フランシス・フクヤマ「人間の終わり バイオテクノロジーはなぜ危険か」

   ダイヤモンド社 2002年9月
   
 東浩紀氏の「情報環境論集S」(講談社 2007年8月)の「情報自由論」を読んでいたら、そこに本書が紹介されていた。
 F・フクヤマは例の「歴史の終わり」で悪名をはせた?ひとで、東側が崩壊して西側が勝利したことで、理念について争う「歴史」はもうおわったというようなことを言って、何をバカなことをいっているのだと顰蹙をかったひとである。その後の歴史をみれば、西欧とイスラムの争いだけをみても、そういわれても仕方がないところがある。
 フクヤマ氏の書いたものを見ると、氏が一生懸命勉強している秀才であることは明らかで、そういうお勉強ぶりがたとえば浅田彰氏の「「歴史の終わり」を越えて」(中公文庫 1999年)などで揶揄されることになる。その程度しか本を読んでなくてものを書くなんて100年早いぜ、とでもいった感じである。それにしても、このころの浅田彰氏とか柄谷行人氏などは本当に偉そうである。それを茶化す?文庫解説の福田和也氏も相当なものであるが(「日本は、少なくとも戦後日本は、まったく違うんだね。思想とか、哲学とかいった営みが、人間の生き死にとまったく関係のない、ただのオモチャ、アクセサリーになってしまったわけだ。で、浅田さんというのは、そうした思想の玩具化を徹底したんだと思うな。どうせ、遊びなんだから、深刻な、意味ありげな様子を作るのはやめよう、こんなものは、カンフー・マニアのヌンチャク程度のものにすぎない、いやケガするだけ、ヌンチャクの方がまだリアルだと」)。
 それで、東氏も浅田氏や柄谷氏の弟子筋にあたるのだがから、フクヤマなんかバカにしているのだろうと思っていたら、まじめに相手して議論をしているのでちょっと面食らった。実はわたくしは「歴史の終わり」を結構面白がって読んだくちなので、浅田氏らがコケにしているのを知って、どうもわたくしはまともな本とそうでない本を分別する能力がないのかなと悲観していた。それで東氏がきちんとした議論の対象にしているのを知って少し安心した。東氏は浅田氏や柄谷氏にくらべ、偉そうでないひとである。
 この本はたぶん出版された当時に買ってあって、例によって本棚の肥やしになっていたのを、今度はじめて通読した。副題のごとく、バイオテクノロジーを論じたもので、わたくしの専門からいえば、そのテーマ自体が他人事ではないわけであるが、今回はそのことよりも「人間の本性」「人間性」ということをフクヤマがどのように論じているかに焦点をしぼってみていく。
 氏はバイオテクノロジー反対派なのであるが、その理由はその技術が人間を人間でなくしてしまう。人間の本性を壊してしまうということある。つまり氏は人間の本性ということを信じているわけである。最近、デネットの「ダーウィンの危険な思想」を読んできて、デネットがいうスカイフック説(科学では説明できない何かが人間を人間たらしめているという説)が、わたくしにはどうにも受け入れがたいものに思えるにもかかわらず、多くの信奉者がいるとされていることがわかりにいささか驚ろいた。そして、東氏の本での紹介で人文科学の側の人間であるフクヤマがいっていることが、スカイフック説信奉者のよい例証になるように思えたので、それを検討してみようと思ったわけである。
 一応、氏の議論を簡単におったあと、氏の人間論を展開する「人間の権利」「人間の本質」「人間の尊厳」の3章を少しくわしくみていくことにしたい。
 
