梅田望夫「ウェブ時代をゆく −いかに働き、いかに学ぶか」(8)飯を食うこと
仕事については二つの見方があると思う。自分のためのものという見方と、仕事は他人のためのものという見方である。自分のためという見方も、仕事の中でこそ自分が生かせるという方向と、自分がとにかくも食べて生きていくという方向にさらにわかれる。「ウェブ時代をゆく」は明らかに仕事は自分のためという立場で書かれている。もちろん、その中でもさらに自分を生かすという方向である。自分のしたいことをして生きていくことが一番幸せであって、仕事は金銭のためにするのではないという立場である。今までは、したいことをして食べていくということは極めて困難であった。しかしネット時代になってそれが可能になったのだから、若者よ希望を持とう、というのがメッセージとなる。Boys Be Ambitious! 新たなフロンティアが見つかったのだ!
梅田氏の立場からは、したくないことでも飯を食わなくはならないからやむを得ずしている仕事は不幸であることになる。この立場は「13歳のハローワーク」の村上龍氏の主張ときわめて近い。わたくしが本書を読んで、すぐに村上氏のことを思いだしたのは、そのためであろう。
梅田氏の立場からは、したいことをして生きていけるひとは、したくないことを飯を食うためにやむを得ずしているひとよりも幸せなのだから、したいことをして金持ちになれるひとが一番幸せであることになる。しかし、梅田氏の立場は微妙である。それはしたいことをするのは「自分のため」であるからで、そこには他人のためという動機がなく、公共との接点を欠くからである。ハッカー倫理と深い親和性をもつリバタリアニズムからみれば、ひとがしたいことをして金持ちになることはなんら批判されることではない。むしろ賞賛されるべきことである。
東浩紀氏は「情報自由論」で、これらのハッカー倫理への批判のいくつかを、サイバーリバタリアニズムというくくりで紹介している。ハッカーたちが自由を求めるのは、すべてのひとに平等に競争の機会があたえられるべきだとするからであり、その裏には自由な競争のもとでは情報技術に精通したハッカーこそが当然勝利者になる予定されていて、競争の結果、自己の能力で勝利をえたものには、大富豪になる自由もまたあたえられていることになる。またハッカーたちのアメリカの建国精神への共鳴も紹介し、バーロウというひとの「サイバースペース独立宣言」をその例として挙げている。かれらの思想を批判するひとは、それをカルフォルニアイデオロギーと呼ぶ(バーブルック&キャメロンなど)。
梅田氏もハッカーたちのリバタリアニズムには必ずしも共鳴してはいないようである。だからこそ、ビル・ゲイツの態度が賞賛されるわけであるし、好きなことを追求することが、そのまま「他人のため」と結びつく道がないかが探求されるわけである。氏があれほどオープンソースにこだわるのは、それが無償の行為であるために、最初から「他人のため」という方向性を目指しやすいためであると思う。また、オープン・ソースの中心人物と片腕たちくらいには何がしかの報酬が与えられてもいいのではないかと考えるのは、ハッカーたちの努力はやはり報われるべきとも思っているからである。「人生をうずめる」ほどそれに貢献しているひとには、はやり何らかの報酬があたえれてしかるべきではないか? だが、そうかといって、オープンソースの中心人物の一人勝ちも困る、それはオープンソースという出発点に反するということになる。
このあたりの議論が今一つすっきりしないのは、「自分のしたいことを仕事として生きる」ことに対置されているのが、「雇用関係や金銭的契約にもとづきやむなく強制されて働く」というものであるからではないだろうか? しかし、「自分のしたいことを仕事として生きる」に対置されるべきものは「他人の必要に応えて働く」なのである、と思う。
《働くというのは他人の必要に応えること》という橋本治説を知ったのはもう10年くらい前であるかもしれないが、はじめて働くということの意味がわかった気がした。橋本氏はそれとともに、人間というのは他人との関係の中で生きることをするものであり、われわれが一番簡単に他人との関係を取りむすぶことができるのは、仕事をとおして、働くということをとおしてであるともいっている。
