N・ウェイド「5万年前 このとき人類の壮大な旅が始まった」

  イースト・プレス 2007年9月
  
 こういう本が好きなのだなあ、と思う。
 大分以前、ローレンツの本をはじめて読んだときのことを思い出す。30歳すぎたころだと思う。子供ができ、育児というようなことを考えていて、精神分析の説を信じていた。伊丹十三さんや岸田秀さんがさかんに精神分析の啓蒙活動をしていた。伊丹氏が「男というのは馬鹿だ。仕事という誰でもできる他人が代替可能なことをするために、自分の子供を育てるという自分にしかできないことを放棄している」というようなアジテーションをしていた。今から思うとこの伊丹発言はかなりとんでもないもので、女性を家庭に閉じ込めるイデオロギーであるという批判がまずでてきそうであるし、今なら「子育ての大誤解」(J・R・ハリス 早川書房 2000年)といったほうからの反論もありそうである。そもそも精神分析の権威が随分と低下した。しかし、その当時は精神分析を信じていたので、ローレンツの本を読んで知った「刷り込み」とか「リリーサー」とかいったことが、精神分析信仰への強力な解毒剤となった。子供が育つということは決して文化的なもの(後天的なもの)ばかりで決まるのではなく、生物学的なもの(先天的なもの)によっても大きく規定されているのだということに、目をひらかせてくれた。
 本書は主としてヒト・ゲノムの解析という最新の知見をもとにして、ヒトが進化してきた道を考えてみようというものである。著者は科学ライターであり、実際の研究者ではない。本書も研究書ではなく啓蒙書なので、かなり一方的な書き方がしてある部分もある(ヒトの進化について、考古学などの知見よりも、ゲノムから推定されることを信じるという姿勢など)。したがって、ここに書かれたことが、いずれは間違いであるとされる部分もたくさんあるのだと思うが、それはそうで仕方がないのだと思う。わたくしがノーベル賞受賞者というのですっかり信用していたローレンツだって今では多々間違いが指摘されている(そもそも氏の進化論理解さえもが根底から間違っているのだそうである。ローレンツは淘汰は群にかかるとしていて、個体(遺伝子)にかかるという進化論の根っこを外しているのだそうである)。科学の世界というのは進化の道筋と同じで、ある説が生き残るかどうかは時間がたたないとわからないわけであるが、本書はヒトの進化について、わたくしが今まで勘違いしていた点を多々正してくれた。
 たとえば、本書のタイトル「5万年前」というのは、チンパンジーからわかれたのは500年前であるとしても、ヒトが今日の人間であることをはじめたのは5万年前からのことに過ぎないということをいっている。わたくしは、農耕以前の狩猟採集時代のヒトも人間なのだとなんとなく思い込んでいて、ただ生産能力の制限のために飛躍ができなかったのだと考えていた。
 言語の起源が現生人類の起源と同じく一つなのだという説もはじめて知った。それを知ることにより、チョムスキーの「普遍文法」の論がようやく腑に落ちるものとなった。脳の構造が先にあり、あとから日本語とか英語ができたとすると、脳がそれらに柔軟に対応できるということがどうしても理解できなかった。われわれが話している言語の起源がひとつですべての言語がそれから枝分かれしたとすれば、最初の言語を保障した脳構造だけを説明できればいいわけである。とすればチョムスキーのいっていることは、すべての言語の起源はひとつということと、ほとんど等価であることになる。
 その他にも本書を読んで蒙を啓かれた点がたくさんあった。まずは備忘録として、ウェイドの論を要約してみる。

 チンパンジーと人の祖先の共通点とはどのようなものか?
