ソーントン不破直子「ギリシヤの神々とコピーライト 「作者」の変遷、プラトンからIT革命まで」 その2

 
 第7章 マルクス主義と「作者」
1.マルクスエンゲルス
 彼らのいう上部構造とは「文化」である。彼らによれば文学は個人に偶発的に宿るのではなく、経済構造により必然的に決定される。「共産党宣言」は今読めば、現在の米国主導のグローバル経済批判をしているように見える。今でも新鮮である。かれらは諸芸術の中でも文学を重視した。それは文学にはイデオロギー生産力があるからである。かれらは「よい作者」「望ましい作者」「社会に有用な作者」という考えを導入した。それまでのロマン主義文学者も政治への関心は示してはいたが、ここにいたって政治が完全に優位にたつことになった。
2.「社会主義リアルズム」
 スターリン体制下では「作者」は「魂の技師」であるとされた。美しい言葉であるが、いっていることは洗脳ではないのだろうか?
3.ヴァルター・ベンヤミン
 「複製技術時代における芸術」で、自己目的的文学、すなわち芸術のための芸術は、複製技術に出現によって芸術から失われれようとしていた儀式性、アウラを取り戻そうとする試みだったとした。ベンヤミンは芸術が儀式という機能を失った現在にもつべき機能こそが政治であるとした。
4.ジャン=ポール・サルトル
 かれは正統的マルクス主義者ではないとしても、マルクスの理論の下で文学を考えている。ただ経済決定論、すなわち下部構造決定論は受け入れず、上部構造である意識によって自分をつくれるとした点が、20世紀中葉、世界中の知識層に熱狂的に受け入られた理由であったのだろう。
5.ピエール・マシュー
 パリ大学哲学教授。1966年、「文学生産の理論」を書いた。「作者」はひとりでは書き始められない。読んでくれるであろう読者を想定して初めて書き出すことができる。つまり文学が社会の一部であるからこそ、その生産が可能であるとした。批評家の仕事は「作品」に書かれたことではなく、書かれていないこと、作者が自己規制して筆を控えたことを発見して、作者を規定してるイデオロギーを明らかにすることにあるとした。これは「新批評」などとは対照的な考えである。1968年のパリ革命の直前にこの本が書かれていることは象徴的である。
《感想》
 ベンヤミンサルトルやマシューがなぜマルクス主義の側に立とうとしたのかが、わからかった。ベンヤミンの「アウラ」とか、サルトルの「参加」とか、マシューの「不在」とかいうのは、プロレタリアートから見たら、インテリのたわごとに過ぎないだろう。しかし、同時に「共産党宣言」という薄っぺらな本が世界を変える力をもったことも事実なのである。言葉には力がありイデオロギー生産力がある。
 わたくしには、これら知識人がマルクス主義の側に立とうとしたのは、プロレタリアートの側に立とうとしたというようなことではなく、マニ教的な善悪二元の世界で、「悪」と対峙する側に立つというような極めて抽象的な選択だったのはないかと思う。そして、マルクスというしがない亡命知識人が世界を変える力をもったように、知識人が、それが提出する理論が、世界を変える力を持つ(持つべきである、持ってほしい)という信仰がそれを加速させたのではないだろうか?
