F・フュレ 「幻想の過去 20世紀の全体主義」 (2)革命的情熱

 
 第2次世界大戦が終わったあとでは、1920年〜30年にナチズムが人々に未来を約束するものであったことを理解することはほとんど不可能になっている。ファシズムは完全に息の根をとめられた。しかしコミュニズムは初期の魅力のすべてをまだ失ってはいない。それは歴史的必然を信じる習慣からわれわれがまだ完全には解放されていないからである。ファシズムコミュニズムも民主主義から生まれた。20世紀以前にはイデオロギーによる統治あるいは政治体制といったものは存在しなかった。たしかにフランス革命はあったがロベスピエールによる統治はわずか数週間であった。
 ナチズムやコミュニズムといった今となってはいかがわしい思想が多くのすぐれた知性をひきつけたのは、それがブルジョワジーに対する憎悪に応えるものであったからである。ブルジョア嫌悪は19世紀を支配した感情であり、20世紀にさらに増幅された。ブルジョワ社会とは近代社会の別名でもある。とすれば、ブルジョワジーへの嫌悪とは近代への嫌悪でもある。
 フランス革命が導入した自由・平等・人権という概念は個人の自律を称揚するものであり、公益の観念と原理的に対立するものであった。民主主義のこのような隘路を指摘したのがルソーとトクヴィルであった。ブルジョア社会は分業により富を生み出しながら平等を目指すという矛盾を根底にかかえている。ブルジョアは近代社会の欺瞞の集約点であるとされ、民主主義の生贄の羊にされたのである。そこからブルジョアに対する内部からの告発が生まれてくる。
 アメリカ革命は合衆国憲法の起草によって収束した。しかしフランス革命は革命思想を後世に存続させることになった。革命思想は政治文化となった。それは平等への飽くことのない情熱そのものであったのである。民主主義の名による民主主義の批判は20世紀西欧の偏執的な志向となっている。
 フランス文学の伝統において反ブルジョア感情は普遍的なものである。ブルジョアは狭量で醜悪で吝嗇で平凡な家庭人であり、偉大で高潔で天分豊かな放浪者である芸術家と対照的な存在であるとされた。金銭は魂を硬直させ堕落させる。ブルジョアとは自分自身の利益の奴隷となっている不誠実な人間なのである。
 ブルジョアは社会では強者であったが、精神世界では弱者であった。ブルジョアは、ヨーロッパ文化のなかで一貫して軽蔑と憎悪の対象となった。そしてなによりもブルジョア自身が自己を嫌悪した。ブルジョアは悔恨の情を抱き、罪悪感をもった。近代民主主義とは、自分が生まれ育った社会や政治体制を憎悪する子供や大人たちを産生し続ける体制なのである。それを生み出すのは民主主義への過度の期待である。
 資本主義と近代の自由は表裏一体のものであったので、19世紀においては、自由民主主義は個人を孤立させて公共の利益に無関心とさせるものであるとされた。そのために世の権威は弱体化し、階級間の憎悪はふかまるので、社会は不安定となり、いつ解体してもおかしくないものとなると考えられた。
 それでも19世紀においては、まだ反ブルジョア感情は制御可能であった。ヨーロッパでは王侯貴族が大きな支配力をもっていたからである。19世紀は王政と貴族政と民主政の混成体制であった。しかし20世紀には制御不能となった。19世紀の終わりからの大衆の政治参加がそれを変えた。大衆はブルジョアジーを憎み、民主主義をも憎むようになった。そこにボリシェヴィキ革命がおきたのである。
 第一次世界大戦はいまだに十分理解されていない戦争である。なんのために戦われたのか、それが理解できないままである。それが第二次世界大戦との決定的な違いである。
 第一次世界大戦国民国家間の戦いであり、国民主義の熱狂の悲惨をあまねく世に知らせることとなった。したがってそのあと普遍主義への志向がうまれた。そしてさらにそれへの反作用としてファシズムが生まれた。国際主義の立場からの戦争解決という方向がボリシェヴィキ活動家に独占されたことへの反動なのであった。
 ナチズムはユダヤ人という富の象徴・ブルジョアの象徴に敵対するとともに、ボルシェヴィズムという国際主義とも敵対した。通常、富に対する憎悪とコミュニズムに対する憎悪は両立しない。しかしナチズムはそれを両立させた。ナチスコミュニズムの背後にいるのもユダヤ人であるとして、ユダヤ人を富と国際主義両者を代表するものとした。