1)血のつながったものが少数で集まってくらす。
2)縄張りをまもる。
3)近隣の同じ種をしじゅう攻撃する。
4)雄と雌にはヒエラルキーがある。
5)子供の大部分は優位にたつ雄かそれと同盟した雄の子供である。
 この中で、現在のヒトと一番異なっているのが、4)であり、約170万年前に、ヒトは男女のペアという方向に変化をはじめた。当初は、ひとりの男とひとりの女ではなく、複数の女との結びつきであったかもしれないが、それでも雄が雌を支配するというヒエラルキー構造からは離れはじめた。それがヒトに特有の新しい社会構造を発達させた。チンパンジーのアルファ雄とその同盟雄がほとんどの雌を独占するという社会から、すべての男(雄)に生殖のチャンスがあたえられるという(民主的な?)体制へと移行をはじめたのである。
 ヒトの祖先が克服せねばならなかったのは、好戦的な傾向、すなわち1)から3)であった。ヒトの敵はヒト、という時代は長く続いたのである(現在まで続いているのかもしれない)。
 通説とはことなり、ヒトはまず定住したのであり、農業の発達はその後に続いた。
 われわれの祖先は言語というものもってからアフリカを出て世界中に放散した。だからこそ言語の元はたったひとつなのである。
 今から5万年前、われわれの祖先がアフリカをでようとしていたときは、まだ更新世の氷河期の厳しい気候と環境の下にあり、その環境のため、われわれの祖先の数も5千人程度にまで減っていた。その中のわずか150人くらいがアフリカを出たのだと推定されている。
 更新世の氷河期がはじまる前の温暖な時代に、およそ180万年前から、一回から数回、ヒトの祖先は、アフリカをでてヨーロッパなどにでている。その祖先はその地で独自に進化し、ホモ・エレクトスネアンデルタール人になった。ネアンデルタール人がヨーロッパと近東の先住民族であった。
 500万年前(460〜620万年前)に、ヒトがチンパンジーからわかれたのはアフリカの赤道地帯の東側においてであったと推定されている。
 1000〜500万年前まで地球は寒冷で、とくに650〜500万年前は過酷であった。アフリカも寒くかつ乾燥し、そのため森林が減った。その環境でもあえてそのまま森林にいることを選択したのがチンパンジーであり、森林を捨てたのがヒトの祖先である。
 500万年前、ヒトとチンパンジーの共通祖先は5〜10万頭いたと推定される。100頭ほどがグループをつくり互いに争っていた。なぜなら雌が食べる果実がなる森林の縄張りを確保することが、子孫をつくり生き残るために必須だったから。
 大きな変化をしたヒトと違って、チンパンジーがそのころからあまり変わっていないと仮定すると、ヒトとチンパンジーの共通祖先は、雄が雌よりはるかに大きく、雄は交配相手以外の雌にはほとんど関心をもたなかったはずである(雄と雌のペアは形成されない)。アルファ雄とそれと同盟した雄が大部分の子供の父親となる、といった社会をつくっていたはずである。
 ヒトの祖先は木から降りてほかの食料をさがしはじめた。そこで2足歩行が出現した。これはチンパンジーの「ナックルウォーク」よりも少ないエネルギーでの移動を可能にした。それは440年前ごろアウステラロピテクスの時代である。このころのヒトの祖先は化石によれば雄が雌よりはるかに大きかったから、チンパンジー的な雄雌関係であったと推測される。
 かれらが「頑丈型」と「ホモ・ハビリス」の2種にわかれた。前者は頑丈な歯を発達させ、草の根や堅い果実を食べられる方向に進化した。後者は肉食をはじめた。また後者の脳は大きくなった。脳は猛烈にエネルギーを消費する器官であるので、草食だけではそれを維持できない。大きな脳と肉食は一体のものなのである。ではなぜ大きな脳が必要になったのか? 社会が複雑化したからであろう。ホモ・ハビリスは石器を使った。この石器は80万年の間ほとんど変化していない。
 2足歩行と脳の巨大化以外の大きな変化が、ホモ・ハビリスの子孫のホモ・エレガスターのときの約170万年前におきた。雄の体格が小さくなり雌との差が少なくなったのである。また雌の骨盤も狭くなり産道も小さくなっている。おそらくその頃に男女の絆のようなものが生まれだしたのであろう。もちろん、いきなり一夫一婦制になったわけではないであろうが。石器のレベルも格段にあがっている。外見がようやくチンパンジーよりもヒトらしくなってきた。この頃無毛になったのではないだろうか? 大きくなった脳を冷やすためには発汗が効率的であり、そのためには無毛がいい。そのため皮膚色は黒くなった(紫外線は葉酸を破壊し、葉酸の不足は生殖能力を弱める)。それが出現したのは大体120万年前くらいと推定される。