 マルクス主義の文学理論は自分のための文学、芸術のための芸術のいきづまりを打開する可能性を秘めていたという点が一番重要なのであろう。それに代わるものは他人のための文学であったというのはあまりに単純化しすぎた言い方であろうが、マルクス主義文学理論の発信先は決してプロレタリアートではなく、知識人仲間であったのだと思う。文学理論などというものは知識人しか読まないものである。ここにはプラトン以来のエリート主義があり、前衛というマルクス主義理論のアキレス腱が潜んでいる。前衛という考え方が共産党独裁、スターリン独裁を正当化したのであり、民主集中制などというおかしな考えを放棄しない限り共産党に未来はないわけであるが、それを放棄すれば共産党も崩壊してしまう。なぜならそこには生産性が社会を規定する、下部構造が上部構造を規定し、そうであれば歴史の動きの方向は必然であるという(キリスト教思想の変奏としての)マルクス主義の根幹が潜んでいるからである。
 
 第8章 読者の死か、「作者」の死か   −現象学ポストモダン理論−
1.ジョルジュ・ブーレ
 「批評的意識の現象学」という論文が有名なのだそうである。読書するときに、読者の意識を満たしている「私」とは、誰か? それは「作者」なのだとした、と。「旧約聖書」では、神が土くれに自分の息を吹き込んで人間を創造した。しかし、ブーレは「作者」を創造するのは読者であるとしたのである。読者が神となったのである。
2.ジャック・デリダ
 デリダ現象学の無効を宣言した。彼はすべての根源的概念(本質、真実、神、超越的存在、意識、人間、などなど)は幻想にすぎないとした。物を記述する言語はその対象である物をあらわすのに充分な力はもっていないので、言葉と物は永遠に完全には合致せず、そこに「不在」が残るとした。それと同じように、テキストを読むときにも、「作者」のいいたいことは言葉では充分には尽くすことはできず、作品はつねに未完成なものであり、完全な「作者」などというものは不在なのであるから、それを読者は何らかの「代補」によって補わなければいけないのであるとした(と書いていても、わたくしにはよくわかってはいないのだが)。
3.ロラン・バルト
 バルトによれば、「作者」という概念は近代のもので、人間の個人としての特権を認めてはじめて発生したものである。そうであれば、個人としての「作者」をもっとも重視したのが、個人の自由に基づく体性である資本主義イデオロギーであることは当然である。
 バルトは書物よりさきに存在する「作者」という概念を否定し、テキストを書いている時にだけ(テキストと同時に)存在する「書き手」という概念を提出した。「書き手」は自分以前にあったさまざまな言葉をよせあつめて配列しているだけである。この「作者」の否定(ということになると本書ではされている)は、神を否定する無神論に通じる。また「神」から派生する「理性」「科学」「法」などが想定している絶対的意味の存在をも否定するものであった。テキストの意味を作者が唯一絶対のものとして付与することは不可能で、作品を完成させるものは読者であるとした(デリダと同じことをいっている?)。「作者の死」は「神の死」でもあった。
4.ミシェル・フーコー
 バルトが「作者の死」をいったあとで、フーコーは「作者」はなぜ必要なのかを考察した。それは分類のためである。あるテキストが気に入らないと思っても、テキストを罰することはできない、著者を罰するしかないではないか。これは科学のテキストに「作者」の名前は必要でないのと対立する。
 フーコーは「言説を超える作者」という面白い考えを提出している。単なる作品の作者ではなく、一つの理論、伝統、学問分野の「作者」となった人間である。ホメロスアリストテレス、宗派の創始者たち、最初の数学者たちなどである。されに19世紀のヨーロッパには「言説性の創始者」が出現したという。フロイトマルクスである。
 《感想》
 ただでさえよくわからないポストモダン思想を著者が簡略に紹介したものをわたくしがさらにまとめると何がなんだかわからないものになってしまうが、この部分が理解しにくい最大の理由は、著者がデリダやバルトやフーコーの言っていることをどれだけ真面目にうけとっているのかがよくわからない点にある。著者はロマン派の詩人たちにかんしては辛辣であることは読んでいてわかるのだが、これらポストモダンの思想家と著者がどのような距離をとっているのかが本書だけではよくわからない。現在、文学批評理論を研究するものならば当然受け入れるべき常識的前提として紹介しているようにも読める。そうであるならユークリッド幾何学における公理のようなもので、疑うことなどありえない研究の出発点ということになる。わたくしにはデリダフーコーもさっぱり理解できないけれども、それでもかれらはものごとを根源から疑うということをした人たちであることだけは確かであるように思う。そうであるなら、かれらは当然自分の言っていることも疑え、安易に信ずるなということを第一に言ったはずで、そういう言説を公理的に受け入れるというようなことはありえないことと思う。その辺りが一番わからない点である。
