M・マーモット「ステータス症候群 社会格差という病」 その1

  日本評論社 2007年10月
 
 最近の「格差」ブーム?に当て込んだ本ではない。健康と社会格差についての長年の研究の成果をわかりやすく示した本である。この方面の話題をあつかった本を読むのは、R・ウイルキンソン「生命を決める社会のオキテ」、I・カワチら「不平等が健康を損なう」、近藤克則「健康格差社会」についで4冊目であるが、近藤氏の本ではじめて知ったホワイト・ホール研究も著者がおこなったものであるし、また有名なNiHonSan(日本、ホノルル、サンフランシスコ)研究も氏のものであるらしい。この分野のパイオニアであり、世界的な指導者ということのようである。
 はじめに「日本語版への序文」といいうのがついている。そこで氏は「日本人の冠状動脈性心疾患の罹患率がなぜ低いのか?」と「その平均寿命がなぜ長いのか?」という二つの問題を提出している。これは以前、柴田博氏の「中高年健康常識を疑う」を読んだときに柴田氏も提出していた問題で、柴田氏の結論は日本人は魚をたくさん食べるからというものであった。それに対して、マーモットの結論は日本が平等社会だからというものである。
 著者のマーモットは冠状動脈疾患疫学の専門家である。通常、狭心症心筋梗塞などの冠状動脈疾患の疫学というと、コレステロールとか血圧あるいは喫煙といった環境因子と疾患とのかかわりがまず注目される。柴田氏も冠状動脈疾患がきわめて少ない日本で、コレステロールがなぜこれほど目の敵にされるかという点に疑問を呈していた。わたくしもそう思う。なにしろ健診で圧倒的に多くみつかる血液検査の異常はコレステロール高値なのである。正常値がどんどん下がってくるのだから、異常と判定される者が増えてくるのはあたりまえである。60歳以上くらいだと30〜40%くらいが異常になるのではないだろうか? これに介入してその数字を下げることで一体どの程度のメリットが将来期待できるのだろうか? と思うのだが、これは日本動脈硬化学会の推奨の正常値基準なのである。奇怪なことに近々、コレステロールの値自体は問題にされなくなるらしい。HDLコレステロール(いわゆる善玉コレステロール)やLDLコレステロール(いわゆる悪玉コレステロール)の値だけが問題にされるようになり、総コレステロール自体は測定自体が不必要ということになっていくらしい。しかし、そうなると過去にコレステロールがやや高いという症例に介入した結果の長期的予後の解析に困難をきたすようにならないだろうか? なにしろ比較する現在のデータがなくなっていしまうのである。過去のデータはLDLコレステロールの値ではなく、総コレステロールの値によって介入しているものが多いはずである。
 マーモットの初期の仕事であるNiHonSan研究では、日本人と日系移民を比較して、虚血性心疾患の死亡率が日本を離れれば離れるほど高くなることをしめしたものであった。これは食生活などの生活様式が西洋化すればするほど冠状動脈疾患の頻度が増えるということを鮮やかにしめした研究として知られている(わたくしもそう思っていた。わたくしが知っていたのは冠状動脈疾患ではなく、胃がんについての研究のほうで、日本を離れれば減るのであるが、これは食生活の西欧化に由来するものとしていいのではないかと思う。柴田氏なら心臓病が増えるのは、日本を離れるほど魚を食べなくなるから、というであろう)。しかし、それは誤解であって、確かにそういう要因はあるが、それでも説明しきれない差があり、それは日本的な文化様式自体が冠状動脈疾患を減らす方向に働いている独立の因子であることを示すものでもあった、という。それ以来、氏は生活環境が健康におよぼす影響について研究を進めてきたということである。
 本書の面白いところは、はじめは別の仮説から研究を進めたが結果はその仮説を裏切るものであったので、最初の仮説を放棄して別の仮説を受け入れた、というようなことが書いてある点である。ここで氏が信じるようになった仮説とは、とても常識に反するものなのである。氏の主張は、社会階層構造のどこに位置しているかによって、病気になる確率や長生きする確率が変わってくるというものである。これは貧しいものが栄養を充分にとれないとか、医療機関に満足にかかることができないというようなことではなくて、社会的に地位が低いことが、それだけで、そのまま病気になる確率や長生きの確率に影響するというのである。
 これは先進国において観察される現象である。ある一定以上の物質的な福利厚生のレベルに達すると、別のタイプの福利厚生が健康に重要な役割をはたすことになる。それは自律性をもつこと、自分の人生に対して充分なコントロールを持てること、フルに社会と接点を持ち、社会的活動に参加できる機会があることなどである、という。著者がいいたいことは、健康とは生物学や医療技術だけの問題ではないということである。これはゲノム医療・ハイテク医療を追求する現代医療の方向に逆らうものである。