 ホモ・エレガスターの子孫のホモ・エレクトスがアフリカをでてアジアに到着したのは100万年前くらいと考えられている。
 50万年前にも、ヒトの祖先はヨーロッパにたどり着いている。エレガスターの別の子孫であるホモ・ハイデルベルゲンシスである。これがネアンデルタール人に進化した。
 5万年前にアフリカから移動したヒトの祖先がネアンデルタール人を滅ぼした。
 ヒトの祖先は10万年前には解剖学的には今のヒトに近くなっていたが、行動が今のヒトに近くなったのは5万年前である。これは(文化によるのではなく)遺伝学的変化によるというのが著者の主張である。
 問題はこのころに言語が出現していたということである。チョムスキーらは、言語能力は、鳥の航海などで発達した脳のモジュールが転用されたのだという。では言語を発達させた淘汰圧とは何か? 「社会的毛づくろい」説がある。性淘汰説もある。しかし、新しい環境へ適応するのに有利に働くというのが妥当な説明ではないだろうか。だから、現代的行動をしていなかったと考えられるネアンデルタール人は言語をもたなかったであろう。
 重度の言語障害をもつKE家系というものが知られている。その家系は「FOXP2」という遺伝子に変異があることがわかった。これは言語にかんする脳のニューロンの配線に関係しているらしい。これが人類で固定したのが20万年以内である。とすれば言語の獲得もそれよりあとであることが推定ができる。
 アフリカ大陸の男性には少数しか見られないが、アフリカの外でくらす男性は全員がもっているY染色体上の突然変異「M168」がある。それから計算すると、人類の祖先がアフリカを離れたのは4万4千年(3万9千〜8万9千年)前である。
 ミトコンドリアDNAの系統は大きくわけて、L1、L2、L3と3分される。L3はさらにMとNの2系統にわかれる。アフリカを出発したのはL3のMとNの系統の女性である。
 舌打ち言語を話す「ホッテントット族」と「ブッシュマン」はミトコンドリアDNAからみて世界最古の集団である(L1)。おそらく早い時期に祖先集団から分離したのであろう。
 遺伝子からみると、われわれの祖先はエチオピアに暮らしていた可能性が高い。
 普遍文法にあたるような普遍的人間とはどのようなものだろうか? 料理する、踊り歌う、占う、顔の表情が豊か、ヘビをこわがる、家族が社会的単位になる、互恵性の関係にある、霊のような超自然的なものを信じる、魔術を使う、衣服をきる、道具を作り使う、病気と死の独特な観念をもつ・・・、とったものであろうか。
 それでは、われわれの祖先であると思われているカラハリ砂漠のサン族の生活はどのようなものか? 子供が不具であれば母親が殺す(赤ん坊を産むのは野営地の外でだが、野営地にもどり集団に入り名前をつけるまでは、赤ん坊はまだ人間とはみなされない。だからかれらからみればこれは殺人ではない)。そこでは、自慢するひと、吝嗇なひとは嫌われる。平等主義で指導者はいない。しかし暴力は日常茶飯で、殺人は現代アメリカ人社会の3倍である。
 5万年前アフリカを出たわれわれの祖先は地球をくまなく移動した。かれらはネアンデルタール人と死闘をくりかえしたであろう。その戦いは1万5千年続き、3万年前に最後のネアンデルタール人が消滅した。
 現在のヨーロッパ人の87%の先祖は更新世氷河時代が終わる前にヨーロッパに到着している。13%の先祖は一万年前くらいに近東から移住したと考えられるが、彼らが農業を伝えた。
 犬の家畜化は1万5千年前くらいに東アジアのどこかでおこった。これは見張り役としてヒトの定住に役立ったかもしれない。犬は狼を家畜化したものであるが、人間のボディ・ランゲージを読み取れることが大事である。これは必ずしも知能と比例するものではなく、チンパンジーにはほとんど欠けている能力である。
 2万〜1万5千年までの最終氷河期最盛期のあと、1万2500年前までは温暖な最終亜間氷期が続いたが、それは10年くらいでふたたび氷河期レベルにまでもどり(ヤンガー・ドリアス期)、それが1300年ほど続き、ふたたび10年ほどで、現在まで続く温暖な完新世になった(1万1500年前)。
 1万5千年前くらいにヒトは定住をはじめた。定住があってはじめて農業をはじめることができる。
 定住をはじめたわれわれの祖先は現在のイスラエルあたりに住んでいたナトゥフ文化の人々であると考えられている。ヤンガー・ドリアス期にかれらは野生の麦などを脱穀して貯蔵することをはじめた。その文化ではすでに階層が生じていたようであり、宗教も生じていたものと思われる。かれらは埋葬のとき、頭部を胴体から切り離し、それを漆喰でおおうことをしている。それを崇拝の対象としたようである。一種の祖先崇拝なのであろう。