 ここで以前にもどこかで引用したことがあるが、竹内靖雄氏の「世界名作の経済倫理学」から、少し長く引用する。

 ヨーロッパの文学はキリスト教の神を無視しては理解できない面がある。(中略)無神論なら無神論でもいいが、西洋ではキリスト教の神をあえて否定しようという戦闘的な態度が無神論になるのであって、日本人の「神なんかどうでもいい、神があってもなくても、また数多くあっても同じこと、神なんかにこだわらない」というような態度とは根本的に違うのである。(中略)
 西洋も近世に入ると、その一神教の神をないものと仮定しても差し支えないのではないか、つまり人間は人間だけでやっていけるのではないかという考え方が主流になった。神のかわりに「理性」というものをもち出して済ませる立場も有力になってくる。といっても中世までさかのぼると、この「理性」ももともと神が人間に与えてくれたものだということになっていたのだから、それを人間がもっていると考えることは、人間が神であるつもりになって生きていくということを意味する。欧米の個人主義でいう個人とはこのような強力な個人であって、これも日本人にはなかなか理解できないものである。
 とにかく、自分が神であるつもりの個人というものが登場すると、小説の世界でも、この個人を主人公にしたり、作者自身が神の向こうを張って、「創造」の仕事に挑戦したりすることになる。一神教の神は、何もないところに世界万物を「創造」したことになっているが、人間がこの神の仕事を真似るとすれば、それは「芸術作品」という独立した世界を、言葉、音、絵の具その他を使ってつくりあげる仕事になる。それを目指す人間が「芸術家」である。小説を書く作家の中にも、芸術家として芸術作品を創造しようとする人間が当然出てくるのである。
 日本の小説家には、「自分を表現する」ことをめざす人はいても、自分が神になったつもりで芸術作品を創造しようとした人はきわめて少ない。自己表現ということは、それを理解し、評価してくれる他人や世間を想定してはじめて意味をもつもので、それは結局のところ、書くことを通じて他人や世間との間に何らかの関係を築こうとするものに過ぎない。これに対して芸術作品を創造する人間は、自分が満足できるものをつくればよいので、他人や世間のことなど眼中にない。だから創造が終われば、その作品やノートなどは破棄してもよいということになる。カフカも『月と六ペンス』のストリックランドも死ぬ時にその作品を焼却させようとした。この考え方は、職人気質の人やプライドの高い学者が、不完全なものを残して死ぬのは恥だから焼却する、という考え方とは違うのである。

 マルクス主義だって、キリスト教の神がなければ生まれてこなかったものだろうし、それを背景にしなければ理解できないものなのであろう。日本ではキリスト教は根づかなかったが、しかしその代用品としてのマルクス主義は多くの知識人を席捲した。だから日本人にとってはポストモダン思想とは大きな物語の消滅=マルク主義の消滅をめぐる話であるのに対して、西欧では大きな物語の死=神の死なのであろう。西欧の文学においては、「作者」の問題は神とつねに関係するので、「作者の死」が「神の死」となることには一本筋が通るのだが、日本人の多くにとっては、「作者」の問題は「自己表現」の問題でしかないので、バルトなどの議論が身に沁みない。
 20世紀にもなって、バルトが作者の死=神の死などということを大真面目で主張し、それが一気の理性の死にまでいってしまうという「過剰」は、西欧世界において今もまだ一神教の神の圧力がどれほどすさまじいものであるかを示しているのだと思う。それなのに本書で著者が「作者」の問題を文学批評理論の問題の変遷として多くの部分を語ってしまうので、語られることの大きさと扱われる問題の大きさがバランスしていないように感じられてしまう。
 
 第9章 フェミニズムと正典の「作者」
1.ヴァージニア・ウルフ
 ウルフは「自分だけの部屋」で、天賦の才能と力強い努力がいくらあっても、それに応える社会がなければ「作者」は生まれないことを述べている。女性の「作者」というものをみとめない社会では才能があればあるほど女性は悲劇的であったという。彼女は「知的自由は物質的なものにかかっている」とした。これはマルクス主義の影響であろうと著者はいう。
2.ハロルド・ブルーム
 ブルームは20世紀末になっても、「文学研究を政治化することは文学研究を破壊したが、さらには、学問というもの自体を破壊するかもしれない」といっているなかなかの反動らしい。