最近刊行された「養老訓」という何だかふざけたタイトルの本で、養老孟司氏もまた同じようなことを言っている。
もちろんある程度の能力が評価されるのは当然です。しかし、その評価方法があまりに幅を利かせると、偉くなった人は「俺が能力があるから偉くなったんだ」と考えるようになります。そうすると、仕事が世間のために必要だから存在していて、あくまでも自分はそのお手伝いをしているのだという考えが消えてしまいます。本当はそれが肝心なことのはずなのです。
だから、
昔の企業にはどこかで「世のため、人のため」という考えがありました。たとえば松下幸之助さんにはそういう考えがあったはずです。今の人の考えだと、それは建前だとか売名行為だとか思うかもしれません。「企業イメージをアップさせるためのきれいごとでしょ」と。でも松下さんにはどこか本気でそう思っているところがあったのです。
ひとが必要としているものを作って提供するのであれば、他人の必要に応えているのであるから、それは当然、世のため人のため、である。
ところが能力主義、業績主義を徹底させていくと、その考えが途絶えてしまうのです。「仕事は自分のためにやっている」という考えが能力主義、業績主義の根底にはあります。「自分に能力があるから、会社の業績を伸ばせたのだ」「会社の業績が伸びのだから、自分が偉くなるのは当然だ」という考えです。ここにはまず「自分」が先にあります。そのせいで世のため、人のためという気持ちがなくなるのです。
自分がしたいことというのは、それだけでは世の中とはつながらない。
仕事というのは世の中からの「預かりもの」です。歩いていたら道に穴が空いていた。危ないから埋める。たまたま出くわした穴、それを埋めることが仕事なのです。・・
それでは、自分というものがどこにもなくなってしまうではないか?
もちろん、自分の人生のすべてが「世のため、人のため」では大変です。どこかで自分のため、という生活がないといけません。・・
小林秀雄は『本居宣長』でこのバランスについて書いています。本居宣長の表向きの仕事は、「伊勢松坂の医者」です。決して医者としては出すぎず、きちんと働く。それで「世の中に対する仕事」をつとめているのです。
そのことと彼自身の人生はまた別にありました。それが国学の研究です。鈴屋二階の四畳半にあがったら、そこは個人としての本居宣長の世界があったのです。本業にかかわらない以上は、どんなに研究してもかまいません。
養老氏がいっていることは、普通は自分がしたいことが世のため人のためになるなどといううまい話はないということである。あくまでひとが世の中とつながるのは他人の必要に応えるという部分である。そして他人の必要に応えるひとがいるからこそ、世の中がまわっていく。
安月給だろうがなんだろうがその仕事をこなすことができる人が、きちんと働いてくれないと世間は持ちません。
個人が「こうしたら効率がよく儲かる」ということを第一にして働くと、社会システム全体の効率は非常に悪くなるのです。・・仕事は社会のため、みんなのためのものというのが大原則です。
内田樹氏の「雪かき仕事」を思いだす話ではないだろうか? 内田氏はそれがないと世の中がまわらないなどというけちなことをいうのではなく、それがないと世界が崩壊するというのであるが。梅田氏ももちろん、「雪かき」仕事の大切さは充分に認識している。「与えられた仕事」「つまらなくてもやらならなければならない大切な仕事」を組織の全員が分担しながら黙々とこなすことがとても大切であることを認める。ただし、大組織の日常において。ということは、そういう「雪かき仕事」がないことが小組織のいいところであるというようにも読めてしまう。
大組織もそういう「雪かき仕事」の部分はなるべくアウトソーシングと称し本体から切り離して、「自発性や能動性に依存した」仕事だけを内部に残す方向で動いているようにわたくしは思う。とすると現在ある小組織の多くは、そういう大組織からはみだした「雪かき仕事」の部分を担当しているのではないだろうか?