 定住よりさきにヒトにおこっている変化は、頭骨が華奢になったことである。これは幼形進化を示すものかもしれず、ヒトが自分自身を家畜化したことを示すものかもしれない。われわれはいまでも好戦的でなくなる方向に進化をし続けているのかもしれない。
 移動する狩猟採集の社会では単位は血族である。その単位は小さい。定住した社会では利他主義と宗教が大集団を結びつけた。定住により役割分担が生じ、専門化が生じ、余剰物、私有財産、交易などが生じてくる。これにより自然の恵みだけに頼って生きる他の種とは違う道をいくことになった。ということは、1万5千年前までは、ヒトは他のあらゆる動物を同じ存在であったわけである(たとえすでに言語能力をもっていたのだとしても)
 最初の栽培化された植物はアインコルンであり1万5千年前、小麦は1万4千年前、ライ麦と大麦は1万年前である。
 犬が最初に家畜化されたが(1万5千年前)、羊とヤギは1万年前、牛と豚が8千年前、馬はもう少しあとで6千年前くらいかもしれない。
 ヒトは乳児期以外には乳糖を消化する必要はない。しかし大人になっても乳糖を消化できる乳糖耐性は、牧畜のさかんなところのヒトに多くみられる。ということは文化の変化に対して人類集団は最近であっても進化していることを示す。現生人類がアフリカを出発して以降の人間の変化はすべて文化によるものであり、人間の進化は5万年前に終わったとする説があるが、それは間違いである。文化は人間がつくった環境であり、ゲノムは環境に反応する。
 ブラジルとベネゼラの国境にすむヤノマミ族は、昔ながらの生活を続けていると考えられている。かれらは定住し、作物を栽培する。食料を調達するのに必要な労働時間は一日3時間。ひまな時間は幻覚剤をかいですごす。このように苦労せずに生きていけるにもかかわらず、近隣の部族との対立は絶えない。成人男性の死因の30%は暴力である。闘争、交易、宗教、男女の役割分担などヒトの社会生活にみられるものはここでもみられる。それなら、これらは文化の産物なのか、遺伝の産物なのか。
 チンパンジーの社会では雄が優位だが、ボノボの社会では雌が優位である。タンザニアでの野生チンパンジーの研究で、そのコミュニティーには縄張りがあり、それをめぐってお互いにはげしく争っていることがわかった。彼らは人間と同じく父方居住である。ほとんどの狩猟採集民族も父方居住である。これは霊長類では例外で、ヒトとチンパンジー以外ではわずかに4種しかいない。チンパンジーは近隣のチンパンジーを襲い、殺す。縄張りが広いほど、食糧が豊かになり、雌の出産間隔が短くなるからである。したがってチンパンジーの攻撃性は進化的に理にはかなっており、遺伝的にきまっているものなのであろう。
 200万年ほど前にチンパンジーからわかれたボノボは、雌が優位であり、セックスをコミュニケーションの手段として用いていることでも知られている。両者の差が生じたのは、生息場所と食生活の違いによると考えられている。
 未開社会では闘争は非常に頻繁におきる。にもかかわらず、これは過小に報告されてきた。それはナチの経験による可能性が高い。
 最近、意外な方向から過去にヒトが相争っていた証拠がでてきた。狂牛病の研究からである。それによれば食人習慣が世界中でかつては普及していたことがわかる。プリオン病の感染から保護してくれる遺伝的な特性を多くのヒトがもっていることがわかったのである。そのためにプリオン病の発生率は予想よりもはるかに低かった。ということはかつてのヒトが食人を普通にしていたとしなければ説明できない。そのような世界からわれわれはぬけだしてきたわけである。
 50人〜100人をこえるコミュニティを形成することは狩猟採集生活でも農耕生活でも難しかった。それをこえる社会集団が形成されてきたのはなぜだろうか。他人を信用できなければ、ヒトは家族・血縁以上の集団を形成することは難しい。信頼に依存する社会はたかりに弱い。それに対する防衛策としてでてきたのが宗教なのであろう。
 ヒトとチンパンジーをわかつ最大のものは男女の絆である。といっても、現代でも一夫多妻制の社会は多くあり、まれにはその逆の社会もある。
 人種を論じることは今でもタブーに近い。ナチスの経験がそうさせた。しかし、たとえば、人種により薬剤の効果が異なることなどが明らかになってきている。とすれば、そろそろ、そのタブーを解くべき時期にきているのではないだろうか?