 彼は「シェイクスピアは「我々を発明した」と主張する。シェイクスピアはその数々の戯曲において、「人間」というものを発明、つまり創造したので、後続の者はその影響を逃れることできないのだ、と。シェイクスピアは「個別の人物」を創造した。シェイクスピアの前にも後にも、他の誰も、全く異なった、それでいて自己矛盾のない声を持った百人を超える主要人物と何百人という高度に個別化した脇役たちを創造するという奇跡に近い仕事を成し遂げた者はいないのだ、と。われわれは彼の創造した人物によって、忠誠、ほら吹き、懐疑、狡猾、嫉妬、耄碌、権力欲、情欲、恋愛などという人間の意識、感情がいかなるもので、いかに生まれるかを言葉で認識できるようになった。彼はそれ以前の人間は認識していなかった、人間が人間であるための意識を「発明」したのだと。さらにはブルームは「個性」という概念そのものもシェークスピアの「発明」だ、と。ブルームは「作者」にもっとも大きな力をみている人ということができる。彼によれば「作者」は、神が創った人間を神があたえた言葉で再創造するのである。
3.サンドラ・M・ギルバートとスーザン・ダーバー
 有名なフェミニズム文学理論家らしい。彼女らは、父系制の西欧における文学の伝統においては、神が世界の父であるように、作家はテキストの父であると捉えられてきたという。ブルームの「影響の不安」はその典型であるのだと。西欧の伝統において女性とは、「家庭内の天使」か、男性支配の社会に閉じ込められて怒り狂う「怪物」であるかだった、と彼女たちはいい、「作者」は個人の才能がつくるものではなく、歴史が構築してきた男性中心の「正典」の系譜が作ったイデオロギーなのであるとした。
 《感想》
 ここでフェミニズムの問題がでてこなくてはならない理由が正直よくわからないのだが、著者が女子大で教えている女性であるということが関係しているのだろうか? 「知的自由は物質的なものにかかっている」ということは何もマルクス主義を持ち出さなくても、すでにパトロンからに自立のところで述べられていたし、紹介されている限りでは、論理的説得力は圧倒的に(なかば敵役として紹介されている)ブルームに軍配が上がるからである。ブルームのいっていることが正しいと思えるのは、たとえば、われわれがベートーベンのいない西洋音楽史を考えることができないからである。シューベルトにもシューマンにもわれわれはベートーベンを聴いてしまう。
 そして中世から近代へ、「作者」の自立から神の死と作者の死という方向で進んできた叙述が、ここへきてブルームが登場することでぶち壊しになってしまうように見えるのも、本の構成としてはよく理解できない。なんだかいくら理論をつくっても、それを壊す事実が現れたらおしまいであるというようにも読めてしまう。ポパーの仮説を否定する単称命題の問題?
 
第10章 グローバリゼーションとIT革命
1.フレデリック・ジェイムソン
 現在の文学・文化理論において世界で最も影響力のあるマルクス主義著作家なのだそうである。ここでは「ポストモダニズム、あるいは後期資本主義の文化理論」という本が紹介されている。ポストモダニズムにおいては、盛期モダニズムではみられた芸術の資本主義商業主義からの自立が放棄されたという。純粋芸術というエリート主義がすてられた。ハイ・カルチャーとロウ・カルチャーの区別やジャンルの区別が取りはらわれた。
 またこのころ「理論」という学問分野が誕生した。それ以前は文学作品こそが創造的であり、研究書は創造性の点で劣るとされていた。しかし、デリダ・バルト・フーコーラカンクリステヴァ・サイードらによって文学作品に匹敵する創造性をもつ文学理論がうまれた。
 ジェイムソンは現在の資本主義体制である多国籍資本主義という下部構造の上部構造である文化がポストモダニズムなのであるとした。そこでは上流文化と大衆文化の区別が消失したということが、ゴッホムンクの作品とウォーホールの絵の違いによって説明される。そこでは内面と外面の区別が放棄され、隠された真実といった概念も否定された。そこではモンテーニュによる内面の発見以来の大きな転換がおきようとしている。
 「作者」は大衆消費文化に深くくみこまれてしまい、それへの批判的距離がとれなくなってしまった。それではあるべき「作者」とはどのようなものか? それは多国籍資本のグローバリゼーションの中で、個人の「認識地図」をつくり、それへの批判的距離を確保できる想像力をもつ者なのだそうである。
 《感想》
 ここで書かれていることはほとんど理解できなかった。いわれている文学作品というものの範囲がよくわからないのである。ワイルドの「芸術家としての批評家」やエリオットの「伝統と個人的な才能」などは、文学作品に分類されるのであろうか? そうであればデリダクリステヴァの本もまた文学作品ではないのだろうか? デリダクリステヴァの本は(読んではいないが)研究書であるとは思えない。それは学問の手続きを踏んでいない(ソーカル・プリグモン「知の欺瞞」)。
 ここでいわれるハイ・カルチャーに小説は入るのだろうか? かつては詩こそがハイ・カルチャーであり、小説などはロウ・カルチャーの典型であった。そういう中でフロベールは芸術としての小説を書こうとしたわけである。ドストエフスキーはハイ・カルチャーなのだろうか? 「カラマゾフ」などは通俗小説ではないのだろうか? ナボコフは多分ハイ・カルチャーであろう(少なくとも自分ではそう信じていたはずである)。S・キングはロウ・カルチャーであろう。しかし、その区別は消失したのであろうか?