 本書では絶対的貧困が健康におよぼす影響はあつかっていない。裕福なひとがかかるとされている病気、心臓病、糖尿病、精神疾患などをあつかう。実はこれらは裕福なひとの病気だとはいえない。なぜなら先進国においては、これらの病気は社会階層が低いほどリスクが高いからである。
 われわれにとってもっとも重大な臓器である脳がその鍵を握る。不平等を経験することが引き起こす心理的経験が、身体に大きく影響するからである。ここでいわれている含意は、脳が影響するといってもそれは人間の脳についてであるということである。純系のマウスなどでは、そうではないということである。ただし、少なくともヒヒでは脳が影響するようであるが。
 なぜヒヒでも群内の地位が健康に影響するのか? 地位の低いヒヒがタバコを吸うわけでもないし、ハンバーガーをバカ食いするわけでもない。地位の高いヒヒが新聞の健康欄を読むわけでもないし、フィットネスクラブにもいかない。だとすれば、地位そのものが影響するとしか考えられない。
 動物が群れをなして生息しているところでかならず社会格差が生じるのであれば、社会格差は進化の必然の産物ということになってしまう。つまり格差は社会的な問題はなく、生物学的な問題となってしまう。
 しかし、社会学か生物学かという二者択一的な問題の出し方がそもそも間違いなのであるとマーモットはいう。両方が関係している、と。確かに進化は社会階層を生んだであろう。しかし社会階層がもたらすものは一定なものでも不可避なものでもない。したがって大事なのは、われわれが生きている環境とはどのようなものであるかを理解し、ヒトはそれに反応する素因があるということをよくわきまえておくことである。
 マーモットがいうのは、ある集団の健康レベルは、その集団内で人々の潜在能力がどの程度発揮されているかの良い指標となっているということである。ある集団のありかたが、人類としての重要なニーズを満たしているなら、その社会の健康レベルは高いのだと。そしてそのことをマーモットははっきりとは述べてはいないのだが“人類としての重要なニーズ”は進化によって規定されているとしているのであろう。
 金持ちはよく「人はお金では幸せになれない」という。この30年〜40の間にいろいろな国々が経済的に豊かになったが、そこに住んでいる人々は幸せになったとは感じていない。米国では1965年から1990年までのあいだに平均年1.7%の経済成長があったが、その間国民の幸福感は少しも増大していない。日本でもその間年率4.1%の成長をしているが、幸福感は高まっていない。
 しかし、マーモットの研究では地位がたかまるにつれて幸福感も高まるのである。どうも重要なのは絶対的な富の量ではなく、相対的な地位であるらしい。「金持ちの男とは、妻の姉妹の夫よりも100ドル多く稼げる男のことである」のだそうである。
 正確な言い方は違っていたかも知れないが、ホリエモンさんは「金で買えないものはない」とかいっていた。これもうろ覚えであるが、「風と共に去りぬ」でレット・バトラーが「大概のものは金で買える。買えなくても、その代用品は買える」というようなことをいっていた。高度成長期の日本はみんな平等に所得が増えていったので、誰かさんが相変わらず、自分の姉妹の夫よりもいつも100ドル稼げるという状態には変化がなく、それで誰の幸福感も高まらなかったのであろう。
 最近の日本では多くのヒトの所得は増えず(あるいはむしろ低下し?)一部のひとの所得だけが幾何級数的に増殖する状態になったので、多くのひとの不幸感が増しているであろう(「隣の貧乏、鴨の味」「隣に蔵立ちゃ儂ゃ腹が立つ」。
 以前には、収入は低いが尊敬される職業と、収入は多いが尊敬はされない職業という区別があったように思うが、最近では、収入が多いことがそのまま社会的地位が高いというようなことになってきているように思う。そうでなければホリエモンさんがあんなに偉そうな顔をすることは、できなかったのではないかと思う。昔は虚業と実業という言葉があったが、今ではあまり聞くことがない。
 著者は1960年代の大学生時代、自分が理想主義に燃えていたころのことを思い出す、という。古い社会構造は崩壊し、社会階層などない真に平等な社会をつくりだせると思っていた、と。しかし今、自分のまわりにあるのは相変わらず階層のある社会である。