 アリストテレス以降、最近まで、人間性が人間の権利と正義の基盤として重要であるとすることは西洋哲学の伝統となっていた。しかし、この1〜2世紀、この概念は知識人には好まれない。
 人間が文化によって可塑的であるという信念から、フランス革命が生まれ、社会主義革命へとつながった。これが失敗に終わったのは、人間性というものを見誤ったためである。
 自然と文化・環境のうち人間行動にとってどちらが重要かということについては、20世紀においては、文化説が有力であった。しかしここ数年、流れは遺伝学のほうに振れている。
 現在、ジェンダーの問題になると、フェミニストは文化がすべてだというが、ゲイを擁護するひとたちはゲイ遺伝子の存在を歓迎する。
 かつてあれほど評価の高かったフロイトが、現在では思想史の面白い脚注にすぎない程度の、科学者とはいえない亜流の哲学者との扱いをうけるようになっている。それは向精神薬の発見と発達によるところが大きい。フロイト主義は、動いている自動車を見た原始的部族が、ボンネットを開けないまま内部の機能を説明して考え出した理論のようなものである。われわれは承認されたいという欲求をもつが、それは脳内のセレトニンレヴェルに関係する。そうするとプロザックのような薬は人の自尊心を変えることができる。
 今日、注意欠陥・多動性障害(ADHD)は疾患として認められている。それに対してリタリンが処方される。しかしADHDと通常の子供間の線引きはむずかしい。
 医者たちは病気にうちかち生命を延長させるものは、何であれ善であると信じている。しかし人間は自律性というものも大変に重んじる存在であり、自律性のない生命の延長が善であるとはアプリオリにはいえない。
 ユダヤキリスト教的伝統においては、人間の尊厳は人間が神の形に作られているとする点に由来する。したがって、その人間に工学的に干渉しようとする遺伝子工学は神への挑戦であることになる。
 かつて現代化はすなわち世俗化であると信じれていたが、そうなっているのは西欧だけである。北米とアジアではそうなっていない。
 「人間の権利」の章:現代の資本主義的リベラリズムが成功しているのは、それが他の制度よりも人間性について現実的な仮定に基づいているからである。
 権利の発生源としては、1)神、2)自然、3)人間自身、が考えられる。
 1)の立場は信仰をもたない限り正当化できない。2)については、ホッブスは自然の状態を「あらゆる人があらゆる人と」争う状態としたが、それはその時代の宗派間の抗争のことであった。神を前提に政治的コンセンサスにいたるのは難しい。
 人間の権利は人間性に基づくという考えはヒュームによって厳しく批判された。「である」を「すべし」であるとしてしまう「自然主義的誤謬」といわれるものがあり、ヒュームが否定したのがそれである。これは現在の科学者が採用する立場である。われわれの研修していることは「である」であって、「すべし」という政治的含意は一切ないというのである。しかし、人間の価値観が感情や情緒と緊密に結びついているとすると、「である」と「すべし」は切り離せない。
 3)の自分自身に権利が由来するとすることは、権利には普遍性がないとすることである。それは異なる文化に対しては何もいえない。文化相対主義からは、普遍的人権という発想は現れえない。
 普遍性の想定が必要なのである。カントの道徳律は人間が理性的動物であるという仮定に依存している。
 「人間の本質」の章:この章でフクヤマがいっていることがよく理解できないのだが、「人間には生まれつきの感情反応があり、それが種に比較的固定した道徳意識を形作る」ということなのであろうかと思う。つまり、人の感情反応は進化心理学的に説明できる過程で形成されたとし、その感情反応は進化に由来する以上は普遍的なものであるのだから、現在の道徳律も普遍的なものでありうる、ということのように見える。
 「人間の尊厳」の章:われわれは他人に認められたい存在である。
 ある人の偶発的な特徴をすべて除いてもあとにのこるもの、それが人間の本来の資質であるはずである。それをX因子とよぶことにしよう。古来から、一部の人間しかそれをもたないとする見解があった。現在ではそれが人間すべてにあたえられていることになっている。キリスト教ではこれは神に由来する。これを信じなくても、人間の尊厳に根拠をあたえうるか? それが問題となる。その回答を示したのがカントである。カントの場合のX因子とは人間が持つ道徳的選択をおこなう能力であった。つまり人間に自由意志があるということである。それにより人間は因果律を超越できるのであるとした。
 自然科学者はなかなかカントの見解を受けいれようとはしない。自然界とは別に存在している人間の自由という見方が導く、二元論的な何かを容認できないのである。カントは自由意志の存在を一切証明しているわけではないのだから。
 さらにダーウィニズムによれば「種に本質的なものはない」。その説を受けいれるとすれば、現在のわれわれの状態はたかだかここ数十万年の偶然の産物に過ぎない。
 さて、ここからがフクヤマの議論がさらにわからないのだが、どうも1996年の教皇ヨハネ・パウロ二世の回勅の線らしい。「教会は人間が人間以外の動物から発生したという理論を受けいれる。けれども、進化のどこかで存在論的飛躍がおきたのであり、人間の魂は神によって直接作られた」という見解である。もちろんフクヤマは人間の魂は神によって作られたとするのではない。しかし、科学はたしかに進化という正しい説明を提供しているのだが、それにもかかわらず「人間とは何か」について、現代自然科学はほとんど何も明らかにしていないではないか、というのである。
 それはそうであると思う。そもそも「人間とは何か」というのは科学の問いではないかもしれない。科学はそれに答えられなくても非難されることはないのではないかとも思う。科学は同様に「犬とは何か」とか、さらに「猫の本質は何か」といった問いにも答えられないのであり、そういう問い自体がブラトン的な実在論を前提にしている。それをこわしたのがダーウィン説なのである。
 それはともかく、フクヤマはさらに論をすすめていく。部分から全体を説明できるというのは間違いである、生物のような複雑な組織やシステムを還元論で説明しようというのが間違いなのであり、非線形の科学、複雑系の科学がそれを証明している。人間の言語はS・J・グールドのいうスパンドレルなのであり、進化からは直接説明できない。意識が還元論的な科学のやりかたでは説明できないのは明白である。われわれが主観的意識を持つのは明白であるのに、二元論を恐れるあまり、多くの科学者はそれを否定しようとしている。今の科学では感情の仕組みをまったく説明できない。今日の進化心理学認知科学では、主観的感情は他の機能に伴する二次的な現象であるとしている。人間全体のあらゆる資質が集まって人間の「X因子」を形成するのである。それを科学の方法で解明することはできない。
 この後は、バイオテクノロジー批判の具体論なので省略する。
 