不特定多数無限大のひとの中にはこういう雪かき仕事を専門にしている人がたくさんいるであろう。梅田氏は前著では、《「不特定多数無限大の参加は衆愚を招く」と根強く考える人たちに、「百歩譲って一億人なら衆愚かもしれないけれど、1000万人だったらどうでしょう」》としていたのだが、本書では、いつのまにか百歩譲ったことがどこかに消えてしまい、1000万人の部分にだけ話が収斂してしまっているように思われる。
もしもグーグルという組織に弱点があるとしたら、それがあまりにピュアな組織であること、多様性を欠く組織であることにあるのではないかと、わたくしは思う。梅田氏によれば、小組織がうまくゆくためには、「情報共有」と「結果志向型実力主義」という組織原理が大事なのだが、そのうちの「結果志向型実力主義」では仕事は「自分のため」にするのであって「世のため人のため」ではない。つまり「雪かき仕事」とは相入れない。一言でいえば、グーグルという会社にはどこにも泥臭いところがない。頭だけあって体がないよう組織であるように、わたくしには思える。それはあるときには大いなる強みであると思うが、別のときには途方もない弱点ともなるように思える。
それの弱点が露呈しないように、グーグルはつねに非常時の熱気を保っていかなければいけないのだろう。「電子立国日本の自叙伝」で見られた「熱さ」をもはや日本の企業の多くは失ってしまっているだろう。わたくしは、そのような「熱さ」をいつまでも保っていくことは、どこか人間性に反しているのではないかと思う。「熱く」なりというのは、どこかで自分を見失うことでもあるのではないだろうか?
高速道路を走っていって大渋滞に巻き込まれてしまった時、「高く険しい道」を目指すか、降りて道標のない「けものみち」を歩いてゆくかの二者選択しかないというのでは、とてもつらく苦しい。何もそんなに悲壮に考えなくても、「雪かき仕事という第三の道もあるさ」と思えば、楽になるひとも多いのではないだろうか。
本居宣長はたまたま医者だったわけだけれども、わたくしの場合も、「世の中に対する仕事」は医者としての仕事であって、鈴屋二階でしているのがこのブログを書くことになるのだろうと思う。それはまったくわたくし個人のためのものであり、「世のため人のため」などということは考えてもいない。わたくし自身のための備忘録であり、最初は野口悠紀雄氏の「ホームページにオフィスを作る」(光文社新書2001年)に煽動されてはじめた。煽動にのってすぐにはじめるおっちょこちょいなところは時代にあっているのかもしれないが、時代の変化というのはおそろしいもので、この2001年の本では、検索エンジンのことはほとんど考慮されていない。インターネット上にホームページを作っても誰も見ないかもしれない、インターネットは集客にむかず、商売にならないし、そこで利益をあげようなどと考えないほうがいい、とされている。では誰が見るのかといえば、自分、仲間、企業内部が想定されている。野口氏は、それはあくまで自分のための道具であって、いつでもどこでも自分の資料を参照できることのアドヴァンテージを、自分でホームページを持つことの最大の利点としている(わたくしの場合には、最近、職場からこのブログにサクセスすることができなくなってしまった。業務外使用禁止とか、情報漏洩防止とかのためにアクセス制限が強化されたためである。したがって当初の目的としては、現在は、大部分の時間には使えなくなってしまっている)。
もしもわたくしがブログを書くことにかすかにでも公共的な意味があるとすれば、出版社の方に対してであるかもしれないとは思っている。本の中には数千部しか出版されないようなものもあるわけだから、そういうベストセラーとは縁のない書物の場合には、わたくしは数少ない読者の一人であるわけである。その場合には、どういう関心からわたくしがその本を手にとり、どういう感想をもったかということは、ある程度有用な情報にはなるのではないかと思う。
グーグルの場合には、世の中に対する仕事の部分が「世のため人のため」とつながる広告であり、鈴屋二階の四畳半にあたるのが「世界中の情報を整理し尽くす」ことである。ところがグーグルにとっては大切なのは「世界中の情報を整理し尽くす」ほうであって、広告のほうは、それを実現するための手段にすぎない。バンド活動が生きがいで、そのためバイトに精を出している若者のようなものである。あるいは広告というパトロンを見つけた「情報整理」という作品しか眼中にない芸術家のようなものである。昼は広告をなりわいとし、夜は自分のしたいことをする、という関係であろうか。
ところがグーグルの場合には、夜の自分の部分がしたいことが広告というリアルの世界の商売ときわめて密接に結びついている。しかし通常の商売の場合と論理が逆になっている。今までよりも有効な広告の手段を開発しようとしたら、そのために世界中の情報を整理し尽くすことが有用であることが見えてきたのではなく、したいことをしていたら、それが商売になることがわかったのである。グーグルが構築したきたものが、たまたま広告を提供するこ場としても極めて有効であることが判明した。それで、グーグルは自分のしたいことに猛進できるようになった。それがなかったら、グーグルはどこかで挫折していたかもしれない。とすればグーグルは運がよかったということなのだろうか?