 それは進化によって説明できるのだろうか? なぜあるひとが機関車のナンバープレートを集め、別のひとがジャムの瓶のラベルの収集をするのかを進化から説明できるとは思えない。しかし、脅威に直面したときに、戦うか、逃げるか、どう選択するかということについては進化がかかわっているとしていいであろう。問題は何を脅威と感じるかということである。もしある集団が他の集団よりも高い頻度で脅威にさらされるとしたら、それは健康にも影響するであろう。社会階層構造そのものが健康格差を生むのではなくて、社会階層のある地位にいるということが何を意味するかが大事なのだ、と。
 以下のような奇妙な研究が紹介されている。オスカー賞ととった俳優と、候補にはなったがオスカーをとれなかった俳優の寿命に差があるか? オスカーをとった俳優はとれなかったものよりも4年も長生きである。ちなみにこの4年というのはアメリカですべての冠状動脈疾患による死亡がなくなったときに生じる差である。
 著者は、社会格差はほとんどすべての病気のリスクに関係する、という。心臓病、脳卒中、呼吸器疾患、消火器疾患、腎疾患、結核、自殺・・・。
 著者も最初は、心臓病や癌は感染症が死亡の原因とならなくなった富める国の病気であると考えていたという。社会的地位の高いひとはストレスが多いので心臓病になりやすいというのは、今でも多くのひとの通念ではないだろうか、という。
 実際にタイプA性格ということがいわれ、トップを目指して猛烈に努力する企業家に心臓病が多いというデータが示されたことがある。これは20世紀の第一四半期には正しかったのかもしれないと、著者はいう。
 すべての階層において1970年〜90年の二十年で平均寿命は改善している。しかし、階層の上のものの改善は著しく、最下層のものはそれほどではない。
 結核という病気を考えてみる。結核菌がなければ結核という病気はない。しかし結核の治療法は結核治療薬の投与ばかりではない。ストレプトマイシンが使われるようになった1950年において、結核患者数はすでに1900年の五分の一にまで少なくなっていた。栄養の改善によるものと思われている。
 殺人をおこなうのは若い男性に多いことが知られている。シカゴでもイングランドウェールズでも、20〜24歳にピークがある。しかしシカゴではピークで年間人口百万人あたり800件くらいであるのに対し、ウェールズでは30人ほどである。遺伝と環境の双方が影響していることを示すデータである。
 ホワイトホールというのは日本でいえば霞ヶ関にあたるイギリスの官庁街である。そこで働くひとはトップであっても自家用ジェット機を乗り回すほど裕福ではなく、下位のものであっても、明日の失業におびえることはない。そうではあるが、これはきわめて階層化されていて、官庁とはいっても巨大なホワイトカラー企業とかわらず、能力主義年功序列の両方の特徴を持っているのだという。
 マーモットはここを対象として、社会的順位の差異がどれほど大きな健康上の差につながっていくかを研究した。ここで氏が見出したのは地位が上であればあるほど「健康」であるということであった。その説明として第一に考えられるのは、地位の低いものは「健康上の素行が悪い」という仮説であろう。これはホワイトホール研究においても事実であった。しかし、それなら、禁煙し、フライドポテトやハンバーガーを食べるかわりレタスやトマトを食べればいいのか? だが事実として、生活習慣の差は地位による健康格差のごく一部(多くて三分の一)を説明できるにすぎない。
 氏がホワイト・ホール研究を公表したときに、こういわれたそうである。なるほどイギリスならそうだろうね、イギリスは階級社会だから。アメリカ人もオーストリア人も自分たちはイギリスとは違い、平等社会に住んでいると思っていた。しかし同じ傾向は北米でも豪州もみられた(ただしイギリスほど強い傾向ではなかったが)。
 背が高いほど地位が高い傾向があることが、ホワイトホール研究から示されている。また、背の高い男性は背の低い男性より心疾患にかかる率は40%も低い。成人の身長は90%は遺伝できまる。一方、この150年で身長は大きく伸びた。これらは事実であるが、その解釈は様々である。これほどの短期間で遺伝子が変化することはありえないから、これは遺伝では説明できない。多くは栄養に起因するのであろう。
 オーウェルの「ウィガン波止場への道」で描かれた1900年のヨークの町が紹介されている。10代の3人の娘たちが交代勤務のためひとつのベッドを共有している。肉を食べるのは週に一度、じゃがいも以外の野菜はほどんど口にできず、ぎゅうぎゅうずめの家に乏しい衛生設備、不衛生な飲料水、なんだかダールの「チャーリーとチョコレート工場」を思い出した。現在のヨークのもっとも貧しいものであっても乳児死亡率は千分の8である。1900年のヨークの一番の金持ちでも新生児の死亡率は十人に一人であった。だから、乳児死亡率という点だけからみたら、100年前の金持ちより、現在の最貧の人間の方が幸せか?という疑問がでてくる。あなたが選択できるなら、そのどちらを選ぶか?
