梅田望夫「ウエブ時代をゆく −いかに働き、いかに学ぶか」 (1)働くということ

 ちくま新書 2007年11月
 
 本書を読んでいある間、ずっと村上龍氏の著作のことが頭に浮かんでいた。たとえば「13歳のハローワーク」であり、「希望の国エクソダス」である。本書の主題がサバイバルであり、若者の仕事であることからであろう。梅田氏は本書の最後のほうで、「若い人たちを見ていて、とにかく生きのびてくれよ、とんでもないことも色々あるこの世の中で何とかサバイバルしてくれよ、といつも願う」と書いている。また「日本社会のシステムにうまく合わずに苦しんでいる人たち」にむかって、これらの時代は君たちにもチャンスが広がる時代なのだと激励している。
 本書は前著の「ウェブ進化論」に対応するものである。前著が現在進行しているウェブ時代という地殻変動がどういうものであるかを読者に伝えることを第一義にしていたのに対して、そういう時代に特に若い人たちがこれからどのように生きていったらいいのかを論じることに重点がおかれている。前著では大企業の経営者のほうにもむかって、今シリコンヴァレーでおきていることが理解できないとあなたの会社の明日はないですよ、ということも語りかけていたのだが、本書ではもっぱら語りかける相手は若者である。日本の大企業の経営者はいくらいっても変化するそぶりもないので、語っても徒労であるということになってきたのだろうか?
 「13歳のハローワーク」で村上氏は「仕事は、わたしたちに、生活のためのお金と、生きる上で必要な充実感を与えてくれます」といい、「仕事・職業こそが、現実という巨大な世界の「入り口」なのだと思う」という。世の中には2種類の人間がいて、それは「自分の好きな仕事、自分に向いている仕事で生活の糧を得ている人と、そうではない人」であるともいう。村上氏は自分が小さなころからサラリーマンには向かないといわれ続け、自分でも絶対にサラリーマンにはなるまいと思ったといって、13歳の子供たちにも「サラリーマンとOLを選択肢から外して仕事を考えろ」という。
 「誰にでもできる恋愛」で村上氏は、「恋愛する資格があるのは、リスクを負える人間、自立した男女だけ」だという。日本では「自分のために」努力をするという概念がない、とっくの昔に個人の時代に日本はなっていて、一人で生きていかなくてはいけない時代になっているのに、ほとんどの男がそれに気づいていないという。必要なのは確固たる職業を持つことであるのだが、それを確信して、そのために努力している男はとても少ないという。日本の男たちは一様に働く目標を見失っている、システムが個人を支える時代は終わったのに、まだシステムに頼ろうとしているという。なぜ、「世間」に惑わされないような、面白いと思える仕事をもとうとしないのか、自分だけは、何とか充実した人生を送れるように努力せよ、これからは新しい階級社会が生まれるのだ、努力しなかった人、訓練を何も受けていない人、技術が何もない人、醜い人、才能がない人、頭が悪い人、そういう人たちは最低の人生を生きるようになるだろう、という。実力とはその人に何ができてどういう可能性があるかということである、学歴ではないという。昔はよかったということはない。今は自分の生きかたを自分で選べるのだ。昔の日本システムは個人を抑圧するものだった、というよりも、個人という概念が最初からない社会だった。今のほうがいいのだ、という。
 梅田氏はさすがにそこまでは言わないが、これからの時代では、「ある分野を極めたいという意思さえ持てば」「能動的で」「好き」を見出した人でさえあれば、「自分の頭で考え続け、どんなことがあっても絶対にあきらめない」人であれば、「やる気」があり「勤勉で戦略性」があれば、「自助の精神」さえあれば、総じていえば、「志」のある人であれば、「のほほん」と「フワフワ」と生きている多くのひとよりも絶対的に有利な立場にたてるのだという。そういうひとであれば、たとえ大組織適合性の低い人であっても、これからのネット時代においてはいくらでも可能性を伸ばすことができるという。
 ここで梅田氏があげているような条件を満たすひとであるなら、どこで働いてもうまくやっていけるであろうと思う。梅田氏のいいたいことは、そういう人なら大企業に就職するより(村上氏の言い方によれば、サラリーマン・OLになるより)、もっとずっと充実した生きかたがあるぞということなのであろう。
