできないのかもしれない。
 あるいは、意味とか倫理とか道徳とかはすべて文化の産物であり、ダーウィン説からは一切説明できないのかもしれないが(わたくし自身は、倫理とか道徳とかを必要とする進化的な背景があると思っているけれども)、少なくとも、宗教もまた人間がつくったものであるのだから、宗教が先で人間が後という構造だけは否定しておかないと困ると、わたくしは思っている。
 宗教を作ったのは人間であるとすることは、多くの宗教をその根底から覆してしまうので、宗教の立場からは受けいれがたいものであるかもしれないが(仏教の場合にはそのようなことはないのかもしれない。仏陀はひとがなったものであるから)、それを額面のとおりに受けいれることは考えることを放棄することであり、われわれが持つ知識ともぶつかるのであるから、(わたくしとしては)受けいれがたい。
 問題は、宗教といった権威がする定言命題としての命令として道徳をわれわれに課すのでないと、われわれは何をするかわからない獣になってしまうという見方である。これは完全に誤った見方であると思うが、デネットにそうとはなかなか思えないようで、その反論に本書の多くを費やしている(これは自己説得の部分なのかもしれない)。西欧社会で倫理や道徳を主として規定してきたのがキリスト教であるので、それが真空になってしまうことは非常な恐怖のようなのである。
 だからダーウィン説擁護が歯切れがどうしても悪くなる。しかし、日本における進化理論の普及啓蒙者(たとえば長谷川真理子氏)などには、ダーウィン説が普及するとわれわれは不道徳になるのではないかといった逡巡はまったくみられない。逆にかりに長谷川氏の本を読んでダーウィン説を納得するクリスチャンがいたとしても、たぶんその人が棄教することはないのではないかと思う。信仰は信仰、科学は科学。日本人は「神なんかどうでもいい。神があってもなくても、また数多くあっても同じこと、神なんかにこだわらない」という態度なのだと竹内靖雄氏はいう(「世界名作の経済倫理学」)。だから、神を信じてもまたかまわないことになる。神は世界を覆わないのである。その人の心だけを覆う。科学の世界とは、神はかかわらないのである。
 しかし、西欧においては一つの原理ですべてを説明するという考えがあまねくいきわたっている。それはギリシャキリスト教から生まれたのであるが、科学もその思考から生まれた。とすると、科学はもう一つの原理である宗教と共存共栄するわけにはいかない。ともに天をいだくことができない。しかし宗教はすべてを覆っていたのかもしれないが、科学はすべてを覆えないので、宗教がなくなってしまうことへの不安があるわけである。
 モノーもいうように、キリスト教を奉じる西欧において科学が発達したのは、教会が聖なるものと世俗的なるものの間に根本的区分をみとめたことによる。科学は(聖なるものの領域に踏みこまない限りにおいて)おのれの道をゆくことを許された。倫理の領域と知識の領域の間には明確な区分がおかれていた。したがって科学が知識の領域からはみでて<教会>を倒してしまうことになると、倫理の領域は空白になってしまうわけである。一方、日本は江戸時代に完全に世俗化してしまい、倫理の領域を統括する聖なる領域は消失していた。だから、知識の領域がどのようにひろがっても、抵触する聖なる領域は存在しなかった。
 日本にももちろん生気論も物活論もともに存在したわけだから、モノーの議論はわれわれにとって他人事とはできない。しかしキリスト教的な世界創造とか世界の法則を統べる創造者といった概念は日本人にはまったく無縁であるので、デネットがここでしている議論は身に沁みない。
 西欧世界では、ダーウィン説によってようやく人間は動物になったのかもしれないが、日本ではとっくに人間は動物になっていたのかもしれない。だからダーウィン説は日本では生物学の議論でしかなかったわけである。(もっともスペンサーの説は明治の日本に非常に大きな影響をあたえたらしい id:jmiyaza:20060521。スペンサー説をダーウィン説の亜種と考えれば、ダーウィン説は明治期の倫理や道徳に深くかかわったことになる。それは明治の富国強兵ということの思想的バックボーンにスペンサーがなると見えたらしい。また丘浅次郎の「進化論講話」は多くの思想家に甚大な影響をあたえたらしい。静的な世界観を動的な世界観に変えるというような作用であったようである。しかしそれは創造神を否定するという意味での衝撃をあたえるものではなかった。)