 もしも絶対的な貧窮から脱してしまうことができれば、そのあと問題になるのは、同じ社会の他のものとの比較である。アメリカ人かギリシャ人より豊かな生活をしているからといって、そんなことではアメリカ人は満足できない。近隣の住民と較べてどうかが問題なのである。アメリカの黒人の年収は2万6千ドルで世界の標準からみれば裕福である。しかし彼等はコスタリカキューバのひとよりも平均寿命が短い。ニューヨークの15歳の黒人で65歳まで生きるものは三分の一である。ミシガンの15歳の白人青年で65歳に誕生日を迎えるものは四分の三である。
 アマルティア・センは「不平等の再検討」で、ある立場からの平等は、別の立場からは平等ではない、ということを述べている。リバタリアンは「個人の自由の平等」を主張する。一方、状態の平等を重視する立場からは個人の権利などあまり重視はされない。虫歯予防のフッ素添加水をのまない権利はあるのか?、シートベルトをしない権利は?
 センは、所得のもつ意味は、現在どのくらい所持しているかではなく、それにより何かを遂行することができるかであるとする。それは何かのための手段なのである。センはその“何か”とは潜在能力を開花させることであり、自由であるという。「それがないとまっとうな人間としては恥ずかしい、とその国の習慣ではみなされるもの」(アダム・スミス)である必需品をもてない人間は、自分の潜在能力を開花させることができない。就職の面接のときに着ていけるまともな服をもたない人間は、自分の能力を発揮する機会を失う可能性が高い。
 アメリカ人は階級によって熱を入れるスポーツの種類が異なるのだそうである。ボールが小さいほど社会階級が高いのだ、と。ゴルフ・テニス・野球・サッカー・バスケットボールの順に社会階級は低くなるのだ、と。あらゆる球技に関心のないわたくしは、階級を超越しているのだろうか? まあ、たんに運動神経がゼロなだけだけれども。正直いってサッカーの国際試合に熱くなっている人をみると異星人をみるような気がする。
 閑話休題
 ストレスとは何か? マーモットは「あるひとにはストレスであることも、別のひとにとっては刺激となる」という話をうんざりするほどきかされてきたらしい。そうであるならストレスの測定などできるはずがないことになる。
 サバンナでライオンがシマウマを追っている。ライオンは餓死寸前で、必死にシマウマを追っている。シマウマもまた逃げるのに必死である。その場合、現在が問題である。来春使うために脂肪細胞にエネルギーを蓄えておくなどというのは無駄である。すべてのエネルギーを現在に用いるために、さまざまな自律神経系や内分泌系の調整が瞬時におこなわれる(なかでも自律神経系とカテコールアミン、そしてコルチゾールにかかわる視床下部、下垂体、副腎)。消化、成長、炎症への対応、組織の修復は先送りされる。生殖生理も抑制される。免疫反応も抑制される。
 これは短時間の反応としては合理的である。しかし、脅威が長時間持続する場合には? 糖質コルチコイドが上昇すると、血糖値があがり、インスリン抵抗性を上げ、脂質代謝にも悪い影響をあたえる。最近、問題になっているメタボリック・シンドロームインスリン抵抗性の結果であると考えられている。
 わたくしはこの「メタボリック・シンドローム」については、わからないことだらけである。そもそもその病態がよく理解できない。ここでもマーモットが書いているように、欧米ではメタボリック・シンドロームの病態の根本はインスリン抵抗性であるとされているようである。肥満がインスリン抵抗性をもたらすということであれば、肥満→インスリン抵抗性→メタボリック・シンドロームという連鎖がつながるし、事実、肥満→炎症(TNFαなどによる)→インスリン抵抗性という連鎖も提唱されているらしい。しかし、内臓脂肪あるいは皮下脂肪の量とインスリン抵抗性の間には強い相関はないとする研究もあるらしい。