日本の詩人で詩だけで食べている人は谷川俊太郎さんだけなのだそうである。現代音楽の作曲家では武満徹さんだけだったかもしれない。武満さんも偶然ストラビンスキーに発見されなければ無名のままだったかもしれないし、谷川さんも谷川徹太郎の息子ということがなければどうなっていたかわからないようにも思う。本人の才能はいうまでもないが、運がよかったということもあるのだと思う。
ただ飯を食えるようになっているということでは生き残っているとはいえないのだろうか? 自分のしたいことをして飯が食えることが生き残ったということになるのだろうか?
必要なのは、自分が誰かに必要とされていることと、自分が自分であるということの二つなのであろう。前者が働くということであり、後者が鈴屋の二階である。鈴屋の二階を持つということが自立するというなのであろう。しかし自立した自分の部分が世の中から必要とされる保障はまったくない。あるとしても偶々であり、運がいい場合だけである。
梅田氏が本書で描いているのは、グーグルの成功例のように、幸運の事例であるように思う。しかし、世の中には運が悪い場合もたくさんあるし、自分のしたいことが少しも世の中と接点を持たない場合もあろう。そういう場合でも、とにかく世の中で出ていって、何とか飯を食おうとするならば、自分がともかくも世の中と接点をもてることにはなる。
無償の行為というのは、それが世の中の必要とどうかかわっているのかが見えないものである。オープンソースから生まれるものがいつも世の中の必要に応えるものばかりとはいえない。
しかし、それでいいのだと思う。自分が面白いと思うものができたのであれば充分である。まして、それが一人でも二人でも他人の共感を呼んだのであれば、もういうことはないのではないだろうか? 自分が他人にともかくも必要とされたのである。鈴屋の二階が産んだものが後世に大きな影響をあたえることになったのは必然ではないと思う。運がわるければ、四畳半に埋もれたまた後世に伝わることがなかった可能性もあったのではないだろうか?
そういう問題に関し、梅棹忠夫氏は「わたしの生きがい論」(講談社 1981年)で以下のようなとんでもないことをいっている。なお、これは1970年におこなわれた講演の記録である。
なぜ人間は科学をやるのか、人間にとって、科学とは何か。これは、わたくしはやっぱり「業」だとおもっております。人間はのろわれた存在で、科学も人間の「業」みたいなものだから、やるなといっても、やらないわけにいかない。・・真実をあきらかにし、論理的にかんがえ、知識を蓄積するというのは、人間の業なんです。・・こんにち、もう大部分の専門論文は、分野にもよりますけど、世界で三人くらいしかよんでくれないというのが、いくらでもあるんです。それで結構です、場合によっては一人もよまなくて結構です。
これはおのれのたのしみのためにかいたのであって、だれもよんでくれなくてもいい。・・わたしなんかは、じつは、こういう科学こそ、人間の精神活動におけるもっとも神聖な領域に属している行為だとおもっているんです。・・
さらに、氏は続ける。
今日では「くう」ということからはなれた文学もたくさんはじまっている。文学ないしは擬似文学、何か文学らしきものをかいている人というのは、こんにち世界でおびただしい数になりつつある。これは工業時代の一つの成果として、教育がたいへん普及したことの結果なんですが、それによって自分で本もよむし、自分自身かくようになった。かく結果、作品がいっぱいでてくる。印刷されないかもしれない。印刷されても、だれもよまないかもしれない。
じつは、日本の文学は、かなりはやくからそういう形態に接近しているんです。俳句とか和歌はそうでしょう。いろいろな俳句の雑誌、和歌の雑誌がでていますね。新聞には俳壇、歌壇というのがありますけど、あれをよむのはおそらく本人と選者とぐらいでしょう。あと、だれがよむものですか。しかし、あれは何かたいへん、その作者の人生にはりあいをもたせているんですね。つまりあれは、自分のための文学という、文学の究極的な形態を先どりしているのかもしれません。
今日のブログの大部分も、この俳句・和歌であると思う。誰も読まなくても、少なくとも自分にとっては張り合いである。まして、一人でも二人でも読んでくれるひとがいれば、もういうことはないのではないか? だから、