 デリダクリステヴァの著作はハイ・カルチャーではないのだろうか? そもそも、ジェイムソンの本自体がハイ・カルチャーではないのだろうか? 「ポストモダニズム、あるいは後期資本主義の文化理論」などという本がロウ・カルチャーであるはずがない。
 上部構造は下部構造に規定されるという見方はそれだけでマルクス主義なのであろうか? わたしたちの思考は時代や文化に規定されているとすることはマルクス主義からしかでてこないものなのだろうか? いわゆる社会構築主義に類する見方はすべてマルクス主義なのだろうか? 《多国籍資本のグローバリゼーションの中で、個人の「認識地図」をつくり、それへの批判的距離を確保できる想像力をもった者》が下部構造から独立して存在できる根拠というのは何なのだろうか? そういう者の存在を求めることはエリート主義ではないのだろうか?
  
2.IT革命後の「作者」 −マイクロソフト資本主義 対 デジタル共産主義
 バードらの「ネトクラシー」は、IT時代を「ネット支配性」とし、社会権力と地位を表すものは情報へのアクセス権であるとした。その社会では、ネットを支配する一部のエリートと、それが操作して提供する情報をそのまま消費するだけの消費者階級に二分されるという。そこでの真の覇者はアクセス可能な無限の情報の中から適切なものをえらびとる能力をもったものである。そうであれ無資本のものでも覇者になることが可能である。
 ハートとネグりの「帝国」では、社会を決定するものは物質生産量ではなく、社会的関係、政治的コミュニケーション・ネットワークなのだという。その背景にはストールマンの提示する「デジタル共有地」の考えがある。リナックスをふくめた無料ソフトの社会のことを、あるひとは「デジタル共産主義」と呼んだ。それを法的に守るものは著作権の禁止である。これをコピーライト(copyright)をもたないという意味でストールマンコピーレフトcopyleft)と呼んだ。ロック以来の私有財産の概念を覆す可能性を秘めている考えである。それに対してマイクロソフト社が旧来の資本主義の論理で対抗している。IT革命は、活版印刷私有財産制という《「作者」の私有財産としての作品》という概念をささえる二つの根底を覆そうとしている。
 《感想》
 この最後にいたって「作者」とコピーライトの問題が一点に集約する。このあたりの問題は梅田望夫氏の「ウェブ進化論」や「ウェブ時代をゆく」で詳しく紹介されていた。グーグルが「世界中の情報をすべて整理し尽くす」ことをし、無限の情報の中から適切なものを選択するシステムを完成させたとしても、資本主義が倒れるなどということはないであろうが、グーグルのしようとしていることが著作権の問題と激しく衝突することは事実である。グーグルが私有財産制を否定する思想を持っているとは思えない。グーグルは広告という資本主義の先兵に依存して収益をあげているわけである(いずれ、グーグルに広告をうっても投資にたいする利益効率が悪いことが判明して、グーグルが傾くなどということはないのだろうか?)。
 ウィキペディアのようなものがもっと完成したものになれば辞書は売れなくなるだろうか? ブログで公開された文は著作権を放棄しているように思うが、どこかの出版社が勝手にブログで公開された文を印刷して出版することは違法になるのだろうか?