 肥満(腹囲)を重視する日本の診断基準(蓄積された内臓脂肪からさまざまなアディポ・サイトカインが分泌され、それが代謝異常をひきおこし、動脈硬化を進展させるという学説に依拠する)では、肥満はないがインスリン抵抗性は高いひと(そもそもシンドロームXとはそのようなものとして提唱された)は見逃されてしまう。インスリン抵抗性→肥満という方向があるのであれば、インスリン抵抗性の簡単な指標として肥満を使うということが正当化されると思われるが、どうもそういう方向はないらしい。ここでマーモットが書いているように、慢性ストレスもまたインスリン抵抗性をあげるのだとすると、肥満だけを目の敵にしている日本の診断基準はそれでいいのだろうかという気もする。
 今年の4月から厚生労働省の音頭とりで「特定健診」というメタボリック・シンドロームをターゲットにした健診がはじまる。厚生労働省としては本気でそれにより医療費の抑制したいと思っているのであろうが、社会格差によって生じる「ステータス・シンドローム」から人々の目をそらそうという陰謀であるなどといううがった見方もでてきないとはいえないように思う。脂肪細胞に炎症があるかどうかが重要で、炎症をともなわない単なる肥満は疾患とは関係しないという研究もでてきているようである(慢性ストレスが炎症の原因となるというようなことになると面白い)。「特定健診」というのは随分と拙速なことをはじめようとしているのではないかと思う。
 アカゲザルでの研究で、飽和脂肪酸コレステロールの多い餌をあたえて動脈硬化をおこしやすくした場合、順位の高いサルは粥状動脈硬化になりにくいというデータがえられているのだそうである。順位を人為的にいれかえた場合にも同様の結果がえられたことから、これは動脈硬化になりにくいサルが上位になるということによるのではないことも証明されている。地位をもとめての戦いはストレスフルなものであろう、と。
 現在、一番確実なストレス・マーカーは早朝のコルチゾールの値であるとされている。ヒヒでは順位が低いほど早朝のコルチゾールの値は高い。また順位が低いほどHDLコレステロール(いわゆる善玉コレステロール)が低いこともわかった。
 英国公務員でのホワイト・ホール・スタディでも、地位が低いほどHDLコレステロールが低いことが明らかになっている。社会階層がひくいほどメタボリック・シンドロームの頻度が増えることも明らかになった。職位が低いほど、HDLコレステロール値が低く、中性脂肪が高く、空腹時のインスリンと血糖が高いのだそうである。中心性の肥満の傾向も職位が低いほど高いのだそうである。マーモットはストレス経路が中心性肥満の発症に関与しているかもしれないといっている。高脂肪食で粥状動脈硬化がおきるのは事実である。同時に、社会的な地位もまたそれのおきやすさとかかわるのである。
 ストレスの定量のためにコルチゾールを測定することは、その日内変動を考えると早朝就寝中に測定する必要があり、実用的ではない。しかし、あなたはストレスを感じていますか?という質問ではストレスの推定には不十分である。それよりも「自分はどのくらい健康だと思いますか?」という質問に不健康と回答するひとは、ストレスを感じている可能性がずっと高い。事実、この質問に不健康と答えたひとは死亡リスクが高いのである。
 仕事は、1)収入と人生におけるチャンスをもたらす、だけでなく、2)ある程度までは、それがわれわれが何者であるかを決める。またそれは、3)社会的地位を規定しているし、4)われわれの人生の非常に多くの時間をどこで過ごすかを決めてしまう。
 社会的に成功しているひとに、仕事とストレスについて質問すると、自分がいかに忙しいか、ストレスを感じているかを滔々と述べるであろう。しかし、仕事が単調だとか、退屈だとかはまず答えないはずである。やることがたくさんあるというストレスは問題にはならず、どの程度仕事が自分のコントロール下にあるか?、努力と報酬のバランスがどうかという点が、健康にかかわるストレスと結びつく。
 以上は主として男性の話であるが、女性の場合には家庭を自分がコントロールできているかが大きな問題となる。
 そしていうまでもなく、失業とはコントロールの喪失そのものである。同じ社会階層であっても、失業しているひとの死亡率は就業しているひとより20%も高い。さらに就業していても、そこの雇用が不安定であることを自覚している人たちの健康状態は、安定した職場の人よりも悪い。