 そしてコミュニズムにとっても反ファシズムを標榜することは自身の延命のための絶好のきっかけとなった。それによりコミュニズムが民主主義陣営に回帰することが可能になったからである。
 議会主義も複数政党制もブルジョア的欺瞞であるとする攻撃はファシズムコミュニズムに共通する。ファシズムコミュニズムは作用と反作用として両者が補強しあう関係にあった。一方は国民主義の、他方は普遍主義の病的な逸脱として。スターリンは反ブルジョアジー闘争という理由で何百万の人々を殺害した。ヒトラーアーリア人種の純粋を守るという名目で何百万のユダヤ人を殺した。
 なぜ20世紀の政治イデオロギーはこれほどまでに極端な粗野で暴力的なものになってしまったのか? 19世紀のヨーロッパでは、純粋に人間の意志の力だけで自由と平等を保障できると考えるようになった。現在の政治哲学はほとんどが19世紀に準備されたものであり、20世紀がそれにつけくわたものはあまり存在しない。
 19世紀と20世紀をわけたものは第一世界大戦であった。ロシア革命によって革命思想が復活したのである。革命とは人類の集団的幸福を歴史という場のなかで実現するという約束をいう。そこでは人間の意志の役割が強調される。革命の対語は宿命である。もしも、個人の自律を信じ、自由主義と民主主義を確信するならば、それは地上で実現されねばならない。
 宗教的願望が政治世界に注がれることになった。革命もまた救済への願望だった。私的な享楽にひきこもるブルジョア的性向を打破し、近代の自由世界に市民を蘇らせることができるものがあるとすれば、それは革命だけであるとされた。しかし近代社会は公益の観念を知らない社会なのである。とすれば、それは不可能な試みであるしかないのだが。
 フランス革命の最大の遺産は、政治が人類救済の手段となりうるという概念そのものであった。政治を神格化したのである。ファシズムは革命の精神を普遍性ではない別の目的に利用しようという試みなのであった。普遍主義と国民主義は両立するはずがない概念である。敵対関係にあるこの二つの宗教の戦いが人々を破局にと追いやった。
 (以上、本章をまとめた。このあとは第一次世界大戦の分析がつづく。)
 
 この部分を読んだだけでも、20世紀というのがつくづくと異常な時代だったということを感じる。橋本治氏の「二十世紀」(毎日新聞社 2001年)も20世紀がいかに変な時代だったのかということを縷々述べたものであった。何しろ橋本氏は「産業革命以前の「工場制手工業」の時代にもどるべきであると思う」という主張の人であるので、20世紀が変な時代であるのは当たり前であるのだが、現代の不幸は「いらないものを作って無理やり売りつける」ということでしか社会が成りたたなくなってきていることにあるのだとするのだから、究極の反ブルジョア思想であるのかもしれない。
 橋本氏の主張はかなり特殊なものであるが、本章を読んで感じるのは、ここで紹介されている反ブルジョア思想というのが、ナチスが崩壊しソ連邦が崩壊したからといって決して消滅したわけではないだろうということである。ポストモダン思想、反西欧思想もその系譜であると思われるし、反グローバリズムというのもまたその系列であろう。そもそも思想というもの自体が反ブルジョアとなる性向をもっているのかもしれない。なぜならブルジョアとは無思想の代名詞とされてきたのであるから。
 《人類の集団的幸福を歴史という場のなかで人間の意志の力によって》実現しようとする志向が非現実的で実現不可能なものであるということが広く認識されるようになれば、反ブルジョア思想はなくなるであろうか? その志向はどこかでキリスト教的な千年王国的あるいは黙示録的世界観に由来するので、西欧ではこれからも持続していくのであろうか?
 さらにいえば自由と平等への希求というものは、現在においても(少なくとも西欧世界においては)最大のイデオロギーであり続けているとすると、これからもブルジョア嫌悪は続き、形を変えたファシズムコミュニズムがこれからも出現してくる可能性があるということなのだろうか? 自由と平等への希求は本来絶対に地上においては実現されないものであるにもかかわらずそれを求め続けるならば、どこかでまた将来、何かの爆発がおきることもあるのだろうか?
 帰着するのは、人間が何か人間以上の存在になることをこれからも人間は求め続けるのだろうか?ということである。ただの人間であること(すなわちブルジョアであること)は少しも慰めにはならなくて、何かもっと別のものにならない限りわれわれは安心立命できないのだろうか? 