壮大な長編小説、ごついのをがんばってかいて、ああできた。ところが、だれもよまない。しかし、それでちっともかまわないではないか。そういうものですね。これは、いうなれば家庭菜園です。家庭菜園で立派なトマトができた。そんなもの、だれも感心しません。自分ひとりでよろこんでいるだけです。
しかし、それでいいじゃないか、ということです。大規模にトマトを栽培してうりだすとかすると、いろいろと問題がおきる。人さまにご迷惑をおよぼすわけです。自分で、自分のところでやっているのなら別になんということはない。・・
現在、潜在的にみんながかんがえているのは、そういう意味での人生のつぶし方だとおもうのです。どうせ死ぬんです。死ぬまでの、生きているあいだの人生をどうつぶしたらいいのかということが、なかなかわからない。・・
凄い話になってくるが、「わたしの生きがい論」の副題は「人生に目的があるか」であって、梅棹氏は、そんなものはないと断言する。「人生というのは「ある」のであって、目的も何もあったもんじゃない」という。なんだか実存主義という感じがするが、梅棹氏は、自分の思想は老荘思想からきているという。
この「わたしの生きがい論」は、このエントリーを書いていて中途まできたところで思い出した。それで、書棚から引っ張り出してきたのだが、実は、上記に引用した「未来社会と生きがい」という主論文を読んだだけで、あとの講演は読んでいなかった。今度、なんとなく目を通してみたら、あまりに面白いので、つい全部読み通してしまった。梅棹氏は、人生の目的ということを、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトから説く。ゲマインシャフトは定義からして目的がない。最小のゲマインシャフトは個人である。当然、個人には目的がない、一方ゲゼルシャフトは同じく定義からして目的をもつ。目的をもつからこそ組織が成立する。目的をもたない個人が目的を持つ組織の中で生きる、そこに梅棹氏は現代のさまざまな問題の起源を見出すのである。
最初の「キバと幸福」という講演は1960年、まさに60年安保の年の講演である。ほとんど半世紀前になされた講演であるが、梅田氏が本書で提示している問題の起源をそのまま提示しているように読める。
明治以前の社会では、人間の一生は、比較的固定されていた。住む場所も職業も自分で選ぶことはほとんどできなかった。明治維新、明治革命は、下級のみじめな生活の人間が、能力と志さえあれば、たちまちなんにでもなれる時代をきりひらいた。すべては才能と努力次第である。青年の理想は社会的に急上昇することであり、明治は希望にみちた時代であった。目標は「成功」であり「立身出世」であった。学問もまた「成功」のための手段であった。立身出世の時代は自由競争の時代でもあった。この時代はまだ個人は家を背負ってはいたが、それでもこれらの原理は近代日本の民衆のエネルギーを開発した。その結果、有能な個人が続々とあらわれた。このころの日本はチャンスに満ちていた。自由競争の中で、明治の青年たちはキバで武装したイノシシとして猪突した。このチャンスにみちた時代においては、野心や大望、あるいは希望をもたないような人間には成功のみこみはなかった。だから、Boys Be Ambitious! なのであり、次々にあたらしい産業、あたらしい職業が生まれていた。フロンティアに満ちあふれた時代であった。気力のある青年は大望をもち、野心をもって邁進した。
だが、それらの青年たちの奮闘の結果できあがったものは、整然たる社会体制であり、みごとな組織なのであった。それは自由競争を否定する体制、巨大な官僚体制であった。自由な競争が結果として自由競争を否定する体制をつくりあげたのである。そこに日本の問題の多くが胚胎する。いつか気がつけば、何をしようにも精密なルールがある社会ができあがっていた。何らかの組織、あるいは系列に属さなければ、そもそも社会の中で存続さえゆるされないような社会になってしまった。給料生活者という形態が普通のものとなって「組織と管理の時代」となり、「サラリーマンの悲哀」という言葉が生まれた。フロンティアは消失した。大志、大望、野心というようなものは姿を消していった。