 ここで関係してくるだろうと思われるのが、「ウェブ進化論」で提示された、エリート(1万人):大衆(1億人)という二分法にかわる、エリート(1万人):総表現社会参加者層(1千万人):大衆(1億人)の3層構造論である。総表現社会参加者層すなわち「あるレベルの知をもった人たちの層」というのが本書で想定されている読者層なのだと思う。そういう人たちは従来ならば既成の大会社組織に入っていった。しかし、これからのネット社会においてはもっと別の選択肢もある、おそらく別の選択肢の方がハッピィかも知れないぞということということである。確かに大会社においては個々の人間の裁量権はとても狭い。すぐに別のひとの裁量権とぶつかる。そして仕事のエネルギーの相当部分がお互いのテリトリーの確認と調整に費やされる。そういうことのために本来の能力が生かされないとしたら無駄ではないか、その人もアンハッピィではないかということである。
 梅田氏は、こういう中間層を生かす条件を提供したのがウェブ時代の到来なのであるという。一方村上氏は、日本が近代を達成して、組織の時代から個人の時代へと移行したことが仕事に対する見かたを変えたのだという。梅田氏は1975年をひとつの時代の区切りとしている。また東浩紀氏はポストモダンの時代というのは概ね1970年ごろからはじまるとし、その特徴は「大きな物語」の消失であるとする。村上氏も「近代化が終わるということは国家的な大目標がもう終わったということで、そのあとは国家から個人へと価値観をシフトしていかなかればならない」にもかかわらず、「それがまったくできていないし、それが必要であるというというアナウンスもされていない」という(「寂しい国の殺人」)。
 ウェブというものが時代を変えたのか、近代化したあるいはポストモダンへと変化した時代に生きる人々に、特にその中間層に、ウェブの存在が大きなアドヴァンテージをあたえているのか、どちらなのだろうか?
 梅田氏はもともと強い個をもったひとで(大組織適合性が低いというのはそういうことなのだろうと思う)、それがゆえになんとなく日本では生きがたいところがあったが、ウェブ時代となって個が開花できるようになってきたことを強く感じている。そして日本においていまだ頭を押さえつけられている人々、そのためになんとなく元気がない人々、とくに若い人たちに、元気を出せ、未来には無限の可能性がある、ということを伝えたいのであろう。リスクをとる、ほんの少しの勇気さえあればいいのだからと。
 「啓蒙的なアナウンスメント 第1集」での村上氏との対談で玄田有志氏が、日本の若いひとたちで自分で起業したい人たちの割合がどんどん減っていて、自由に働きたいどころか正社員になりたいひとが増えてきていることを指摘している。この本は4年前のものだから今とは少し違うかもしれないが、玄田氏は、経済的困窮から多くの人が解放されると「お金や地位を追い求めるよりも、やりたいことがしたい」という気持ちになるのは当然だが、多くの人にとってそれを自問自答の中からみつけることは難しく、とにかく働いてみること、自分とは異なるひとの中に混じっていくことから自分がしたいことを見つけていくしかないのだといっている。玄田氏のいっているのは、1億人の大衆のほうの話しなのであろう。そこはアドレナリンがとても不足した世界である。
 一方、本書で描かれるのは1千万人の中間層の中でも大分上のほうにいるアドレナリンが豊富な人たちであるような気がする。日本でソース・コードを書ける人というのはどのくらいいるものなのだろう?
 格差社会とか下流社会などといっている言論人は、可能性を秘めたひとを潰している可能性があると梅田氏はいう。確かに今までは努力してもいかんともしがたかった社会であるのかもしれないが、これからは同じ努力で動かせるかもしれない、その可能性をはじめから、何も努力もせずに否定するな、ということである。
 梅田氏はオプティミズムをいうのであるが、「ウェブ進化論」に較べると少しトーンが落ちてきているような気がしないでもない。前著においてはウェブが日本社会全体を変えていく!という論調であったが、本書においてはウェブを利用して若者よ、日本を変えよ!という方向に(あるいは変えてくれ!という方向に)いささか後退しているようにも思える。存外に日本の既成社会の壁は厚いということなのだろうか?
 そのことは、「希望の国・・・」などともあわせ、また稿をかえて考えてみることにしたい。
 
 (本書は梅田氏より贈呈いただいきました。感謝します。)
 

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)