 デネットがスカイフックとして批判していたものがほとんどすべてフクヤマのこの本では人間の本質が科学だけでは説明できない理由の根拠として使われている。S・J・グールドであり、チョムスキーである。さらには、還元論批判から、複雑系まで総動員である。フクヤマもいうようにわれわれが主観的意識を持つのは明白である。多くの科学者はそれを否定しているのだろうか? 科学者がいっているのは主観的意識は脳から独立なものではない、ということだけなのだろうと思う。二元論というのは双方が関係ないということだから(ではないのだろうか?)、一方から他方は説明できないとする見解である。そうであるとすれば、われわれの主観的意識というものを脳とはまったく別の原理から説明するのでなければならない。これができるのはカトリックのいうような「存在論的飛躍」だけである。カトリックの教義をとりいえれず、しかも二元論を保つというのは不可能な試みなのであると思う。個々の分子の運動の総和は巨視的にみれば熱という言葉で表現でききる。熱という言葉があるということと、個々の分子の運動が存在することは、双方が別々の現象であるということではない。
 フクヤマは科学は感情というものをまったく説明できないというが、ダマシオの論などは感情という現象そのものにせまるものであると思う id:jmiyaza:20060402。感情というものは理性よりもはるかに先行していることは明らかであるわけで、猫も怒る。ただ猫は自分が怒っているなという自己認識を(おそらく)していない、ということである。そうであるならば、感受のほうが生物学的にはるかに普遍的な現象であって、それを科学があつかえないはずはない。
 フクヤマは優越願望と対等願望ということがを人間の本質であるとして「歴史の終わり」を書いた。犬や猫はそういう願望を持つか?といえば、それは集団生活がないところではありえないことである。つまり“社会”がないところには存在しえない。それでは蟻はそういう願望を持つか? 絶対に持っていない。
 フクヤマが言っているのは、人間が社会的動物である、あるいは政治的動物であるということで、それは科学では説明できないということのように思う。それに対するE・O・ウイルソンの行きかたはあまりにも無謀というか、行きすぎなのではあるが、問題はわれわれの今というのが、進化の説明の埒外にあるのかということに帰着する。つまり、どこかで存在論的な飛躍がおきたのか、あくまで連続的なものであって飛躍はないのか、ということである。ダーウィンのいったことは、要するに飛躍はないということである。いかにわれわれが特殊なものであるように見えるとしても、それでもわれわれはチンパンジーと連続しているということである。こうもりの世界認識というのはわれわれには絶対に理解できないものである。蛙の世界認識も同様であろう。
 デネットはS・J・グールドやチョムスキーがそれぞれの業績のゆえに、その見解が科学の正統とみなされることを懸念していた。本書を読んでも、フクヤマが、グールドが進化論陣営の中では異端であり、ひょっとするとトンデモであるということは考えてもいないように思える。もちろん、グールドをトンデモであるとみなすいきかたこそが、正統科学といわれるものの傲慢を示すものだという見解はありうると思われる。ドーキンスなどを読んでいると、そういう見方がでてくることもよく理解できる。
 しかし、本書を読んで、人文科学、社会科学の陣営の人間も、もう少し脳科学や進化論の方向の議論を真剣に検討してほしいと感じる。フクヤマは随分とその方向について勉強している人なのである。それでもこうである。とすれば、その方面を最初から還元論で何がわかるなどといって相手にもしていないひとの理解というのは、とんでもない次元なのではないかと思う。
 わたくしはもしも人間の本質というものを議論するのであれば(それはプラトンの前提を受けいれてしまうことになるのだとは思うけれども)、それの議論の基礎を提供するものは生物学しかないのではないかと思う。人文科学や社会科学というのは、その存在基盤を問われているのであると思うけれども、そういう危機意識はあまりないのかもしれない。文学は人間についての個別事例研究としてこれからも残るであろう。しかし、人間にかんする一般論としての人文科学や社会科学がこれからどのように独立した学問分野として存続可能なのであるか、それは非常に厳しい課題であるように思われる。

人間の終わり―バイオテクノロジーはなぜ危険か

人間の終わり―バイオテクノロジーはなぜ危険か