それは絶望の時代であるかもしれないが、同時に快適な時代でもある。生活は快適になった。青年の理想実現の場は職場から家庭へと移った。人生の目標は幸福になった。社会の片隅でのささやかな幸せである。しかし、その幸福とは国家社会とはほとんど断絶したものとなった。明治においては個人の目標と国家・社会の目標とは一致していた。現代の青年たちはキバをうしない幸福なブタとなった。そういうイメージは嫌悪感をいだかせるものかもしれないが、いわば人間が一応いきつくところにいきついたのだ、と梅田氏はいう。とにかく飢えからは離脱したのだ、そこまでいかないと次へは進めない。
次とは、内面的価値にむかう方向である。いままでは一握りのエリートにしか可能ではなかった「内面的・精神的価値の探求」という方向が現代では万人に開かれることになったのである。実利的目的がないことへと、見返りを期待しない行動へとむかうことが可能になった、もう一度ブタにキバが生えてくるかもしれないのである。戦闘のためのキバではなく、精神のキバである。ちょうど60年安保のころの講演であるので、当時の全学連の行動は一種の無償の行為、実利から離れた精神的行為ともみられると述べて、氏は講演を終わる。
梅田氏の「ウェブ時代をゆく」が奇妙に分裂した印象をあたえるのは、一方では、ウェブ時代が明治維新にも匹敵する広大なフロンティアを有する希望の時代であるということをいい、他方では組織に属する人間も個を回復することが可能になった時代なのだをいっているからなのではないだろうか? 現代の問題への二つの回答が併記されているのである。
現在は組織がすべてを支配してしまった時代である。それに対して、1)しかしそれはリアル社会でのことであって、いままさに立ち上がりつつあるネット社会はフロンティアに満ちており、そこは能力と志さえあれば、なんにでもなれる場所、才能と努力次第の世界であり、社会的な急上昇も可能である。そこは希望にみちた世界である。成功をめざし、立身出世をめざすべきである。ウェブ・リラシーという学問もまた「成功」のための手段である。ネット社会は自由競争の世界であり、そこでは有能な個人が続々と頭角をあらわしてきているチャンスに満ちた世界なのだから、野心と大望と希望を持ってそこに参入せよ、というのが一つの方向である。もう一つは、2)なるほど組織の中では個人はなにもできないかもしれない。しかしもはや飢えることはない。組織に自分の全時間、全人生をささげる時代ではなくなってきている。精神の生活、知的生活が以前より容易に実現できるようになってきている。なにより情報へのアクセスが格段に容易になっている。以前ならば書物に囲まれたひとにしか可能ではなかった知的活動が、多くのひとに開放されるようになってきているのだから、これからは希望に充ちた時代である、という方向である。1)が若者用、2)が年寄り用なのかもしれない。
しかし、1)も明治時代の若者への煽動と違って、素直な立身出世の薦めにはならないのである。「世のため人のため」の活動であるということが強調され、しかも無償のオープン・ソース活動が賞賛される。えらく禁欲的であり、えられる見返りは他人からの賞賛であったり、達成感であったりする。巨万の富がえられるかもしれないぞ、ということは言ってはいけないのだろうか? 現実は巨万の富をえるひとなどはほとんどいなくて、そこそこの報酬にありつけるひとがいるという程度なのかもしれないけれども。それでも大組織にいてしたいこともできずにただ使われるだけよりは、どれだけましであるかということかもしれない。
1)も2)はそこからえられる満足が精神的満足であるという点でだけ共通点をもつ。とすれば梅田氏が本書でいいたいのは、ウェブ時代は精神の満足が得られる時代ということかもしれない。ネット社会が将来どのくらい広いフロンティアを提供してくれるのか、どのくらいの物質的満足を提供してくれるのかについて、いまひとつ梅田氏は確信がもてないのかもしれない。2003年に書かれた「13歳のハローワーク」ではITが新しい産業を生むだろうか?という点にかんしかなり悲観的である。まだウェブログという言葉に注釈がついているというのも時代の変化の早さを示して微笑ましいが、ウェブログが普及するとホームページを作る仕事がいらなくなるかもしれないというように、むしろITが雇用機会を減らす方向さえ議論されている。ここで議論されているのは、ITがリアル社会とどうかかわるかという方向の話であって、ネット社会というもう一つの地球が出現するというような方向ではまったくない。