 権威ある医学誌にのった2002年のある論文では、人類集団は、アフリカ人、コーカサス人、アジア人、太平洋諸島人、アメリカ先住民に大別される。このように大別されることは、人類の祖先ががアフリカをでて、地球に拡散していったことを考えれば当然なのである。
 アメリカでの知能テストの成績をみると、アジア系アメリカ人がトップで、アフリカ系アメリカ人は低い。しかし、この解釈には異論が噴出する。それではそれよりは異論がでにくいスポーツの分野ではどうなのだろうか。短距離走ではほとんど西アフリカ人がそれを祖先にもつものが優秀である。ここ4回のオリンピックの男子100mで決勝に進んた選手32名は全員祖先が西アフリカ人である。一方、中・長距離では、東アフリカのケニア出身である。なかでもケニア南西部の高地にくらすナンディ族である。ところで中国人は卓球に、ヨーロッパ人は重量挙げにすぐれているのだそうである。
 言語はきわめて変化が早い。チョウサーの英語と現代の英語は600年の間隔しかないにもかかわらず、同じ言語とは思えないくらいである。言語がコミュニケーションの手段であることを考えると、世界に多数の言語があることは説明しづらい。しかし、初期人類は闘争をくりかえしていたことを思いだそう。言語の違いはよそ者の識別にきわめて有用なのである。
 メソポタミアなどに都市がうまれ、古代文明が生まれたのは6千年ほど前である。文字の発明は5400年ほど前。しかし、その後も人の進化は続いている。
 
 以上を簡単にまとめてみる。
1000〜500万年前:地球は寒冷だった。特に650〜500万年前がそうである。
500万年前:ヒトとチンパンジーがわかれた。
440万年前:2足歩行(アウストラロピテクス→頑丈型とホモ・ハビリス・・・肉食)
300〜200万年前:ふたたび寒冷となる。
180万年前:ヒトの祖先がアフリカをでてヨーロッパへ。
170万年前:男女がペアとなる傾向に。ヒトは無毛になる(ホモ・エレガスター)。
120万年前:皮膚が黒くなる。
100万年前:ホモ・エレクトスがアフリカの外へ。
50万年前:ホモ・ハイデルベルゲンシスがふたたびアフリカの外へ→ネアンデルタール人
10万年前:解剖学的には現代のヒトへ(われわれと外見的には区別がつかないヒトへ)。
7万年前:ヒトは衣服をきだす。
5万年前:ヒトがふたたびアフリカをでる(現在のすべての人類の祖先)。その前に言語をすでに獲得していた。
3万年前:ネアンデルタール人消滅。
2万年前:みたび寒冷となる
1万5千年前:定住をはじめる。ここから本当の人類がはじまる。犬を家畜化。
1万年前:180万年前に始まった更新世の氷河期が終わり、温暖な完新世がはじまる。農業が始まる。
6千年前:古代文明の誕生。
5千年前:文字の使用開始。
 
 本書には結構、竹内久美子氏風(竹内さん失礼)のところもあると思うけれど、それでも本書を読んで教えられたところは多い。
 わたくしは、ヒトの祖先がチンパンジーからわかれてしばらくしてから、火を使うことを覚えるとか、道具を使うことを覚えるとかによって他の動物を圧倒し、それにより他の種との競争については圧倒的に優位に立ったように思っていた。本書によれば、500万年どころか5万年前においてさえ、絶滅寸前の弱い種であったわけである。
 そして著者は本当の人間の歴史のはじまりは定住をはじめてからであるという。わたくしは狩猟採集生活というのも、ある範囲は移動するにしても、なんとなく定住に近いイメージでみていた。これも誤りであったようである。
 著者がいいたいのは、われわれはチンパンジーからひきついだ闘争性と縄張り意識と、170万年ほど前にはじまった男女のペアということに由来する社会組織の双方に拘束されているということであり、いずれにしても、そういう生物学的な制約からは逃れようもないが、生物学的にはある一定の大きさで限界になるはずの集団の大きなを超えて大きな集団を形成できるようになった背景には言語があり、それがヒトのヒトらしさを作りあげているということのようである。
 本書を読んでも感じるのは進化の漸進性と連続性ということである。こういう歴史を読んでくると、神が人に魂をあたえることにより他の動物から聖別したという教義はどのようにすれば維持できるのだろうと思う。そして本書によればひとが宗教を持つのは必然なのであり、それがなければひとの社会は維持できなかった。宗教には集団をまとめる部分と個人の内面にかかわる部分の二つがある。宗教は個人の内面にかかわることにより集団を維持するのであるから双方を分離することはできないが、世俗化という、ほんのここ数百年の動きにより、ある点からは、ヒトはふたたびただの動物へともどれるようになってきたともいえるのかもしれない。人間が集団を維持するために必要とした神話がようやく不必要になろうとしているのかもしれない。生物としての制約を乗り越えるために必要とした衣服をふたたび脱ぐことが可能になってきているのかもしれない。
