梅田望夫「ウェブ時代をゆく −いかに働き、いかに学ぶか」(3)個と共同体と公共

 
 個と共同体というのは日本の思想の根っこにある大問題で、これについてはこれまでも数え切れないくらいの文章がかかれてきている。梅田氏はこの問題自体を論じようとするのではなくて、ネット時代が個あるいは共同体にどのようなインパクトをあたえるかという点からきりこむ。
 「ITの歴史とは、「個」の可能性を押し広げ「個」を開放する方向での理想を掲げた人たちの主張が、長い目で見れば、必ず実現してきた歴史なのである」と梅田氏はいう。しかしそれを実現させる前提として、「個」が精神的に自立していることが大事であるともいう。つまり、ネットが「個」を自立させるのではなく、自立した「個」にとってネットは大きな武器になる、ということである。従来も組織やコミュニティから自立していたひとはいた。しかし、そういう人が組織と対抗して能力を発揮することはなかなか容易なことではなかった。ネット時代では、自立した「個」が本来の能力を発揮することは、以前にくらべて格段に容易になってきている、ということである。
 時代が変わったからといって、ただ受身で何かが自分にあたえられるのを待っているひとにはネット時代は何もあたえてくれない。組織や共同体の論理に埋没するのではなく、それらの価値観から自立し能動的にネットにかかわる人にだけ、ネット社会は微笑みかけてくれることになる。
 従来の《日本の思想》においては、いかに自立した「個」をつくっていくかということが論点になっていた。本書はその点にはかかわらない。従来は、自立した「個」は往々にして組織や共同体に潰されてしまうことがあった。しかしこれからは自立した「個」には強い味方がいる、それがネットである、だから自立した「個」はこれからは自信をもって生きていけるのだ、というのが本書のメッセージとなっている。本書で想定されている読者は自立した「個」である。
 この「個」が「私」でないという点が要注意である。「私」の反対が「公」である。自立した「個」とは、何かしたいことがあるが、それを組織を通してではなく、あるいは組織によってしたいことを曲げられることなく、実現したいひとである。そのしたいこととは珍しい蝶々を集めるといったことではない。それなら「私的」なことの範疇にはいってしまう。もちろん珍しい蝶々を集めることについても、ネット社会になってから、格段に情報収集が容易になっているであろう。しかしそれは学ぶということには関係するが働くということとは結びつかない。
 本書で挙げられている例の一つに将棋の世界がある。ここでの「高速道路」説も学びについての論であると思う。従来に較べて、「個」が組織に属さずに生きられるようになったという例では必ずしもないように思う。ネットの世界は「学び」についてはずっと開かれた世界であると思うが、「働く」ことについてはまだそれほど広々と開かれた世界にはなっていないように思う。
 「私」と「公」は対立するものであると思うが、「個」ということになると、特にそれが自立した「個」であれば、「公的」なものパブリックなものと必ずしも対立することにはならない。
 ローティの「偶然性・アイロニー・連帯」の序論の冒頭。

 「公正であることが、なぜ利益になかうことになるのか」という問いに答えようとするプラトンの企てと、完全なる自己実現は他者への奉仕を通じて達成しうるとするキリスト教の主張の、双方の背後にあるのは、公共的なものと私的なものとを融合しようとする試みである。(中略)この試みは(中略)私的な生の成就と人間の連帯の根源は同一なのだ、と信じることを要求する。

 ここで自己実現といわれているものが私的な生の成就なのであり、他者への奉仕は公共的なものである。それは無前提的には同一の根の上に生じるとはいえないのであり、そうであるからこそ、それは共通の根源を持つという主張が提示されてくることになる。本書のサブタイトルは「いかに働き、いかに学ぶか」である。「学ぶ」という部分は私的な生の成就に属すると思われるが、「働く」という部分が公共的なのであるといえるかということが問題となる。
 民主主義とは私的な権利の要求である。だからこそ民主主義は私利私欲の追求をもっぱらとする制度であり、人間の根源にある公共への奉仕という感情を枯らしてしまう忌むべき制度であるという批判は、ごくありふれたものでさえある。それならば、ネット社会は「個」の追及をパブリックへの奉仕と結びつけることができるのだろうか? つまり、民主主義の弱点を補強しうるものであるのだろうか? 内にこもった「私」を外に開いた「個」へと変える力をもつのだろうか?
 わたくしの読み方が間違いでなければ、梅田氏が「私」を「個」に変える力を持つとしているのは、意欲とか能動性といったものではないかと思う。ネット社会がその力を持つとしているのではないように思う。意欲をもち能動性をもつものであれば、ネットの方に惹きつけられるに違いないという方向であるように思う。なぜならネットは「個」の自立を助け「個」を開放する力を持つから。ネットは意欲のあるものにしか微笑まない、もちろん、意欲あるものにも微笑まないことはあるのだが、少なくとも意欲のないものはそこから何らの報酬も期待することはできない。
 意欲のないものがネットにかかわっても、そこで単に消費(浪費?)をするだけである。そこに何物をもつけくわえることはない。単なる消費はパブリックに通じる道をもたない。一方、組織の原理に疑問を抱かず、その原理にしたがって生きることになんら問題を感じないひとにはそもそも「個」がないわけだから、その人は自分に疑問を抱くことがなく、したがって疑問に答えるために「学ぼう」という動機が生じることもない。とすれば、「個」を追求することがパブリックへと通じる可能性を持つのは「能動性をもつ個」においてだけということになる。
 これは前著「ウェブ進化論」での、「「みんなの意見」は案外正しい」といった本を紹介しての、「不特定多数無限大を信頼する」としていた方向とは微妙に異なってきているのではないかと思う。「ウェブ進化論」では、グーグルを思想的には「不特定多数無限大」を信頼する会社ではなく、「ベスト・アンド・ブライテスト」を集めての才能至上主義的唯我独尊経営を志向する会社であるとして、それがグーグルのアキレス腱であるとしているように読めたのだが、本書ではウェブの世界こそが、「ベスト・アンド・ブライテスト」が才能を発揮できるもっともよい舞台であるという方向に舵がきられてきているようにわたくしには読めた。「不特定多数は衆愚」と信じる側の人間であったわたくしには「ウェブ進化論」は大変な驚きでありかつ新鮮な視点の提示した本であったのだが、本書では信頼の対象が「不特定多数無限大」から「ネットに積極的に参加してくるような自立した「個」」へと限局されてきているように思う。
 そんなことを考えていたら、内田樹氏の「村上春樹にご用心」(アルテスパブリッシング 2007年10月)で「雪かき仕事」という言葉にぶつかった。これは本書の「人はなぜ働くのか」へのひとつの答えである。ということで、「雪かき仕事」についてはまた稿をあらためることにする。