ネット社会に有為な人材がどんどん参入してくれば、ネット社会のフロンティアはどんどんと広がるのかもしれない。人材が将来性のない大組織にこれからも相変わらず参入していくことが変わらないならば、ネット社会のフロンティアはいずれしぼんでしまうのかもしれない。そうだとすれば、梅田氏はもう少し、ばら色のネット社会を描けばいいのではないだろうか? どうも梅田氏は精神の人であって物質の人ではない。梅棹氏のいう「文の人」であって「武の人」ではない。
「わたしの生きがい論」の中の「「武と文」という講演は1975年、経団連加盟の各企業の社長や重役たちに向けて行われたものである。
そこで梅棹氏は自分のやっている学問は実用的目的はゼロで、いわば勲章のようなもの、ビールの栓抜きにも使えないようなまったく役にたたないものといっている。では、それはなんのためにあるのか、人間の栄光のためにある、というのが梅棹氏の答えである。自分は世すて人、あるいは出家の一種であるという。それに対して聴衆の経団連の人々は在家である。あるいは自分は文人墨客というときの文人であり、経団連の人々はお武家である。企業とは組織である。自分もまた大学に属してはいるが、自分が組織の人であるという自覚はまったくない。自分という人間は組織から排除されても(経済的な問題をのぞけば)本質的にはまったくかわらない。
組織は目的を持つ。なぜ組織というものができたか。それは軍事から生じたのではないか、というのが梅棹氏の仮説である。戦争は明白な目的をもつ。ということは同じく目的をもつ組織の長は武人である。組織は目的のヒエラルキー構造から成立する。では組織に適合できない人間、組織化を拒否する人間はどうなるのか? あるいは武の原理が優越する時代に、文人はどうなるのか? 組織の人として生きるのが武人、組織から離脱した自由な個人として生きるのが文人。組織の目的と自分の目的が直結しているひとは組織に適応性があるひとである。文人は組織の目的にあわせた判断の尺度を心のなかにもたない。武の原理はエントロピーの減少に、文の原理はエントロピーの増大へとむかう。
文人がしていることは、前提のきりりくずしである。自分をうたがい、すべてをうたがう。武の原理は、組織の目的と自己の存在を直結させることであり、文人はまさにその原理をうたがい、組織への不参加、目的からの自由をもとめる。
しかし、現代では教育が普及し企業人の知識人化が進行している。知識は論理的思考の役に立つから目的合理性にかなう側面がある。しかし知性は同時に目的を疑わせるという力ももつ。知性と教養が備わってくると、企業への徹底的忠誠心は崩れざるをえない。とすると企業組織は腐食せざるをえなくなる。働くことにむなしさを感じるのが当然ということになる。有能な社員をかかえこむと、それが有能であり知性をもつがゆえに、会社を腐食させてしまう。組織や会社が社員の全人生をカバーすることはできなくなっている。そのひとの一部にしかかかわらないものとなる。とすれば、組織はタイトな組織からルーズな組織へと変貌せざるをえない。そういうルーズな組織でしか知性をもった人間は働けないことになる。昔の軍隊のような会社組織を構築するということは現代では最早不可能になってきている。そのようなものをもう一度作りたいなどというのは、過去の幻想である。
こういう話を経団連の諸氏の前でする梅棹氏もいい度胸である。組織にすべてを賭けられるなんて、あなたがたは知性がないからできているのですよ、といっているようなものである。前に梅田氏をサムライなどと書いたような気がする。それと矛盾するようであるが、梅田氏は絶対に組織のひとになれないという意味で文の人なのである。そして梅田氏が夢想するのは、ネット社会においては「文人」の社会、知性のもつ人の社会が実現するということであるように思う。知性を持つひと、すべてを疑うひとが従属できるような組織をつくることが可能であるのか? 梅棹氏のいうルースな組織をつくることは可能であるのか?
梅田氏が大組織より小組織というのもそこに由来するように思う。文人、読書人そういうものが作る組織、それは果たして機能するのだろうか? 梅棹氏は大学紛争当時に大学人がさらした醜態は、大学というのは個人の集合体ではあっても、なんら組織の体をなしていなかったことから生じた当然の結果であったといっている。
文人や読書人が共通の目的をもって集う組織、そのようなものがはたして可能なのだろうか?
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