 デネットの本を読むと感じるのは、いまだにキリスト教の世界観は西欧を覆っているのだなあということである。デネット自身がそれから自由になっているように見えない。むしろそれより前の人であるモノーのほうがよほど自立しているように見えてしまうのがなんだか不思議である。
 東浩紀氏の「情報環境論集S」(講談社2007年8月)を読んでいたら、A・ハクスレーの「すばらしい新世界」から以下のような部分が引用されていた。講談社文庫(1974年)からの引用らしい。

 「ところが、わたしは愉快なのがきらいなんです、わたしは神を欲します、詩を、真の危険を、自由を、善良さを欲します。わたしは罪を欲するのです」
 それじゃ全く、君は不幸になる権利を要求しているわけだ」とムスタファ・モンドは言った。
 「それならそれで結構ですよ」と野蛮人は昂然として言った。「わたしは不幸になる権利を求めているんです」
 「それじゃ、いうまでもなく、年をとって醜くよぼよぼになる権利、梅毒や癌になる権利、食べ物が足りなくなる権利、しらみだらけになる権利、明日は何が起こるかも知れぬ絶えざる不安に生きる権利、チブスにかかる権利、あらゆる種類の言いようもない苦悩に責めさいなまれる権利もだな」
 永い沈黙がつづいた。
 「わたしはそれらのすべてを要求します」と野蛮人はついに答えた。

 デネットの世界は、自由と善良さはあるが、悪と罪がない世界であるような気がする。神がいないと悪も罪もなくなってしまうのが西欧文明の不思議なところである。
 ここで野蛮人がもとめているのは、動物にもどることなのだろうか? 老い、死んでゆく単なる動物へと。しかし人間以外の動物は食べ物が足りなくなることは恐れても、苦悩のさいなまれることがないので、それを恐れない。「すばらしい新世界」は読んでいないので、この部分の文脈を取り違えているかもしれないけれども、ムスタファ・モンドはなんだか「大審問官」のようでもある。
 結局、こういう議論をしていると、人間らしさとか人間性とかいったものがはたして存在するのかという方向に帰着していってしまうように思う。ダーウィンの説を受けいれて、人間が人間以外の動物と連続していることをみとめると、アプリオリ人間性などということはいえなくなる。
 ダーウィンをみとめると、人間性や人間らしさを擁護できなくなると思うものは、人間の人間たるゆえんは進化からは説明できないとする。それには大きくいって二つの立場があって、人間性は進化の直接の産物ではなく進化の過程で偶発的に生じた何かであるとするものと、それはまったく文化の産物であり、進化とはなんの関係もないとするものである。
しかし、文化の産物であるとすることの弱点は、それが人間にあまねく備わっていると主張するすることができない点にある。
 わたくしは、ダーウィン説をみとめるので、人間には人間性とか人間らしさなどというものは存在しないと思うけれども、それでも長い歴史の中でときどき、文明というものが生じることがあり、その文明と同義のものとして人間性とか人間らしさという見方が、ある範囲の人々のなかで共有されることがある、ということは信じているのだと思う。その文明はひ弱なものであり、いつ消滅するかわからない危ういものであると思うのだけれども。
 しかし、ダーウィン説を認めながらも、それでも普遍的な人間性というものが存在しうるという見解もあるようなのである。東氏の「情報環境論集S」をみていたら、フランシス・フクヤマの「人間の終わり」(ダイヤモンド社 2002年)が紹介されていて、どうもそれがそういう方向の議論をしているらしいことがわかる。それで今度はそれについて検討してみたい。