 ヒトがチンパンジーと分離した時点で、ヒトは進化の道からはずれ、あとは文化だけが人間を規定してきたというのが誤りであることは明らかである。ヒトはそれぞれの住む環境に適応してさまざまな進化をとげた。その結果として人種があるといったことを言うのは、今でもほとんどタブーであるらしい。アフリカ人の運動選手の優秀性を述べた本のタイトルは「タブー」なのだそうである。わたくしもついこの前の世界陸上をみていて、不思議に感じた。本書にあるようにたとえば短距離走で西アフリカ出身の選手が断然優秀であるのならば、国籍別にメダルを競うなどということは無意味である。もっとも万世一系の日本においては、日本代表として西アフリカの祖先の血を引く選手がでることはないような気もするが。ナチス時代のオリンピックではアフリカの国々が独立していなかったのは(またアメリカが公然たる人種差別の時代であったことも)幸いであった。もしそれらの選手がでてくることがあれば、ヒトラーはオリンピックを開催しようとしたであろうか? アーリア人種の優秀性どころの話ではないわけである。
 言語というものが多数存在することを、ダーウイン的に説明することが可能であることが本書を読んでよくわかった。ダーウイン理論の説明力は非常に強力である。
 本書を読んでくると、人間のもつ良心とか道徳心といったことをアプリオリに説く論、あるいは基本的人権とかを説く論はどこまで人間の進化ということをふまえて議論をしているのだろうか、という疑問を感じる。
 カントは自分が確固たる道徳心をもっていることをありありと感じ驚嘆したのであろう。しかし、それは文化にもとづくものではあり、人間にそなわった本性ではない。その文化は、人間が生物学的制約をこえた集団を形成することをはじめたことによりもたらされた。そして東浩紀氏などの議論にしたがえば、われわれはついに、そのような文化的な規制なしでも生きられる時代に生きることになってしまった。われわれは文化的な統制ではなく、まったく物理学的な統制だけで生きる方向をさぐりはじめている。
 本書にしたがえば、ヒトとチンパンジーは哺乳動物の中でも例外的に危険な生きものであるらしい。それは父方居住という形態によるところが大きいらしい。われわれがボノボ型の雌優位の社会へと転換できれば、その危険を減じることができるのかもしれない。しかし、ヒトはまだ平均すると雄が雌よりは大きい。そのことは生物学な事実であって、それがヒトの社会形態を大きく規定しているらしい。人間にもう一度大きな進化的な変化がおこり、男女が同じ大きさになれば、それは解決されるのかしれない。しかし、進化とは盲目的なものであり、一定の方向に動くことはないのだから、それを期待することは愚かしいことであろう。ということで、危険な隣人を監視する方向のほうがてっとり早いし、よほど実現可能性が高いというのが、現代である。
 本書を読んで一番びっくりしたのは、ほんの10年ほどで気候が激変することがあるということであった。地球温暖化などと騒いでいるが、あっという間にふたたび氷河時代などというだってあるのであろうか? 人間もまた動物であり、天候の激変があれば、万物の霊長などと威張っていてもおのずと限界はある。ヒトは月や火星で生きられないのと同じで、極端な高温や低温の下でもまた生きることができない可能性が高い。
 本書を読んでわかるのは、生き物というのは環境に対応して生きているのだという当たり前のことである。その中でかつてはアフリカの森林地帯でしか生きることができなかった生き物の子孫が地球上のあらゆるところで生きることができるようになっているというのはまことに驚嘆すべきことである。しかし、そうであるとしてもやはり人間はほかの動物となんら変わるところのない生き物でもある。そのことは氷河時代になんども無人地帯になったヨーロッパ世界という本書の記述によっても明らかである。
 それとも、今後氷河時代がふたたび来ても、今度は、人類は地球上のあらゆる場所で生き続けることができるのだろうか?
 

5万年前―このとき人類の壮大な旅が始まった

5万年前―このとき人類の壮大な旅が始まった