 この辺りを読んでいて、すぐに想起したのが高橋伸夫氏の「虚妄の成果主義」である。これは日本的な年功制度を賛美した本で、高橋氏のいう「見通しがきく」ということと、本書でマーモットがいう「仕事をコントロールできる」ということには深い関連があるように思った。たぶん、日本の年功序列制度と終身雇用制度は、健康のためにはとてもよい制度なのである。
 わたくしは半ば本気で日本人の平均寿命が世界一であるのは、年功序列・終身雇用制度とそれと表裏一体の専業主婦という制度のためではなかったかと思っている。すくなくとも日本の医療と医療制度が優秀であるからなどというのは嘘の皮であろう。あるいは日本の医療制度で、病気でもなんでもないひとが気楽に医療機関にかかれて「何でもないですよ」といってもらえるのが効いているのだと思っている。高度医療の分野で日本の医療が優れているとはとても思えない。
 
 インターネット上で本の感想を書き始めたころ、中村哲氏の「医者 井戸を掘る」をとりあげたことがある。中村氏は医者であるがアフガニスタンにいって医者をやらずに井戸を掘ることをはじめてしまった人である。最近では水路を開くことまでしているらしい。途上国においては医者をやるより政治家になったり土木建築にかかわるほうが、よほど世の役にたつわけである。
 本書でもいわれているように、国の経済的な発展がある一定レベルに到達してしまうと、もはやそれ以上の経済成長は健康レベルの増進とは結びつかなくなってしまう。公衆衛生という学問が寄与するのは主として途上国であると思っていた。本書でしめされたような知見を公衆衛生というのはどうかは問題であろうが、ここでいわれていることは、先進国においても、健康と社会の仕組みは決定的なかかわりを持つということであり、血圧を管理したり、コレステロールを下げたりするよりも、信頼関係のある社会を形成するほうが、よほど健康のためにもいいかもしれないということである。
 そしてもう一つの潜在的なメッセージとしては、心臓とか肺といった内臓の病気であってもそれに頭が(つまり脳が)深く関係しているのだぞ、ということがある。これはかつていわれた、「病気をみるのではなく病人をみろ」とか、「全人的医療」といった、わかったようでわからない、いささか宗教がかった原則論あるいは精神論ではなく、とても具体的な問題として、われわれ臨床医は患者さんの本当の病因を全然みていないのかもしれない、ということである。本書の比喩を用いるならば、鞭でたたかれているひとに鎮痛剤を処方しているだけかもしれないということである。社会機構という鞭は脳に効いてくるわけである。そして本書でもいわれているようにストレスのかかりかたというものは現在の医療では簡単に測定できる指標はない(もちろん、測定できたとしても、それに対する有効な処方箋は発行できないのだが。また測定できるようになったとしても、精神安定剤が濫用されるだけになりそうに思うが)。それがないからこそ、まだ医療が大きな顔をしていられるのであって、実は現代の医療は大きな壁に直面していて、個々の患者に対応する医療よりも、社会全体に働きかける方向のほうがはるかに有用性が大きいという、途上国と同じ状況にふたたび直面しているのではないかということである。
 臨床医学というのは、個々の患者さんに個別に対応していくという慎ましい営みであることが最大の美点であると思うけれども、それのしていることは、多くの場合、雨漏りしている家で、応急の対応をしているだけという場合が多いことも事実である。それにもかかわらず、なんとなくいっぱしのことをしているような気になっている点に、本書は強い反省をせまるものとなっているように思う。
 以上、述べてきたことはほぼ本書の前半部分についての感想である。後半の「ホーム・アローン」以下は、長くなったので、あらためて別に論じることにしたい。
 

ステータス症候群―社会格差という病

ステータス症候群―社会格差という病