 そして一方では、自由と平等はひとに幸福をもたらすことはなく、ひとは何かに従属すること、もっと極端にいえば服従することのなかに、生の充実と幸福があるという見方も存在する。ファシズムには明確にそういう志向をもっていた。コミュニズムにおいても自由と平等をめざす党に絶対的に服従することに生きる意味を感じたひとも多かったのであろう。
 自分のことを反ブルジョア派であろうかと考えてみる。なぜか利殖といった方向のことが嫌いである。働いた結果でない収入というのがいやである。これは別に反ブルジョアといったことではないのだと思う。原口統三の「二十歳のエチュード」のなかの「武士は食はねど高楊枝。まったく僕はこの諺が好きだつた」という部分をいつまでも覚えているくらいだから、日本人の古い感性を引きずっているだけなのだと思う。とすると士農工商でもあって、自分がサムライであるとは毛頭思わないけれども、商を低く見るというところはあるのかもしれない。やはり反ブルジョアなのだろうか? フリードマンらのシカゴ学派というのはヒュームやスミスの後裔であると思うしポパーらとも通底するところがあり嫌いではないのだけれども、株への投資で利潤を得ることにはげんでいるところには違和感を感じる。恒産なければ恒心なしとはわかっているし independentな人間でいたいとは思うけれども、なんだかいやなのである。世が世であれば反ユダヤに走っていたのであろうか? 自分としては宵越しの銭はもたない江戸っ子の血を引いているのだけだと思っているけれども。
 医者というのは基本的に手工業の世界で働いているのだと思う。とすれば基本的に資本主義というものにまったくなじめていない人間である。反でもなく親でもなくブルジョアとは関係ない世界で生きているし、ブルジョアは好きでも嫌いでもなく別の世界に住んでいるひとということになる。そして自分のことをブルジョアであるとは思っていないから自己嫌悪とも縁がないことになる。
 しかしわたくしが若いころには自己否定という言葉が流行っていた。本書を読んで、それはまさにここでいわれている《ブルジョアの自己嫌悪》そのものの表現だったのではないかということを考えた。それは、《狭量で醜悪で吝嗇で平凡な人間》であることから《偉大で高潔で天分豊かな放浪者》への飛翔することを願望したものであったのだろう。「かれはやうやくその不安の正体に気づいた―激しい不安のつのるたびに、その一切の秘密は飢民のうちにはなく、自分がかくあるべき人間でないといふ意識になるのだと、窺かにおもひあたつたこともいくたびかしれなかつた」というのは福田恆存のチェホフ論の一節だけれども、自己否定というのはここでいわれる《自分がかくあるべき人間ではない》という自覚のことなのである。福田氏によれば、チェホフが敵としたのは自己完成、良心、クリスト教道徳、そしてその背後にひそむ選民意識と自我意識、である。とすればブルジョアの自己嫌悪を生んだのもまた西欧に伝統的なキリスト教の道徳観であるのかしれない。
 キリスト教は他の動物とは違い人間は神によって魂をあたえられている存在であるとする。その人間が狭量で醜悪で吝嗇なだけの存在であっていいのか、ということになる。そして革命への願望も人間はもっと崇高な存在であるはずだとするキリスト教的な見方があって、はじめてでてくるものなのかもしれない。西洋政治でいわれる革命は、中国でいう易姓革命とはまったく異なる。易姓革命は単に王朝の交代を説明するだけのものである。王朝が交代しても人間が前の王朝のときと違った人間になるわけではない。それとは違って西欧における革命は怪力乱心に属する話なのであって、本書でもいわれているように宗教的なエトスの世俗版なわけである。
 竹内靖雄氏は「世界名作の経済倫理学」で「ジェイン・エア」を論じて、「19世紀は、産業革命があったり科学の発達があったりしたといっても、どこか18世紀よりも退行してしまった時代、18世紀よりは確実に野暮と愚昧の支配した時代であったように思われる」といっている。これは主として宗教への態度のことをいっていて、「高慢と偏見」のころの人間は、神というものを懐疑的にあつかい、神がいないとしても人間は大丈夫やっていけるのではないかというところまで頭が働くようになっていたのに、「ジェイン・エア」ではすっかり神様を信じて神頼みの人間となっていることを指している。とするならば、20世紀は19世紀よりもさらに退行した時代ということになるかもしれない。なにしろ政治という神様なしには過ごせなかったわけだから。
 自分をふりかえってみると、してきたことは、自分の中にある程度あったキリスト教的なもの(およびその変奏)をどのようにすれば捨てることができるかを考え、それに努めることであったような気がする。