 ネット社会が著作権を脅かすことは間違いがない。著作権は誰かにコピーをしていいという権利を売り渡すことであるから、デジタルデータのコピーがいとも容易におこなえる現代の状況の中で、しかも出版される著作の多くがそのもとになるデジタルデータをもっているであろう時代において、紙媒体への印刷ということを前提にした権利という考えを維持していくことは困難であろう。
 しかし、著作権という考えは揺らいでいくとしても、著者あるいは作者という考えはまだ残るのではないだろうか? 少なくともテキストの書き手という考えは残るはずである。そのテキストがネット上に公開され、それに次々といろんな人が自由に朱を入れていくようなことが普通になれば、その結果できあがるテキストの書き手が誰かというのも曖昧になっていくであろうが。
 フォースターに「無名ということ」(「ファースター評論集」岩波文庫)という文がある。書き出しは「本の著者の名前を知りたいと思うだろうか?」というものである。フォースターは一方に詩をおき、もう片方に掲示をおく。言葉には二つの機能がある。一つは情報をあたえることであり、もう一つは雰囲気をつくることである。
 世界中の印刷物をあつめると、その印刷物それぞれで、情報提供と雰囲気提供の比率が異なることがわかる。詩は情報がゼロである。他方で掲示は情報だけである(スリにご用心!)。詩とちがって戯曲なら少し情報もある。小説ならさらに多くの情報ももつ。歴史、哲学、自然科学となれば、さらに情報が増える。さて、この印刷物を書いた人のの名前を知りたいか? 情報を提供しているものは名前を知りたい。それを知らないと情報が間違っている場合、抗議できない(フーコーが似たようなことを言っていた)。しかし、詩を読んでいる場合、その作者の名前を知りたいか? 詩を読んでいる間は、誰がそれを書いたかといったことは忘れている。
 しかし、文学は個性を表現するものではないか、著者の個性的な思想から生まれたものなのだから著者の名前を要求するのは当然である、という反論がでるかもしれない。著者の財産ではないか、当然、著者には所有権があると。これはしかし近代的な反論なのだとフォースターはいう。今日の批評家の個性への固執ぶりは行き過ぎである、と。
 人の個性には二つの側面がある。表面に見える個性ともっと深いところにある神秘主義者なら神とでもよぶような個性である。後者の個性がすべての人間に共通するようなものであることが一流の文学者の条件である。個性でありながら普遍的なのである。前者には名前が必要だが後者には必要ない。個性が重要になるのは、読み終わって研究をはじめるときである。しかし研究とは真面目くさったゴシップに過ぎないので、作品については何も教えてくれない。
 フォースターの考えはロマンの詩人、なかでもキーツに近いような古風なものかもしれない。彼はポストモダンの時代を知らずに死んだわけである。フォースターもいうように、情報でない言葉に価格をつけるというのは本来は不可能なことなのである。
 グーグルは「情報」を集め、それを整理する。しかし「雰囲気」は集められないし、整理できない。「雰囲気」は作品のまるごとの中にあり、一部を抽出することはできない。
 「フォースター評論集」には、「私の森」という文もあって、そこでフォースターは、財産を持つのは罪だというものもあるが(聖書もそういっているし、トルストイもそういったが)、しかしそれは困った禁欲主義の世界であるといっている。
 その禁欲主義があまりに人間の本性に反しているがゆえに、ソ連や東欧世界は崩壊したのである。しかしフォースターもいうように、財産をもつと性格が変わるのもまた事実である。ソ連や東欧が崩壊したから万歳というわけではない。
 本書の著者も私有財産とその放棄の間を揺れ動いているように見える。世界の体制が今のグローバル資本主義という選択肢しかないのはあまりにさびしい。だから無償のソフトウエアが世界を変える可能性がゼロではないとしたいのであろう。
 本書は「作者」と「コピーライト」という二つの問題をあつかっている。「作者」は神と、「コピーライト」は私有財産と結びつく。だが、「コピーライト」は印刷技術が完成しないとでてこない問題であるから、それまでは「作者」の問題と筆写の問題であり、実はコピーライトの問題はでてきていない。ギリシャから説きおこす本書の焦点が今ひとつ定まらないのはそれによるのであろう。
 本書で一番印象的であるのは、人文の学問が、印刷技術やIT技術といった技術、いわば工学的なものにいかに大きく影響されているかという指摘にあるのかもしれない。われわれの自我意識などというのも、技術の変化、工学の進歩に大きく影響されているのである。これも下部構造が上部構造を決定する例なのだろうか?
 

フォースター評論集 (岩波文庫)

フォースター評論集 (岩波文庫)